第19話
「へえ、七緒さんっていうんだ。かわいいね」
「尾道の民宿やってんでしょ? 俺尾道って大好き。つーかあそこ舞台の映画が好き」
「春灯亭とはいつ知り合ったんだ? この堅物惚れさすって相当だろ」
「てかあんた何で昼の演舞観てないのよ。夜より力入れてんだからそっち観にきなさいよ」
上から『道後あぶく屋』の細森さん、『Yunohana 別邸』の丸城さん、『御厨 湯蔓』の梶尾さん、『霜月ホテル À la mode』の
各々しっかり性格が違うのが売れるコツなのよ、というのは若旦那衆のマネージャーも兼任しているという簓さんの言だ。編み込んだ金髪に美麗な顔面、女性的な口調にまったく違和感を覚えさせない大人の色気には、初めて対峙した時には衝撃でふらついた。
「ごめんなさい。でも私、今日は仕事で来てるの」
「仕事? 神楽を見に来たんじゃないのか」
「ちがうわよ! だからいい加減離してってば!」
渡された四枚の名刺を握りしめながら、七緒はしっかりと腰に回る腕をどうにか引き剥がせないものかと苦心する。
七緒の頭ひとつ分ほど高い位置から、恭弥の不服そうな声が落ちてくる。
「悪いが離せそうにない。仕事相手はこの祭りにいるんだな。榊に呼ばせるからここで済ませてくれ」
片手で七緒を捕らえながら携帯を構え始める恭弥に、七緒もいよいよ呆れた。
「そんなことできるわけないでしょ? 大体、こんなことに榊さん巻き込まないで!」
「こんなことって何だ」
「っていうか、あれから電話もメールも一切してこなかったくせに彼氏面しないでくれない?」
ぴたっと、周囲の誰もが口をつぐんだ。
「……何よ」
ゆっくりと振り返ると、これまで見たこともないほど表情の消え去った恭弥の顔があった。
「――――あの糞婆」
「えっ」
「ちょっと恭弥。あんたその顔で舞台立つんじゃないわよ」
「……悪い、七緒」
簓に釘を刺された恭弥は七緒の肩に手を添えて彼女を反転させ、申し訳なさそうに、その理由を話し始めた。
*
「……じゃあつまり、あの一件の後、女将に事の次第が全部バレて、ブチギレた女将に携帯を池に投げ込まれた上、一分単位で一月先のスケジュールまで詰め込まれて身動きが取れなくなったと……?」
「本当に悪かった」
「……いやそれは……こちらこそごめんね、というか……」
まさかそんなことになってると誰が思うだろうか。
消沈した恭弥は、いそいそと七緒に新しい連絡先を渡し始めた。
「今度からはこっちに頼む」
「でも……いいの?」
「当然だ。この祭りが終わったら何が何でもとと屋に顔を出そうと思ってた。まさか君がここへ現れるとは思わなかったけど」
(……なんだ。とと屋を忘れたわけじゃなかったのね)
静かに微笑まれ、七緒はじん、と胸が暖かくなるのを止めることはできなかった。
「……ワァ。甘ぁ。恭弥さんのあんな顔見たことある人いる……?」
「何者なんだよあの子……」
七緒の携帯が震え始めたのはその時だ。
液晶には今日打ち合わせ予定の蔵元の名が記されている。時刻はすでに16時に近付いていた。
「まずい。私いくわ!」
「だからここで……」
「無理よ!言ったでしょ!」
ぴしゃりと跳ね除けられた恭弥はあからさまに落ち込んだが、続いた七緒の言葉に、今度はぴんと耳をそばだてた。
「それに、ここにいたら最前列を確保できないじゃない」
「……七緒」
「鬼面神楽、楽しみにしてるから。頑張ってね」
それだけ言って控室を後にする。
頬は火照ったように熱かったが、不思議と胸からは今朝までの陰鬱とした気分は消え去っていた。
「七緒」
廊下を歩いていると、後ろから追いかけてくる足音が聞こえてくる。簓だ。
「これだけは忠告しとくわよ」
どうやら文句を言いにきたわけではないらしい。
悪意の乗らない声に、七緒も真剣な顔で向き合う。
「恭弥と付き合うならそれ相応の覚悟がいる。特にあの家は―――特殊な家系だっていうのは間違いないから、あなたには荷が重いこともあるかもしれない」
「簓さん」
「そのせいであいつが苦労してきたのをいくらでも知ってるわ……。だから、」
