幸せ

繊月ハクサイ

幸せ

「月が綺麗ですね」


 したたる汗、夜でもうるさい蝉の鳴き声、蒸し暑い空気を作りだす太陽。

 月なんてどこにも見当たらない5時ごろに隣を歩く彼女はそんな独白とも告白とも取れる言葉を発した。

 もちろん僕はそれがただの独り言だとわかっているので無反応だ。


「……ねぇ…ね〜えっ無反応はひどくない!?」

「僕に対して言ったわけちゃうやろ、それに……」

「それに、なによ?」


 彼女は少し不満そうに眉を八の字にして覗き込んでくる。こちらからも冷たい目線で見つめ返す。


「この状況を見てよ」

「この状況って?」


 わざとらしく彼女はとぼける。昔からそういうやつなのだ、こいつは。


「いちいち癪に触る態度やなぁ。僕の状況だよ!」

「あ〜〜、なるほど! すごい荷物だねぇ」


 手を大きく振り上げニヤニヤしながらオーバーリアクションを取ってくれた。まさしく人を苛立たせる天才だ。


「誰のせいでこんなことになっとるおもてん」

「そりゃあ、あんたがジャンケンに負けたから。ていうか、ジャン負け荷物持ちってなってイヤイヤ参加して結局負けたのはあんたなんだから。ぐだぐだ言わんでよっ、男らしくないとモテんよぉ」


