第20話

 その晩、スーツ姿でげっそりした男が一人、もう何軒目にもなる居酒屋の引き戸を引き開け、中を見回すや否や、がっくりと大きなため息をついた。


「…………っんとにあんたは」


 男、日比野の視線の先には、真っ赤な顔で徳利を握っている上司の姿がある。

 

「どんだけ探したと思ってんスか、佐久間さん」

「………先に帰ってなさいと言ったでしょう」

「帰れるわけないでしょ。身投げしそうな上司ほっぽって」


 身投げなんかするわけないでしょう。

 そう答えたはずの声は、本人も驚くほど小さく弱々しかった。

「……おじちゃん、コーラね」

 そう言って薫の横に腰掛けた日比野は、あ〜、あつ、と言って天井を仰ぐ。本当に自分を探し回ったらしい。軽薄そうだと言われがちな日比野だが、実は情に厚く世話焼きであることは薫も知るところだ。


「佐久間さんは何で、あの子の前だとあんなにポンコツになっちゃうんでしょうねぇ」

「………」

「ヤクザみたいな連中の中に、一瞬も躊躇わず飛び込んで行った時は、あーこの人本気であの子が好きなんだろうなって感心したのに」

「分かってますよ。僕が最低なことくらい」


 え。と日比野が硬直したのも無理はない。

 佐久間薫という人間は、誰かに頭を下げるのが心底――本当に、心底嫌いなのだ。

 だからそんな隙を与えないほど何事も完璧にこなしてみせる。




「………彼女は、本当の自分は上品でも淑やかでもないと言いましたけど、そんなの、僕だって知ってました」



 もはや言葉もなく驚愕し続ける日比野。

 薫は悔しさを吐き出すように続けた。


「七緒さんはまったく覚えてませんけど、僕は一度、客としてとと屋に泊まってるんです」

「え、そうだったんスか」

「まだ社会人になりたての時ですけど。広島でしこたま飲まされて、気付いたら尾道の駅前で突っ立ってました」



『うそ!お兄さん帰る家ないの?じゃあうち泊まってきなよ!』


 そこに自転車で通りがかったのが、あの頃はまだ大学生だった七緒だった。



「とんだ痴女もいたものだと思いましたが、終電もとっくになくなっていたので致し方なくついていきました」

「……薫さんって、酒の失敗はマジで多そうっすね」

「失敗じゃない」

 ぐいっと、お猪口を煽って、薫は言った。



「あの日僕は、坂の上の民宿で、心の底からあったかい食事を出してもらったんです。あの子がつくった、一生で一番美味しい、鯛茶漬け」



 薫が「とと屋」に行くたびに、心底やるせない思いになるのは、あの輝かしい場所の終わりが見えるからだ。

 一家三人でする商いには限界がある。

 いずれあそこは、のれんを下ろさざるを得なくなる。


「だったらいっそ、彼女も僕も目の届かない、遠いところで終わって欲しい。そう思ったから彼女を東京に連れてこようと思ったんです」

「………じゃあ、何でそれあの子に話さなかったんですか。それ全部知ってたら七緒さんだって……それに性格のことも」

「言えるわけないでしょう――――!僕のために必死で淑やかをとりつくろう彼女が可愛くて、愛おしくて、余裕ぶってたことなんて!」


 ぼと、と薫の目からこぼれたのは大粒の涙だった。


「あ〜〜!!ちょ!もう、泣かないでくださいよ薫さん!三十四にもなって!」

「うるさい!お前はとっとと東京に帰れ!」

「明日帰るんスって一緒に!――――そんで、リベンジ、するんでしょ」


 日比野の言葉にぴたりと薫も口を閉ざす。

「障害一つで諦めるなんて、佐久間さんらしくないじゃないですか」


 挑発するように口角を上げた日比野。

 しばらくして顔を上げた佐久間は、赤い目元を拭い、薬指で眼鏡を押し上げた。


「――……当然です。このままでは終わらせません」

 まんまと部下の思惑に乗った形である。でも、今日はそれでいい。

「必ず彼女の心を取り戻して見せます」

「よ!その意気です!」

「それにあの男、春灯亭の―――この僕のプライドに土をつけた罪は重い……!必ず思い知らせてやります!」

「台詞が負け犬」

「今日はいいんですよ!さあ、今夜は飲み明かしましょう、日比野くん!僕が特別に奢ります」

「いや、俺はもう寝るんでホテルに」

「飲め!」



**





 湯神祭から数日後。秋の香りが微かに感じられる昼時の「とと屋」に、彼らはいた。


「…………ここ、なぁんか和むのよね。中毒性があるっていうか」

