第18話

「七緒さん、ほら、そこ。また」

 薫の細い指先が、ケースの中の赤い金魚を追いかける。

 七緒が残念そうに敗れたポイを見せれば、薫は呆れたような、困った妹に向けるような目で七緒を見て、彼女の頭を優しく撫でた。


「残念ですが、また来年、ですね」


 あの時の薫は、まだ、七緒への想いが残っていたと思う。ほんの少しは。

 だって彼はこんなふうに、直接的な言葉で七緒を罵ったりはしなかった。



「これまで私はあなたのことを、気品のある淑やかな女性だと錯覚してました。それがあなたの策略だったとしたら、なるほどお見事。よく五年も隠し通せたものです。失望しましたよ」


 七緒に反論の余地を与えるつもりなどないように、薫の口からはするすると心無い言葉が連ねられる。

 凍りついたように黙り込む七緒。


「挙句、どこで知り合ったかはしりませんが、彼のような相手を引き当てるとは……。あの親密感だ。もしかして、僕と会っていないうちから唾でもつけていましたか?」

「そんなこと……!」

「ああ、結構。言い訳など聞きたくありません」


 顔を上げて反論しようとした七緒は、薫のこれまでになく怒りに満ちた眼差しを受け、ゆっくりと口を閉ざした。

 ようやく呟けたのは、こんなことだ。


「………どうしてあなたが、そんなに怒るのよ」


 ぐっと滲みそうになる涙を堪えて目を見張る。声も震えないよう、必死で喉に力を込めた。


「薫さんだって、詩音を、妹を選んだじゃない」

「……! それは」

「あなたなんかに何も言われたくないわ!理想の女性じゃなくて悪かったわよ!でも、私、気品があってお淑やかだったことなんか、一回もない!」


 もう無理だ。ぼとぼとと溢れる涙を、絶対に彼にだけは見せたくないのに。七緒の目からは悔しさと悲しさに押し出されるようにそれが流れ出してしまう。



 薫が「とと屋」をどうにかしようと思っていたことはもういい。七緒だって、少なからず薫を当てにしていた。

 でも、七緒が彼に抱いていた想いまで疑われるのは許せない。

 それではあの頃の七緒が、あまりにも報われない。


「本当の自分を曝け出したくなかったのは、あなたのことが好きだったからよ……!尾道まで私に会いに来てくれる、薫さんの優しさに報いたかったからよ!」


 薫の瞳が動揺に揺れる。


 七緒さん、と伸ばされた腕を、七緒は払って立ち上がった。

 屋台の裏手とは言え、全く人がいないわけではない。ちらちらと向けられる好奇の視線に晒されながらも、七緒は言わずにはいられなかった。


「でも、もういい……!とと屋のことは私が一人で守っていく。もう誰の手も借りたりしない!」

「………あなたには無理です。現に今だって春灯亭の」

「俺はとっくに袖にされたぞ」


 はっと、目を見開いた薫が七緒の背後に視線を向ける。

 次の瞬間、七緒の視界は真っ暗になった。

 背後から回された手のひらに視界を覆われて、振り向くこともできないが、そこに誰がいるかはわかる。

 周囲のざわめきに、七緒の予感はますます現実味を帯びていった。



「彼女を口説くのに、俺の持ちうる限りの全ての知識を使って「とと屋」の力になろうと言ったんだ。当主の座を降りてもいいと――。まあ、見事にフラれたが」

「…………それはまた、随分勿体ないことをしたものですね」

「君ほどじゃないさ」


 肩に何かをかけられたと思ったら視界が明らみ、あの白檀の香のかおりに包まれる。背後を振り仰ごうとしたが、キャップを深々と被り直されて、七緒はまたも俯くことになる。

 恭弥の低い声が静かに耳の奥に降り積もるうち、七緒の心音は不思議と落ち着いた。



「悪いが、彼女は借りていく。今日の俺の大切な客人だからな」

「………」

「言っておくが、君に七緒を引き止める権利はない。悔いるなら過去の自分の行いを悔いることだ」


 有無を言わさぬ恭弥の口調に、薫も押し黙ったのが分かる。

 肩を抱かれて足を進めながら、七緒はふと、恭弥が足を止めたのを感じた。

 ようやく顔を上げる。

 恭弥は綺麗に笑っていた。



「――道後へようこそ。総支配人殿」







**






「あの」

「安心してくれ。君の泣き顔は誰にも見せない」

「いや。そうじゃなくて……」

「酷い目にあったな。かわいそうに」

「桐谷さん」

「暫くはこのままここにいていい。俺が――」

「桐谷さん!!」


 勢いよく腕を突っぱねる。

 自分の顔が赤く染まり上がっているのは分かりきっているが、理由は当然、七緒を膝に乗せて白々しくとぼけた顔をしているこの男にある。

 神楽用の舞衣に身を包んだ恭弥は、なるほど、女性たちが騒ぐのも納得の荘厳さだった。


「もうとっくに大丈夫だって、言ってるでしょ!」

「………いや、まだだと思う」

「なんでよ!」

「俺が足りない」


 再び抱き込もうとする彼を必死で押しのけていると「いやぁ〜驚きだよな」 と少し離れたところから囁き声が聞こえてきた。

 はっとして顔を上げると、遠巻きにこちらを眺めてる、恭弥同様の舞衣をまとった数人の男たち。どうやらここは、彼らの控室だったらしい。


「あれが恭弥さんが熱上げてるって噂の……?」

「思ったより普通だな……」

「ってかめっちゃ拒否られてないか?」


 転がるように恭弥の膝から飛び降りた七緒は、慌てて服装を直し、その場に深く一礼した。


「部外者がお邪魔してすみませんでした!失礼いたします!」

「まあ待って待って」「もうちょっとお話ししようぜ」

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