明日彼方
@sanagi_orz
第1話 黎明
____今でも瞼の裏に焼き付いている景色がある。
暗闇の世界で1人の青年が佇んでいる。もう見慣れてしまった光のない景色を眺め、ゆっくりと自分の家へと足を進めた。大きな屋敷をぐるりと庭が囲んで、玄関に繋がる小道には等間隔に間接照明が敷かれている。庭師達の気遣いだろう、この庭は5年前に世界が色を失った後も丁寧に手入れされており完璧な状態を保っている。
やがて玄関が姿を現し、ゆらりと揺れる灯りが青年の姿を僅かに色付けた。ギィ、と響く豪奢な扉も、隙間から漂ってくる柔らかな光と香りも、迎えてくれる大切な家族達も、何も変わっていないのに。
其処に、彼らの朝だけが居ない。
「おかえり、
「ただいま」
水早と呼ばれた青年に声をかけたのは穏やかな声色の女性だ。家族の1人。腰まで伸ばした黒髪を緩く編み、シンプルながら目立つ金色の髪留めがキラリと光った。その髪留めは彼らの朝が手ずから用意した物で、風が流れるような模様が美しく刻まれている。
「今日の様子はどうだった?」
「相変わらずだ。もう5年も経つってのに人々は夜に溺れている。犯罪者だらけだ」
「そっか、お疲れ様」
「
水早が少し不満そうに頬をふくらませながら息をつく。固く締められた上着の帯を緩めれば、張り詰めていた緊張が解けていくような気がした。水早はこの国の治安維持組織に所属しており、今は終わらない繁忙期に街を走り回っている。溜息がでそうになるのを必死に堪えて、この屋敷に帰って来るのだ。水早がそう言うと、黒髪の女性が困ったように笑う。その表情を見て水早はツキリとした痛みを胸に感じた。彼女を悲しませたからだ。
「しょうがないよ。朝は昼にも夜にも縛られない、独立した空だから」
「…そうだな。ごめん、八つ当たりした」
「いいよ全然。水早は頑張りすぎ、もう少し私達を頼って。雲雀も虎太郎も明巳も、勿論私も。水早が助けてって叫んだら駆けつけるんだから」
「ははっ、八咫烏の騎士らは兎も角、庭師達は朝の直属部隊だろ」
「関係ないよ。朝は今寝てるんだ。私達が朝の為と思って行動することは何も間違ってない」
そう、庭師の1人がハッキリ言い切った。夜の街で路頭に迷う人々とは違い、彼女の目にはまだ明日の光が宿っている。水早は少し可笑しくなって口元を綻ばせた。
「朝の意思は?」
「寝てる奴にどうやって許可を取りに行くの。起きないあの人が悪いよ」
まるで小さな子供みたいに拗ねた様子を見せる彼女は愛らしく、彼女の方が年上なのに無性に頭を撫でたくなった。多分やったら怒るだろうからやらないけれど。
「待ち続けましょう、水早。あの人が…朝が、目を覚ますのを」
「…あぁ、みんなで待とう。俺達の朝が起きた時、この世界が崩壊してたら悲しむだろうしな」
朝はまだ目覚めず、時間だけが過ぎていく。だが誰も前に進めている感覚がないまま、堂々巡りの毎日を廻っている。
この国の朝は、民達に明日を齎す存在故に、眠り続ける事でこの国の時間を止めてしまったのだ。
起きていた家族達と遅い夕飯を共にし、風呂に入って寝る準備を済ませた水早は、ふと自室のカレンダーの日付を確認した。遅い時間だなんて、景色はずっと夜なのだが。
____5年、か。
朝が眠りこけてから、もうそんなに時間が経ってしまった。考えたくもない事実に水早は目眩を覚えた。何時まで、この終わらない毎日を過ごせばいいのだろう。
____もうみんな、朝の光が弱まってきている。俺らはまだマシだが、民達にとっては深刻な問題になるぞ…。
この国の治安維持組織に属する水早はなんとも言えない危機感を抱えていた。このまま朝が来なければ、きっとこの国は瓦解する。人には光が必要で、その光を浴びて生きていかなければならないのだから。
「……渚、早く起きろよ…」
もう20歳も超えてしまった。大人になったら一緒に飲もうと言っていた酒は未だワインセラーの奥深くに眠っている。
昼の鍵の管理者がもう死にそうだ。5年前は快活な爺さんだったが、もう自由に歩き回ることも出来ないらしい。見舞いに行った時に声を出そうとして咳き込む姿に胸が苦しくなった。
夜の鍵の管理者が5年間ずっと眠らずにこの国を外から護っている。悲痛な叫びが偶に聞こえてくる。いくら彼が強くても、そろそろ限界が来るだろう。
皆が朝を待っている。
他の誰でもない、この国の朝を。
「なんでこの国には空の鍵なんて代物が存在すんのか、なんて考えてもしょうがない、よな」
だから水早は願った。祈った。この屋敷の1番奥の部屋で、未だに眠り続ける朝の鍵の持ち主が、1日でも早く目覚めることを。
沢山の従者に囲まれる朝の主が、その願いに答えない筈がないのだ。
「……、ん」
ざわ、と木々が蠢く。
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