第2話 明け方

 静まり返った夜の世界で、誰かが目を覚ました。

「……ぁ、あー……ケホッ…」

 掠れた声を確認し、その人物は自身が長い間寝ていたことを理解した。妙に頭がスッキリしている。そしてゆっくりと起き上がった。一瞬だけぐらつく視界も、次の瞬間には綺麗さっぱり霧散して体の調子は万全だ。

「……」

 自室の姿は何も変わっていない。誰かが定期的に清掃に来てくれていたのだろう。唯一の違和感はデスクの上にあるカレンダーだ。その人物の記憶から数えて、今見ているカレンダーの日付には5年の時間が刻まれている。

「……」

 さらに目を凝らした。音を立てずにベッドから抜け出し、カーテンを開けて真っ暗な空を見る。その人物の視界には死にかけの青年の姿が写った。また別の窓からは、皺の増えた隣人の姿も。彼のすぐ側には赤ん坊だったはずの見知らぬ幼女が立ち、横たわる老人の手を握っている。

「……」

 その人物はベッドサイドに置かれていた服を手に取った。着慣れたその服に腕を通している筈なのに、どこか懐かしい。淡い光では分かりにくいが、白を基調とした一級品の服装だ。昔の友人が仕立ててくれた大切な服でもある。最後にピアスを付けて身だしなみは完璧。

「……」

 自室のドアに、沢山の人物の結界が貼られていることに気づいた。朝の従者のも、昼のも、夜のもある。その人物は思わず苦笑いしてしまった。まるで閉じ込めるかのような結界だ。掃除しに来る度にこんな大掛かりな結界をかけていたのを想像すると、申し訳ないような、しかし嬉しいような笑みがこぼれた。

「……待たせちゃってごめんね」

 凛と響く声。ドアノブに触れるだけで、結界は霧散した。閉じ込める為ではなく、守るための結界だったから、中の人物の意思1つで簡単に崩れる。


「さぁ、朝を呼ぼうか」


 止まっていた時間が、ようやく動き出す。その人物の耳には、何処かの錆び付いた歯車が動き出す音が聞こえた気がした。


「さて……」

 廊下に出た朝の主は、沢山の部屋がある屋敷を見渡し、そしてすぐに両手を挙げた。降参の合図だ。

「早いね、みんな」

「「渚/主様!!」」

 足音が急に増えた。今まで一体どこに隠れていたのか、沢山の家族がその人物を出迎えた。ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、勢いに足元がぐらつく。

「おわ、ちょっと君達…勢いが凄いよ……」

 眉を下げ諭すように話すが、むしろ逆効果だったようで大きな声があちこちから聞こえてきた。

「当たり前でしょ!? 5年も寝てて! 私達がどれだけ心配したと思ってるの!」

「この馬鹿主! もう起きないんじゃないかと思ったんだから!」

「渚、ほんとに…? 本当に渚なの? 僕の幻じゃないよね」

 沢山の声と温もりが朝の主を包んだ。渚と彼らが呼ぶその人物は困ったように笑いながら、1人1人の頭を撫でる。

 そして。

「水早、大きくなったね。5年かぁ…もう大人じゃん」

__俺達の、朝だ。

 騎士の青年の目に映るその人物は、不思議な容姿をしていた。見た目の年齢は二十代前半くらいだろうか。梅紫の瞳に、この国では珍しい蜜柑色の瞳孔が目を引く。肩まで伸ばされた青い黒髪から、夜明けの太陽を思わせるような曙色のインナーカラー。髪色と対比するように身に纏う衣装は白く統一され、気品のある軍服のようなデザイン。下半身にはインナーカラーと同じ色で一本ラインが入ったパンツの上から、それを覆い隠すほどの長さで羽のような模様が入った腰布を巻いている。

 どこからどう見ても、普通とは言い難い。それが渚という人物だ。

 渚がずっと耐えてきた家族に向き合った。暫く黙ったままだった水早が、きつく結んでいた口を開く。

「……俺は」

「うん」

「渚が、居ない未来を想像してた」

「そうか」

「……俺はもう大人だし」

「うん」

「1人で生きていけるくらい強くなったし」

「うん」

「騎士にもなった」

「そっか」

「渚が見てない間、俺、頑張ったんだ」

 水早の身長は主を越え、その手に持つ刀もずしりと重みを増した。だがそれはそうなるしか無かっただけで、水早はもっと目の前にいる渚と同じ時間を共有したかった。その証拠に、水早の目には今にも溢れそうな程の涙が溜まっている。

「偉いね、凄いね水早。さすが僕の龍だ。僕がいない間今まで頑張ったね」

「……うん」

 朝の為にと思い生きてきた5年。その苦痛の日々が、今こうやって報われただけで、水早はどんな褒美よりも嬉しかった。朝の従者達みんなが、主のいない5年を過ごしてきたから。

