015

 夜道を歩くと、心が忙しい。

 微睡と別れ、僕は一人で大して重くもないカバンを背負って歩いた。ラーメンを食べたので少し苦しい。

 僕は今から、契美さんのいる僕の家に帰る。

 精神を病み、ほとんど口も聞けない状態となった彼女は今何をしているだろうか。

 ベッドに横になってテレビを見ているだろうか、それともコーヒーを淹れてぼーっとしているだろうか。

 どちらにせよ関西弁で僕に優しい言葉をかけてくれる契美さんはもういない。

 微睡に話したせいか、あの頃の記憶が少し鮮明になった。思い出すと、思わずクスッと笑ってしまうような思い出。思わず涙がこぼれ落ちる。

 くたびれたワイシャツでそれを拭って僕は歩き続けた。

 街灯が涙を通してプリズムのように視界を突っ走る。

 辰巳さんは僕が高校に入学してからすぐに、飛行機事故で亡くなった。

 中学三年間契美さんと暮らして、契美さんが辰巳さんに好意を持っていることはガキの僕でもすぐにわかった。

 たまに群馬に遊びに来た辰巳さんも同様に契美さんに好意を持っていたと思う。

 うちに来てから、契美さんはもともと僕の両親が寝ていた部屋で寝ていた。たまに遊びに来た辰巳さんはベッドがないからと言って契美さんと寝ていたが、今になって思えば愛人関係以外の何者でもなかったと思う。

 悪く言えば、僕が辰巳さんから契美さんを奪ったのだ。突然現れた少年に愛人を奪われ結局若くして事故死、悲惨すぎる。ここまでくるともう、申し訳ないと言う気持ちを通り越して、しょうがないだろうという自分を憐れむような感情が生まれてくる。

 雨が降ってきた。

 小雨だが、この調子で降り続けられると家に到着する頃にはびしょびしょだ。

 少し走ろうと思ったが赤信号だった。

 信号待ちの時間にも雨は勢いを増すばかりで、歩道の青信号が点滅する頃には濡れたアスファルトが光を反射していた。

 僕はぼんやりと前を見る。

 何を営んでいるかわからない古めのビルディングが並ぶ狭くもない交差点。自分がこれから渡る横断歩道の先、【何か】が倒れているのが見えた。その【何か】に僕は異常なほど意識を持ってかれた。それが何なのかさっぱりなのだが、とにかく僕はそれを確かめたくて仕方がなかった。

 信号が青になると僕はその【何か】に駆け寄る。運動不足のせいか、すでに息が上がっていた。全くもって情けない。

 黒いボディに、日光に当てられ霞んだオレンジのワンポイント。転んで傷がついたサドル。雪の日に漕いでグニャんとひん曲がったペダル。熱で溶けたバーエンドバー。

 雨と泥に濡らされたその【何か】は、今度は人ではなく、僕の【クロスバイク】だった。

 今朝会社に遅刻しそうになっていたOLさんに貸した、僕の自転車。

 なぜこんなところに、という思考から僕は建物を見上げる。

 シャッターは落ち、窓は開き、中と外の区別もつかないような十階弱の建物。

 到底現代人が住める環境ではないので、ここがOLさんの自宅である可能性は皆無。

 次に僕が考えたことは自分でも恥ずかしいほどスピリチュアルなもので、OLさんはかつてここにあった会社に通い続ける幽霊だ、という馬鹿馬鹿しい説だ。

 そんな碌でもない考えをする自分に嫌気がさして僕は倒れていた僕のクロスバイクを起こした。

 この時の僕はOLさんとの連絡手段は途絶えていたし、こちらからコミュニケーションを取るのは不可能だったので、運良く手元に帰ってきたことに満足してさえもいた。借り物を不法投棄という形で返却するOLさんはほんとにヤベェやつだったのだなと思った。

 しかし――ハンドルを握りサドルに跨ろうと足を浮かせた瞬間、ハンドルとサドルをつなぐボディに、ピンクの付箋が貼ってあるのを見つけた。辞書に貼るようなものではなく、メモや書き置きをするような正方形の付箋。