 美顔器を顔面に当てながらぼんやりと呟く簓。


「木の匂い?あれがいいんじゃないかな。僕たちんとこ基本和室じゃん?」

 ゆらゆらと揺れる揺籠タイプの椅子でまるくなる細森。


「あと、居心地の良さが異常。リピ八割は伊達じゃねーわ」

 縁側で足を伸ばし、ぽりぽりと金平糖をかじる梶尾。膝の上には野良猫がいる。


「ねえ七緒ちゃん、ここ最大何泊できるの?俺今日も延泊したいんだけどいいかな」

 書棚から持ってきたであろう文を何冊か積み上げている丸城。



「お前らいい加減にしろ」


 そして、だらだらと猫のようにダイニングスペースでくつろぐ道後若旦那衆の面々に、怒髪天を突いているのが恭弥である。心なしか普段の澄まし顔にいくつもの青筋が浮かんでいる気がする。


「どうして俺が仕事で帰るのにお前らが延泊できると思ってるんだ。全員帰るに決まってるだろ。早く支度しろ」

「おーぼーおーぼー!」

「だってあたしらアンタより忙しくないもの。ねー?いいわよね、七緒?」

「私は別にいいけど……」


 ほらねー!いえーい!とハイタッチをする簓たちの手前で、恭弥が悲壮極まりない顔でこちらを見てくる。

 

「………七緒」

「だってお客さんだもん。追い出せないよ」

「……」


 完全に拗ねたらしい。

 道後一の老舗の若旦那も困ったものね、と不機嫌顔で黙り込む恭弥の頭をぽんぽんと撫でる。

「……は」

 目をぱちくりさせて固まる恭弥に、七緒はしたり顔を向けて言った。


「これは、他のお客さんにはやってないから」

「……」

「言っとくけど、今回は特別よ!神楽を頑張ったご褒美」


 子供扱いしすぎたか、と、まさかこれで機嫌が直るとは思っていなかった七緒だが、恭弥の機嫌は見事V字に回復したらしい。

「ご褒美の基準は?十八連勤も対象に入れて欲しいんだが」

 と詰め寄ってくるのをハイハイといなしながら、七緒は彼の背後に、とんでもないものを見て絶句した。



「…………は??」



 昼のワイドショーにデカデカと映し出されたのは、紛れもなく、恭弥に肩を抱かれて歩く自分の姿。次のカットでは、ブラボー!の声援と一緒にサムズアップする間抜けな絵まですっぱ抜かれている。

 七緒は恭弥を押しのけ、テレビにかじりついた。


『こちらの女性、今大人気の道後若旦那衆、その中でも群を抜いてファンが多いとされる春灯亭の十八代目、桐谷恭弥さんの恋人だと噂されていますが、実際のところはどうなのでしょうか?』

『とと屋、と書かれた前掛けをしていますね。これ実は、松山ではなく、しまなみ海道を挟んだ尾道の民宿のお名前なんです!そもそも民宿とは民間の………』



 じりりりりり、とけたたましく電話が鳴った。

 のれんの向こう側で橙子が電話に出る気配がしたが、明らかに宿泊関係のやりとりではない。電話を切ると、また鳴り始める。切ると、また鳴る。



 ――――ぶつっ

 電話線を引っこ抜いたのは、さっきまで縁側にいたはずの梶尾だった。


「当面予約はメールとネットで受けろ。今の時代十分だろ」

「あ……はい……」

「玄関前と敷地内にはいくつか監視カメラも仕掛けなきゃダメよ。手配しといてあげるから」

「あ、ありがと」

「七緒、ネットは?」

「え?あんまりやってない」

「ならよかった。念の為先6ヶ月くらいは見ない方がいいかも。あそこは暇人の巣窟だから」

「ねえ、そんな、大袈裟じゃ」

「七緒」


 どこかに電話をかけていた恭弥が、通話を終えるなり七緒に向き直った。


「榊に俺の仕事道具を全てここへ運んでくるように言った。悪いが、俺も延泊する」

「え!?でも」

「榊もニュースは見たらしい。そうすべきだと言ってる」

「あの榊さんが!?」

「ああ……。だから分かったろう。これはお前だけじゃない。春灯亭も関わる大きな問題だってことだ」


(そんなこと言われたって……)

 どんどん勝手に進んでいく話に完全においてかれていた七緒だが、メッセージの通知を知らせる携帯のバイブ音で我に返った。

 液晶を見るなり、黒い画面に浮ぶ派手なスタンプを見て、七緒は一瞬で血の気が引く。

 

 そこには、「帰るね!」 の文字と共に踊る、ファンシーな蛙。

 妹、詩音からのメッセージだった。

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