 暫くの間5年ぶりの再会を喜んでいた朝の一行は、渚のある言葉で静まり返った。

「朝にするよ」

「…渚、司天穹してんきゅうに言わなくていいの」

 庭師の1人がぽそりと呟いた。この国には空の鍵の持ち主を管理する機関が存在し、鍵の持ち主はこの国の行政に深く関わっているからだ。無断で朝を呼ぶことによる圧力を案じたのだろう。

 しかし、渚は嘲笑うようにさっぱりと言った。

「良い。言ったら朝を呼ぶのがさらに遅くなる。僕が起きた以上、みんなに無理をさせる訳には行かない。昼も夜も限界だ。司天穹に構ってられないよ」

「そっか、まあそうだね」

「後異論がある子は?」

「居ないよそんな奴。ちょうど良い時間だ。朝を呼んでくれ、渚」

 朝の従者達は朝の意思に従う。例え国の行政機関に喧嘩を売ることになろうとも、彼らにとっては渚が助けたいと思う人の方が優先だ。今この瞬間では、渚の保護対象は国のおエライ方ではなく民達や隣人なのだ。

 朝の陣営が動き出す。調査や依頼で国のあちこちに散らばった朝の従者も、その場から5年ぶりの朝を待ち望んでいた。


 大海にぽつんと存在する島国『瑞穂みずほ』。


 領土が海に囲まれている事もあり地続きの国境はなく、この国は独自の文化を築いている。瑞穂と呼ばれる国は龍の頭蓋骨を横から見たような形をしており、自然資源が豊かな国として認識されている。瑞穂は二つの種族と、外界から取り込まれた文明が融合した唯一無二の国家だ。また大きな特徴として朝、昼、夜をそれぞれ管理者と呼ばれる存在が天蓋として領土を囲み、外界からの侵入を防いでいる点だ。

 主な土地として、あやかし達の住まう森『原初の樹』、人間達の住む街『常陸ひたちの茨』、農業地域『かすみほら』、観光都市『星影の浜』、首都『蛍光都けいこうと』、半端者の行きつく先『薄明の丘』、そして現在は呪いが蔓延し立ち入り禁止とされている『霊障団地』がある。


 原初の樹は妖が暮らす巨大な森林だ。厳密には原初の樹は、森林の中で最も古くから根を張っている一本の樹なのだが、今では地名として使われている。妖は暗闇を好むため、昼の時間帯であっても葉から光が差す事は少ない。その為リゾート地としても使われている区域がある。種族の特性から、未だ未開発の土地が多く存在するが、妖達はその強大な森と夜の管理者を誇りとしている。


 常陸の茨は、その名の通り街を囲む茨が特徴的な街だ。妖とは違い、不思議な力を使う事の出来ない人間は自分たちの住む街を茨で取り囲むことによって要塞化し、外敵からの侵入を防いでいる。街の中心部には伝統的な和風建築の城が建てられており、代々昼の管理者が暮らす事になっている。知恵と技術を武器に、彼らは強大な軍事力を手に入れ、妖に対抗する術を確立した。


 霞の洞では農業が盛んに行われている。瑞穂は他の国に比べると国土が小さいが、霞の洞で食料を確保している。広さとしては国の約五分の一を有している為、瑞穂の食料としての生命線と言える。全自動機械が運営する瑞穂の食料庫だが、実際は種族から外れた者が流れ着く荒野である。僅かに荒野で暮らしている者もいるが、閉鎖された生活により武芸の重視や集落生活などの古い伝統が、今日に至るまで守られ続けている。


 瑞穂における重要な経済都市の中心であり首都、蛍光都。瑞穂で唯一、人間と妖が共に暮らせる土地だ。その理由として、蛍光都には昼も夜も、朝すら存在しない。天穹の守り人の管理を外れ、この国の君主が高層ビルの頂点に居座っている。帳のようなオーロラに囲まれ、空模様は一定に固定されている点が特徴だ。商業組合が多数存在しており、人間と妖が互いに手を取り合い瑞穂を発展させている。否、相容れない種族が利益のみを求めて協力し合うという体制で、今なお驚異的なスピードで発展し続けているのが現状ではある。ごく少数だが、原初の樹に人間の立ち入れるリゾート地を作ったり常陸の茨に空港を建てたり等、種族の溝を埋めるような働きをしている者達も居るのだが。ネオンとビルに囲まれる世界の中に長い時間身を置いていたとしても、全てを理解していると豪語できる者は、消して存在しないだろう。


