第3話 退職代行
月の欠片を拾った夜は、いつにも増して、会社を辞めたいと思う夜だった。
でも月の光は偉大だ。
いつもは見るだけで憂鬱になる職場の通用口兼、駐車場は、月の光のブルーに照らされて、なんか、月でも愛でようなんて気にさせられた。
だから僕も気晴らしに、職場のみんなが帰った後一人で、お月見でもしようなんて気になったが、そのブルーはさらに僕をブルーにさせた。
所詮辞めると言い出せない。
言ったからと言って、辞められるとは限らない。
深い後悔の念がわき、そうそうに引き上げようと考えている時だった。
ブルーの空から、丸い物がゆっくり、ゆっくり落ちて来た。
いや落ちると言うより、ヒラヒラと降ってくる感じ、それは一つまた一つ、ブルーの空とのコントラストでとても美しかった。
丸い物は自動車のハンドルくらいで、とても薄かった。
拾い上げてみると、餅?ちょっと折りたたんで僕は一枚鞄にしまった。
なお何枚か落ちて、突然止まった。
いや、やんだ感じ、とりあえずよく分からないから拾い集めてみる。
すると
「やめて触らないで」という高い綺麗な声が響いた。
声の方を向くと、いつの間にか、全身淡いブルーの服を着た少女が、でっかいサンタクロースのような袋を背負って、浮遊していた。
普通は驚くんだけれど。
その時の僕は冷静だった。
「この変な物は君の?」
「私のでは無いけれど、わたしが拾い集めているの」
「ひどいな、集めてあげていたのに」
「集めてくださったんですか。ありがとうございます。失礼なことを言って申し訳ありませんでした」
「いえ」
「これはなに?」この餅は、なんて言うと一枚鞄に入れてしまったのがばれるので、とぼけるつもりで尋ねてみた。
「月のウサギ様はお餅を付いて、それを貼り付けて月を作っているんです」
「えー、月って、月のウサギがついた餅で出来ているの」
「はい。でも、うさぎ様は下品で、恥知らず、いつでも偉そうに振る舞って、がさつだから、ついた餅が、月に貼り付けても、剥がれてくるの。
で、その剥がれた餅を回収しているのが私です。
粗野で、下品で、横暴で誰からも嫌われているウサギ様の、尻拭い、いやサポートをしております。
月の精ルナと申します」
「あ、ああ、よろしくお願いします。でも餅なら、ほおって置けばいいんじゃ、誰か食べるでしょ」
「いえそれが、そうもいかなくて。この餅を食べると一つ願いがかなっちゃうんですよ。一つ二つならともかく、アッいえ、一つでもだめなんですが。そんなに願い事がかなっちゃうと社会秩序が保てなくなるんです。そんなことも分からないんです、馬鹿ウサギ、アッ言えウサギ様は」
「そんなにウサギのことが嫌いなの」
「いえ、いえ、とんでもないです。ただ私は、この不毛な職場からいなくなりたい、ただそれだけです」
「じゃあさ、ルナさんがこの餅を食べて、退職したいと願えば」
「そこが世の中うまく出来ているもので。自分のことでは願いは叶わないんです」
「ああ、そうなんだ」
「ごめんなさい、急ぎますので」と言うと、ルナは優雅に回転すると、餅がヒラヒラ降ってきた時のように、軽い渦をまきながら、ルナのまわりを回り始めた。
それは降ってきたとき同様、美しかった。
僕は自分の鞄を押さえた。
一枚かくしているのだ。
でも僕の鞄の餅は、全く動かず、ルナは踊るように自分のまわりに浮遊している餅を大きな袋に入れていく。
そしてフワフワと飛び跳ねるようにいなくなった。
妖精というのはあんな風に、動くんだと変なことに感心した。
そういえば鞄の中にしまった一枚の餅、なんで、ふわっと浮いて、あの渦の中に、入らなかったんだろう。
まあ、いいか。
待て、自分の願いが叶わないならせめて。
僕は餅を一気に食べると、心で強く願った。月の精ルナを、退職させてくださいと。
だからと言って何もかわらなかった。
やっぱり、願いが叶うなんて事はないんだ。
騙されたかな、と思っていたら、次の満月の夜、世界には、大量の月の欠片が落ちて来た。
どうやらルナは無事、退職出来たと見える。
でもこの大量の月の欠片は、いやそれより、これを食べたら、一つ願いがかなってしまう。でも世界秩序は整ったままだった。
まあ確かに願いが叶うと知らなければ、こんな得体の知れない物を食べる物好きはいない。結局、世界は何も変わらなかった。
ただそれから満月の夜は賑やかになった。
世界には大量の月の欠片が舞い落ちてくるようになった。
仕方なく、それ専用の清掃チームが各行政機関で組織されて、満月の夜は町中を清掃車が行き交うようになった。
これだけの作業をルナは一人でやっていたということだ。
最近ちょっと思うことがある。
ルナはわざと餅を一つ僕に与えたのでは無いか。
僕を退職代行に仕立てるために。
先を越された。
僕も辞めたかったのに。
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