「大丈夫よ」
簓の言葉を、七緒はそっと遮った。
そして、「まあ、こんなのかぶってるから心配させちゃったのよね」 と、深々と被っていたキャップを外して髪を解いた。
出口を開けながら、簓に凛と胸を張って見せる。
「私、そんなに弱くない。規模は小さいかもしれないけど、あなたたちと同じ、一つの宿の未来を背負う女だもの」
「……七緒」
「だから、逃げも隠れもしないってことよ!」
そうだ、と声を上げた七緒は、カバンからビニールに入った前掛けを取り出し、いそいそと腰に巻きつけ始めた。「とと屋」のロゴとかわいらしい鳥がプリントされた前掛けだ。
「これ、今日蔵元の手伝いさせられそうになったら絶対つけて働こうと思ってたの。動く広告塔作戦よ。今夜はこれでみんなを応援することにするから」
「……あんた、恭弥にバレたくなかったくせに、そんなの持ってきてたの?」
「あたりまえじゃない!」
簓の声が震えていることに気付かず、七緒は当然のように答えた。
「浮かれた私情より売上優先!」
清々しく言い放った七緒に、簓が崩れ落ちるように笑い出したのはいうまでも無い。
(―――あいつが惚れた理由、なんか分かった気がするわ)
「ほら」
目尻を拭いながら、簓は一枚のチケットを差し出した。
「これは?」
「来賓席のチケット。一枚あげるわ」
「え!?でも」
「いいのよ。言っとくけど、道後の鬼面神楽を最前列で観るなんてにわかも同然だから」
そこまで言われてしまうと、受け取らないわけにはいかない。
ありがたく頂戴した七緒は、そういえばと気になっていたことをひとつ尋ねた。
「簓さんがさっき言ってた、昼の方が気合いが入ってたって、どういう意味?」
「あー、あれね」
すっかり忘れてたとでもいうように、簓が斜め上を向いて答える。
「今回、演出も衣装も全部私が手を入れたの」
「すごい……」
「趣味でね。でも、夜の鬼面神楽ときたら、そんなの必要ないんだもの」
「……え?」
「観れば分かるわよ」
ぱちん、と華麗にウインクをして颯爽と歩き去っていく簓。
七緒が彼の言葉の意味を理解するのは、それから数時間後のことになる。
**
午後七時。
――――――しゃん、しゃん。と鈴が鳴る。
これだけの人間が集まる中で、その小さな鈴の音が聞こえることを、七緒は夢のようだと思った。
(………うそみたい)
舞台は道後温泉の目の前に組まれていた。
木造の建物に等間隔に並ぶ格子窓からは、ステンドグラスのごとく鮮やかな灯がともり、舞台の中央には赤々とした炎が燃え盛っている。
その後ろには、鬼の面をつけた彼らが一列に平伏していた。
一人が音もなく立ち上がる。
彼の舞が先陣を切った。
足の擦り方ひとつ、指先の動作ひとつ、無駄なものは何一つないと気付けば、誰もがその一挙手一投足に魅入っていた。
先陣を切った鬼面――恭弥に続き、一人、また一人と若旦那衆が演舞に加わっていく。笛の音や、鼓の音と合わせて、確かにそれは湯の神へと捧げる神楽に相応しい。
(だから簓さん、意味がないって言ったのね)
七緒は不意に深く納得した。
これでは確かにどんな演出も霞んでしまうだろう。
宵に白白と鶴が舞う。淡いともしびに浮かび上がる道後の街そのものが、彼らの神楽を、神々しく、荘厳に、引き立てているのだから。
演舞が終わり、面を外した若旦那衆が一列に並んだ。
地を揺るがすような拍手喝采と大歓声の中で、恭弥は澄んだ面持ちのまま、どこか迷子の子供のような目をしている。
「桐谷さん!」
そんなに大きな声は出せなかった気がする。
しかし恭弥は、確かにはっと七緒を見たのだ。
「…………っブラボー!!」
七緒は咄嗟に立てた親指を、サムズアップの形で天に突き上げた。あの演舞を観た上でどんな声援なのよ、とすぐさま猛烈に恥ずかしくなったが、意表をつかれたような恭弥が子供のような顔で笑ったので、これはこれで、よかったと思うことにする。
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