 国の北東には星影の浜と呼ばれる観光スポットがある。山と海に囲まれた地形にあり水平線に広がる海に星々の明かりが反射している。砂浜は星が落ちてきたかのようにキラキラと輝き、世界の欠片と呼ばれて親しまれている。現地民は毎日のように浜辺のビーチを散歩しており、ゆっくりと過ごす日常が最高なのだという。唯一、毎年夏に行われる大型フェス「流星音楽祭」を除けばの話だが。


 渚の住む屋敷は、国の中でもとりわけ大きい丘の上に木々に隠されるようにして建てられている。国の最も東にあるその丘は薄明の丘と呼ばれ、朝日が最も美しく見られる場所として有名だった。薄明の丘は、夜明けに太陽が昇ってくる様が瑞穂で最も美しい景色とされており、昼や夜にはない朝ならではの特権だった。

 薄明の丘が半端者の集まる土地として認識されているのには、朝の存在が関係している。朝は昼と夜の中間、人間と妖の中間だ。何らかの事情で妖の力を持ってしまった人間や、妖独特の社会に馴染めず故郷を去った者等、種族の輪から外れた者が行きつく事が必然的に多い。渚はそんな流れついた者達を掬い上げ、薄明の丘に居住地を築いている。故に朝の陣営にはそういった半端者が多いのだ。渚に仕える従者達にもそのような傾向が見られる。

 


「と、その前に」

 渚は前述した絶景スポットへと足を運んでいた。朝を呼ぶのが久々ということもあり、朝の住人達は屋敷の傍で待機している。少し肌寒くなってきたこの季節に深夜で待機は寒くないかとも思ったが、彼らが望むのならば何も言うまい。


深夜みや

 渚が誰かの名前を呼んだ。数秒経った後、渚はもう一度名前を呼び、その人物が現れるのを待った。

「おいで」

「…………起きたのか」

「うん。久しぶりだね深夜」

 何処からともなく現れた黒い姿の青年が、渚に声をかける。

「……何の用」

「もう休め、深夜。僕は起きたよ、君は寝ていい」

「……」

「そんな隈晒してなんで隠せると思ったの。いくら君が夜の王だと言っても、流石に5年は頑張りすぎだ」

 渚は青年に近づき、染みついた隈を労わるように目元をゆっくりと親指でなぞった。

「……」

 深夜と呼ばれた青年は、夜の鍵の持ち主だ。所々破れた服の裾と、自然回復していない傷を見て渚は眉を顰める。 黒曜石のような黒い髪と、満月のように爛々と輝く金色の瞳を持つ青年だ。特徴的な瞳には十字が刻まれており、彼が異質な存在である事を示している。纏っている服は渚と似てはいるが、白基調の渚とは違い闇に溶け込むかのような黒を基調とした服だ。和服風にアレンジされており、裾が広がっていて下も袴になっている。その服は彼の持つ怪しげな雰囲気にはぴったりだろう。足元の高い下駄が芝生を蹴り、からんと高い音を立てる。尖った耳からは美しい金色の耳飾りが揺らいでおり、青年が動くたびに瞳の光をぼんやりと反射している。

「傷も治ってないし」

「今日は月が出てないからだな」

「御託は結構。今すぐ寝てくれ」

「……」

 深夜は何かを酷く恐れている様子だった。それに心当たりがあるので、渚は安心させるように言葉を紡ぐ。

「大丈夫だよ」

「そんなんで安心出来っかよ」

「僕が信じられないか? もう何百年も共に過ごした仲でしょ」

「だからこそだ」

「まぁ、僕も正直びっくりしてる。こんなに長い時間封印されるなんて初めてだ。だから、僕が朝を呼んだら一気に事態が動くと思った方がいい。その時君が隣に居ないと困るんだ」

 渚はへらりと笑った。深夜は目の前の人物が、どんな怪物よりも強い存在であることを知っている。たった1人で解決出来ることだろう。

「朝の従者が居るだろ」

「僕の予想ではね、今回の僕の敵は君の敵でもある」

「……ふぅん」

「歴史が動くよ深夜。僕の証人になってよ」

 渚は不思議な人物だ、と深夜は思った。こっちがどんなに嫌な態度を見せても、簡単に虚勢を崩される。隣にいるのが当然だと言うふうに、こうやって大勢の民達を救うんだろう。

 1人で何とかできるくせに。

 俺が居てもそんなに変わらないくせに。

 朝のくせに。

 俺を顎で使える奴なんてお前くらいだと、鼻で笑ってやる。

「……本当に起きたんだな」

「うん。これから朝の幕が上がる。今まで頑張った夜を労るのも、僕の仕事でしょ」

 渚が少しだけ崖に向かって歩く。深夜は何度もこの様子を見たが毎回慣れないなと心の中で笑った。崖から落ちたらどうしようとか、空から急に矢が降ってきたらどうしようとか。渚の朝の儀式にこうやって付き合う度に、そんな事を考えてしまう。

