後編:保健室開けといてね

それほど広くはないベッドに二人で並んで座れば、自然と距離も近くなる。一応とばかりに空けた拳一つ分の距離は、しかし松野さんがすぐに詰めてしまった。


「せんせーはさー、夏休みも学校いるのー?」


彼女は緑茶の入った湯呑を両手で持ったまま私の左肩にもたれかかってくる。制汗剤のものだろうか、柑橘系のさわやかな香りがふわりと漂ってくる。


私はそれを気にしないように務めつつ、彼女がもたれている逆側の白衣の裾を手持無沙汰な右の指先で弄りながら答える。


「そりゃ、あなたたちと違って働いてるからね」


「ふーん、大人ってすごいねー。私には無理だー」


「松野さんもそのうち大人になるのよ」


「えーやだなー、ずっとせんせーとこうしていられたらいいのにー」


きっと深い意味はないのだろう。気まぐれで飄々としている彼女は、時折息をするみたいに自然にこんなことをのたまう。


それなのに私の心の奥からは、何だかとてもむず痒いものがこみあげてきて落ち着かない。……それこそ、足元にじゃれついてくる野良猫みたいに、ほどほどに愛でるくらいで終えられたらいいのに。


「そういうことは好きな相手に言いなさい」


彼女と目が合わないよう、窓の外を眺めながら返す。もう大半の生徒は下校したのか人通りもなく、あるのはどこからか聞こえてくるセミの鳴き声だけだ。


「好きだよ、せんせーのこと」


聞き間違いかと思った。だって、その一言には、何か言葉にするのが難しい、いつもと違う色がついていた気がしたから。


でもありえない。ありえちゃいけない、そんなこと。


だから、適当に流して、話を変えようとしたのに。


「はいはいありが――」


言い終わるより先に――彼女の髪色と同じ瞳が、私の視界いっぱいに広がっていた。


いつの間にベッドを降りたのか、窓を背に私の視線の先に回り込んだ松野さんが、私に向かって身を乗り出していて。


ふわりと香るだけだった柑橘系の匂いが濃くなって。


アーモンド形の瞳が瞼の裏に隠れるのが、まるでスローモーションのように見えて。


瑞々しくやわらかい唇が、私の唇に、触れた。


息が止まる。


時間が止まる。


目に痛い真昼間の日光も、やかましい蝉の声も、何もかも気にならない。


ただただ暖かくて、柔らかいその感触だけが、私の脳内を埋め尽くしていた。


「……ね、せんせ」


少し離れたところから聞こえた松野さんの声に、私はハッと我に返った。


気づけば彼女は鞄を片手に、保健室の扉の前にこちらに背を向けて立っている。


「また明日来るから、保健室開けといてね」


表情は見えなかったが、真っ赤な耳をした野良猫は、それだけ言うとスカートを翻して走り去っていった。


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保健室の野良猫 ひっちゃん @hichan0714

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