第4話 月の欠片を拾った夜
泣きつかれると、そこにあるのは無だった。
妻と可愛い盛りの娘をいきなり失くす。それは悲しいとような言葉では表現できない。衝撃だった。そして悲しみは涙が枯れるように収まったが、そこから先はまさに無だった。ならこの家から出て行けば良いけれど。思い出が詰まった、この家からいなくなることもできない。夜景好きの美智に似て、砂羽も夜景好きになった。そして僕はコップの水に映った月を持ち帰り、月の欠片を拾ってきたたよと言って、砂羽の仏壇に供えていた。
でもそのころにはただのコップの水なんだけれど。
でもある時、僕は本当の月の欠片を拾ってしまったのだ。
そして僕は、月の欠片を拾った夜、僕はあの兎に出会ってしまったのだ。
「こんばんは。あなたですね、月の欠片を拾ってくれたのは」
「えっ」と僕は戸惑った。
さっき拾った白くて輝いていたものが、月の欠片だったとは。
そして兎に話し掛けられている。
「あれ、返していただけないんですか?」兎がすごんでくる。
別に返さないなんて一言も言っていないし。
「あっ、いえ、そういうわけでは」
「仕方がないな、確かに落としたのはこちらの落ち度ですし、ではこうしましょう。何でもあなたの願いを叶えましょう。それでどうです。あれ、お返事がないですね。いやこちらも精一杯の譲歩ですし、なにより、こちらにも予算と言う物がありまして、そんなに破格の謝礼は払えないんですよ」
「あっ、いえ、そういうことではなく」
「じゃあ何なんですか。ごねて謝礼をつり上げようとしてもダメですからね」
「あっ、いえ。あっ、どうぞ」と僕は月の欠片を兎に渡した。
「ああ、これこれ、いやー良かった。で願い事は何にします?」
「えっ、ああ、じゃあ、妻の美智と娘の砂羽に会いたい」
「えっ、この間お亡くなりになった奥様と娘さんですか?いやーそれは」
「出来ないんですか?」
「いえ、そんな事はありません。でも、おすすめ出来ないな」
「やっぱり出来ないんですか?」
「だから、そんな事はありませんて。でも」
「でも何ですか」
「いやー」
「本当に後悔しませんか?」
「もちろん」
家に帰ると、誰もいないはずの部屋の電気が付いている。
僕は慌ててドアに手を掛ける。
鍵は開いていた。
自分で鍵を開けなかったのは、久しぶりだ。
「あなた、お帰り」
「パパ、お帰り」といって砂羽が、僕の足に抱きついてくる。
僕の頭は、二人が亡くなる前に変わる。
「砂羽。ただいま」そう言って小さな娘を抱き上げる。
「どこ行っていたの?」美智が言う。
「うん。うん」
「今日は鍋だよ」
「へー、三人で鍋?」
「そうだよ。なに、また鍋かよって、三人で食べるにはいいんだよ」
「うん、そうだね楽しみだ」
「やだ、なに、その楽しみだなみたいな反応。嘘くさいな。年中鍋だったでしょう」
「ハイ」と美智が多めの肉の入った器を僕に渡す。
「こんなに肉盛ったら、肉なくなるだろう」
「違うよ。砂羽の分も入っているの。自分だけで食べようとしないでよ」
「そうか」僕は美智のよそった白菜や肉を、砂羽用のお椀に分けると砂羽に食べさせる。
「砂羽、あーん」
「パパ、自分で食べられるよ」
「そうなの」
「なに寂しそうな顔しているのよ。砂羽がもっと大きくなって、パパなんか嫌い、なんて言い出したら、あなた生きて行けないわね」
「えっ、そんな事が起こったら。本当に生きて行けない」
「砂羽、パパを捨てないでね」
「うん良いよ。じゃあ砂羽、パパのお嫁さんになって上げるね」
「本当か」
「コラコラ、パパのお嫁さんはママだぞ」そう言って三人で笑った。
食事のあと、美智が砂羽にでんぐり返しを教える。
「砂羽、違うよ、見てな」と言って、僕が狭い部屋ででんぐり返しをする。
勢いあまって食器棚の上の、美智と砂羽の茶碗が落ちて、割れた。
「もう、気をつけてよ」と、未智が言う。
でも目は笑っている。
「ごめん、砂羽、怪我はないか?」
「あたしの心配はしないのかい」
「ああ、美智も」
「もう、取ってつけたように!」
夜は三人で川の字になって寝た。
「パパ、なんかお話しして」
「コラコラ砂羽、明日は早いんだから、パパだって仕事なんだから」
「やだ、やだ。お話、お話」
「いいよ砂羽。むかし、むかし砂羽という可愛い女の子がいました。パパは砂羽の事が大好きで」
「ママはいないの」と美智。
「パパはママも大好きでした。すると砂羽が「パパ」と言って僕に抱きついて来た。するとそれに被さるように美智が抱きついてきた。「あなた」
「砂羽。美智」
「パパ、砂羽の事忘れないでね」
「忘れるもんか」
「あたしの事は、忘れていいよ。でも幸せになってね」
「忘れられるわけないよ」そこまで言って、僕は強力な眠気に襲われた。
朝の光に目を覚ますと、僕はベッドで一人で寝ていた。
そこには、初めから、砂羽も美智もいなかったかのように。
僕はあまりの喪失感に苛まれながら起き上がった。
昨日のことは、月の欠片を拾ったことも、兎に会ったことも、みんな夢だったのだろうか。よろよろと進むと食卓の上に二つに割れた、砂羽のキャラクターの茶碗と、美智が旅行先で気に入った、と言って買った茶碗が割れた状態でおいてあった。
でんぐり返しが、夢ではなかったと思った瞬間、僕はその二人の茶碗を胸に抱き、泣き崩れた。
「だから言ったのに、後悔しませんかって」どこからか、昨日のうさぎの声が聞こえた。
「思い引きずるのは、忘れるより辛いのに」
でも僕は砂羽と約束した。
いくら辛くても、忘れないと、僕は泣き崩れながら、それだけは強く誓った。
月の欠片を拾った夜 帆尊歩 @hosonayumu
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