——杞憂だとしても、心配するのは自由だろ。

 そしてようやく渚の足が止まると、渚は地面を蹴り空中に浮かび上がる。ゆっくりと空に手を伸ばした。すうと口が開かれ、言葉を紡ぐ。


「白日と 宵を想わん 黎明や」


 すると次第に渚の手の平から光が溢れ始め、一等眩しく煌めく。昼の激しい光とも、夜の怪しい光とも違う。

 それは朝の光。

 世界が塗り替わる、柔らかな曙光。


「我が穂の上の 霞を払わん」


ざわざわと風が吹きつける。渚の髪が風に流れ、内側に宿した鮮やかな橙色が晒される。

光が収束し、手に現れるのは一つの鍵。黄金色の軸に梅紫色の宝玉をあしらった上品なその鍵は、朝の管理者が持つ『朝の鍵』そのものであった。

 渚が依然として輝きを纏ったまま鍵を握り、空の一点を差す。まるで鍵穴が其処にあるかのように、真っ直ぐ狙いを定めた。

「ただいま、我が朝よ」

 渚はこの瞬間のみ、神のような言葉を放つ。朝の権能をその身に宿した渚は、この国の朝であり、従者達は皆それを誇りに思っている。

 だが、渚は神ではない。神であろうとはしない。

何故なら渚は、大切な者達の為に生きる、ただのヒトだから。

 渚の家族は、それを知っている。


 手首が回り、鍵が回される。がちゃんと、重い金属の外れるような音が空から崖に響き、渚の体から光が霧散した。そしてゆっくりと足が地面に着く。

 ざあと風が吹いた。体に纏わりつくその風は、暖かい。

そして崖から見える水平線に、太陽が現れた。

夜が終わる。

木々も芝生も、海も、空も。

色づいていく様は、モノクロの世界に光が差し込んだようで。

渚の顔も、水早の顔も、リオの顔も。

太陽の光に照らされて、本来の色を映し出す。


 暁の水平線に、渚が帰ってきた瞬間だった。


「おやすみ、夜」


 瑞穂の空は不思議だ。

 朝、昼、夜の空をヒトが担う。昼は人間に、夜は妖に。神話や教科書などにはそう書かれている。では、朝は?

 皆が考える。朝はどちらの種族が管理者なのだろうと。しかし神話には『朝は、昼と夜が認める人物へと』としか記載されていない。教科書にも学術書にも、朝の管理者の種族は巧妙にはぐらかされている。現に大学などでは、『朝の管理者の種族』をテーマに研究する学者も多い。管理者は昼を除き姿を世に隠しているからだ。

 意図的にせよ、そうでなかったにせよ、二つの種族の住まうこの国では中間に位置する朝の存在は注意を引きやすい。

 結論を言うと、暁渚は半人半妖である。瑞穂で唯一の、天然で生まれた半妖。人間と妖が恋に落ち子供を授かっても、種族は人間か妖かのどちらかだ。研究が進み、遺伝子的に完全に混ざり合う事が無いと証明されたので、民達は人間と妖の二種族しか存在しないと思っている。

 渚はただ一人の完璧に混ざり合った『変異種』であり、その特殊性から朝の管理者に抜擢された。現時点で深夜よりも長く生き、そしていつ死ぬかも分からぬ半人半妖。

 だから渚が敵の攻撃で倒れた時、国は対応に困ったのだ。このまま目を覚まさないかもしれない。しかし渚の心臓が機能している限り、朝の鍵が他の人物に渡される事は無い。国の機関でありながら管理者を管理する【司天穹してんきゅう】は何もしなかった。否、出来なかったの方が正しいだろう。何故なら渚は唯一だから。

 結果だけを見れば、渚は5年の月日を経て目を覚まし、今日から朝を齎す事が出来る。失った時間こそあれ、歴史の教科書にちょっとした記述が加わるだけで国の時間は動き続ける。長い目で見れば問題は無い。

 だが、当事者にとってはそうではないのだ。朝の管理者並びにその従者達。庇われた夜、そして管理者を守れなかった司天穹。元を辿れば、管理者が戦わざるを得ない状況になった責任問題も出てくる。民達の安寧の暮らしには国への信頼が必要だからだ。

 管理者は国の運営に密接に関わってくる。

 昼の管理者が数多の生命に光を与え、夜の管理者が暗闇と静寂の布団を敷く。そして朝の管理者は今日を昨日に変え、明日を今日にする。


 それが天穹を司る空の鍵の管理者である。

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明日彼方 @sanagi_orz

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