 夜の闇の中で気づかなかったが、その付箋にはボールペンで文字が書かれていた。

 僕は雨に濡らされ滲んだその字を、スマホのライトで照らして読む。

『コジョウさん、ありがとうございました。申し訳ございませんでした。俯木紀子』

 OLさん改め、俯木紀子さんのメモ。

 漢字がわからないからであろう契美さんと僕の苗字がひらがなで記述されていて、そして感謝、謝罪。

 違和感が僕に襲いかかる。

 自転車の返却の際の書き置きとしてならば『申し訳ございませんでした』とは書かないのではないか。そもそも高校生である僕に対しフル敬語って。いや、それは思い返しても、『そういう人』だった気がする。


 そういう人だったな。


 僕の足は考えるよりも先に走り出していた。


 空いていた窓を勢いよくこじ開けビルの中に侵入し、机や散乱している文具を踏め付けながら目に入った階段を駆け上った。

 二階、三階、四階と、リズムよく階段を上り続けていたが、途中で疲れのせいか滑り止めのゴムに躓き派手に転げ落ちる。

 痩せた腕や胸板を階段の角にぶつけながら踊り場で落ち着いた。

 無意識に大きく息を吸うが、肺が膨らむと肋が痛んだ。

 左手の指も突き指をしてしまったのか、触れると激痛が襲う。ひょっとすると折れているかもしれない。

 しかし痛みにかませてここで寝ていたら、もっと恐ろしい音が起きる予感がしたので僕は足を引きずりながらも階段を上り続けた。

 

 屋上のドアは開いていた。


 雨が降る夜中の闇に濡れ、遠くの街灯の光を反射するOLさん、俯木さんの背中が、そこにはあった。

 小雨はすでに大雨へと化していた。

 俯木さんはこちらには気づかず、ただ道路を見下ろしている。

 その表情は見えないが、笑ってはいないだろう。ひょっとしたら泣いているかもしれない。今は泣いていても雨にかき消されてしまうが。


 僕は少し息を休ませてから、全力で走った。

 ばちゃばちゃと音を立てて、俯木さんに駆け寄る。

 その足音を聞いて、俯木さんは振り返る。

 驚いた顔は、同時に悲しみに泣いていた。雨が降っていても、涙を流しているのが僕には分かった。


 距離は五メートルほど。

 細い身体を掴んでこちらに引き戻してやろう。

 僕が全力の速度で彼女の細い腕を掴もうと腕を伸ばした瞬間――、大雨の音をかき消す劈くような、金切り声とも似た声が僕の動きを止めた。


「やめてよおおおおおお!」


 誰が声をあげたのか分からなかったがしかし、この場にいるのは僕と彼女の二人。僕を拒絶したのは間違いなく俯木さんだった。


 なぜ僕を拒絶したのか考えた。

 それは彼女が死にたいからだ。

 僕に命を救われたくないからだ。

 このビルから飛び降りたいからだ。


 僕は立ち止まる。


 俯木さんは動き出す。

 

 僕の目はすでに俯木さんを見ていない。

 過去を思い出していた。

 両親を思い出していた。

 今は亡き僕の両親を。

 死んだ僕の両親を。

 


 『自殺』した僕の両親の死体を。




 再び僕は動き出す。

 びしょ濡れになって重たくなった制服にのしかかる重力に逆らい、俯木さんを追いかけるように、後に続くように。屋上のコンクリートの床を蹴り、宙に浮いた。


 大粒の涙に打たれながら僕は必死に飛びそうになる意識を保ち、俯木さんに追いつき、彼女の頭を抱くような姿勢をとった。


 その時にはすでに彼女の意識はなく、僕の意識もなかったのだが、愚かしくも、恐怖ではなく温かい気持ちが僕を満たしていたのは覚えている。

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不幸蒐集人間。 テタンレール @wasdking

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