 たしかに最終的にじゃんけんに参加したのは僕だ。しかし少なくとも荷物を持ってあげている僕への配慮が全く感じられない。これはしっかりわからせねばならない。


「僕に男らしさなんか求めんでよ、それに僕が言っているのはこんな暑い中こんなにも荷物を抱えてるのに君の変な独り言に反応する余裕はないってことだよ」

「情けないなぁ」


 今すぐどこかに彼女の荷物を投げ捨てて走り去りたくなった。暑さのせいかいつもより不満が溜まりやすくなっている気がする。

 僕は公園の中に東屋を見つけたのでそこまで全力早歩きをすることに徹した。


「ちょ、ちょっと待ってよっ」


 東屋にたどり着き、一息つこうと木製ベンチに腰を下ろした。追いついた彼女もドーンと隣に座り込んできた。


「ちょっと、暑いからあんまり近寄らんでくれん?」

「もー照れちゃって、はいはいわかりましたよー」


 少し離れてくれたが正直言って蒸し暑さは変わらない。日本の夏の厳しさとこんな日に外を歩かされることへ嫌気がさす。

 袋の中から清涼飲料水を出した。水滴の滴るペットボトルは今すぐ飲んでくれとせがんでいるように感じた。大丈夫、今から飲んであげるから。

 暑い暑いと言いながら3回ほどゴクゴクと喉と体を潤した。


「あー勝手に飲まんでよー、私もちょうだーい」


 持っていたペットボトルをひったくりすぐさま蓋を開けるとガバッと立ち上がり一気に飲み干した。風呂上がりのコーヒー牛乳さながらだ。

 その一連の行為が早すぎて気が付かなかったがこれって間接なんちゃらというやつなのか……?なんて疑問が浮かんだが、そんなものはすぐに心にしまった。


「かぁーっ! おいしい! 日本の水はやっぱりおいしいねぇマジ感謝」

「おっさんかよ」

「いいでしょ、こんなとこあんたにしか見せないしぃ」

「さいですか」


 もう少し可愛いところを見せて欲しいものだ。まあ、今更どうこうなる関係でもない。


「にしても久しぶりじゃない?こんなふうに話すの。まあ高校も違うし、しょうがないねんけど」


 へへっと笑いながらこちらに顔を向ける。思わずその笑顔にドキッとしてしまったがなんとか自分を抑える。


「図書館の帰りに出くわして荷物持たされることになるとは、思わんかったけどな」

「がはは、それは私も思った! までもこうやって家まで運んでくれてるんだからやっぱり優しいね」

「まあ別に……普通やろ」

「え、照れてるじゃん」

「照れとらんわ」

「いや〜どうかな、褒められて照れとるなぁ」 

「あーあそんなん言うならもう荷物持ちやめよかなー」

「あーうそ! 冗談やってじょーだん」

「はい、よろしい」


 なんだかいつもこんな展開になってしまうのは僕が悪いのだろうか。


「よろしいって誰やねん」


 彼女はくすくすと笑った。しょうもないことでもよく笑う子。とてもいい子だ、と思う。

 好きというより愛しいという感情に近い。気まずくなって離れるのも嫌だから告白はしない。そもそも好きなのかすらわからない。


 自分は男子校だし。彼女は共学の高校で彼氏がいた時期もある。気は合うが、彼女は僕のことを恋愛対象としてみたことなんてないだろう。


「そいえば僕スマートフオン買ってもろたんよ、どう?」


 カバンからスマートフオンを取り出し少しドヤりながらひらひらと見せびらかす。入り込む太陽の光が時々画面に反射して影に光を灯す。


「あははっめっちゃドヤ顔しとるけど、スマートフオンじゃなくてスマートフォンな!!」

「うぇ!? じいちゃんがそう言っとったんやけどな……」


 まさかそんな間違いをしているとは思わず、少し恥ずかしくなってきたが、彼女の笑い声がなんだかおかしくてつられる形で僕も笑ってしまった。


「学校でもスマートフオン言うとこやった、危ない危ない」

「私のおかげ?」

「せやな、ありがとう」

「いいってことよっ」


 彼女は胸をポンポンと叩き、決めゼリフかのように口にした。それが可笑しくてまた笑ってしまっていた。


「よし、そろそろ行こかー」

「ん、れっつらゴー」


 しばらく談笑をして東屋を出ると陽が沈みかかっていた。そんな太陽と交代するようにいつのまにかあっという間に時間が経っていたらしい。

 そろったりバラバラだったり、自由で即興の足音を奏でながら歩き始めた。


 彼女の一言が頭から離れない。夏目漱石は〝I love you〟を「月が綺麗ですね」と訳した、と初めて聞いた時その意味がよくわからなかった。

 正直今でもそれはよくわからない。

 夏目さんは好きな人がいたのだろうか、その人と見た月がよほど綺麗だったのだろう。幸せだったのだろう。


 好きと幸せはイコール関係になるのだろうか。幸せってなんだろう、なんて時々思うことがある。両親に産んでもらって、育ててもらって、健康に過ごせている。とても恵まれていて幸せなことだと思う。

 そして同じようにアサガオが朝、花を開くように、彼女と一緒にいて楽しいが、僕にとっての幸せになる。この満たされた気持ちになることはあまりない。


 人によって様々だが、美味しい料理を食べる、ゲームで勝つ、運動をする、本を読む、星を見る。こんなふうに幸せ、は自分の力で感じられるものだと思う。

 だからこそ、この幸せを与えてくれる人はその人にとって特別でそんな人と出会えることは、当たり前じゃないことだとも思う。

 

 幸せは当たり前じゃない。彼女と今こうして楽しく話せているのも、僕が、彼女が生きていることも、当たり前じゃないのだ。

 そんなことを、よく考える。車通りの多い十字路の横断歩道で立ち止まり、それを思い出すとなんだか止まらなかった。


「あのさ」

「なにー?」

「……ありがとう」

「え、なにが??」

「んー生まれてきてくれて?」

「え……? ん、なに!? どうゆこと!?」

「しーっ、近所迷惑やろっ」


 流石に突然すぎたか、と今になって思うがもう遅い。それにうるさくて横断歩道で立ち止まった人がこちらを凝視しているのは事実だ。


 ぺこっと会釈をしつつまた彼女に視線を戻す。彼女は頭をぽりぽりとかきながら目を合わせようとしない。


「いや、流石にそっちの発言が……さ。急にそういうこと言われると……」

「え、照れてる?」

「当たり前やろっ、あんなん言われて照れへんやつおらん! あんたなんか昔からそゆとこある……」


 信号が緑に変わり僕が歩き出すとぴょこぴょことついてきてひょいっと荷物をとられた。この先にあるそこそこ賑わっている商店街に向けて歩き出す。


「そうか?……たしかに突拍子すぎた。ただ感謝?伝えたかっただけっていうか、なんかごめん」

「いや、ええよっ別に。面と向かってそういうの言えるのすごいと思う」

「そうか? んーそうかも。じいちゃんがそゆこと言ってくるから」


 両親が仕事で忙しいため昔からじいちゃんによく世話を焼いてもらっていた。礼儀作法と人への感謝については昔からきつく言われている。


「たしかに、いいおじいちゃんやった気する」

「せやろ」

「うん。あの、私も、ありがとう……」

「なにが?」

「なにが……って、そんなん決まっとるやろ、さっきのお返しや!」

「あーそういうことか、あははっなんかおもろいな」

「なんもおもろない! もーー調子狂う!」

「なんかいつもと立場逆転やな」

「今日だけやし!」


 またあははっと笑った。その余韻が蒸し暑い空に溶けていくとお互い無言の時間になった。

 なんだか気まずい……。いつもは向こうから話しかけてくれるし、無言になってもたいして気まずさは感じていなかった。が今回は違う。


 こんなことになるならあんなこと言わなければよかった……。と後悔しだしていると彼女がツンツンと脇腹を刺してきた。


「ど、どーした?」

「あの……さ、連絡先、交換せえへん?」


 上目遣いでこちらを見つめる。

 心が跳ねる感覚が自分の中に、ある。

 この気持ちがなんなのか、前よりほんの少しだけわかった気がする。


 月がうんと綺麗だ。

 

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