第5話 常世の杜
積もった雪は溶け始め、新芽が地から顔を出し始めていた。
その日は快晴だった。
迷い人は来ない。
『今日は汝の話でもするか』
神は問う。もう子狐とは呼べなくなった凪はいつかこの時が来ることを理解していた。
「はい」
『この地を発つか。』
「…はい」
凪は社と向かい合った。
もう凪は蜥蜴を貪るだけの非力な存在ではない。
「お話ししたいことがございます。」
『きこう。』
凪は話し始めた。
まずこの酷寒の中、社に置いて頂きありがとうございました。
私は…迷い人だったのですね。いえ、迷い狐でしょうか。
死にたかった少年、愛されたかった女性、主を殺めてしまった猟師。
みなさんから沢山のことを学び、私は全てを思い出しました。
私には強い母がおりました。
私が生まれて間もなく人間に胸を撃たれて死んでしまいましたが、兄弟たちから偉大な母であったとよく聞いておりました。
母が死んでから、私たち兄弟は壊れました。
母を殺した人間を皆呪おうという兄。
人里離れた森に身を潜めようという姉。
結局兄弟はバラバラになりました。
私は非力でまだ幼かったが故に兄にも姉にもついていけませんでした。
そんな私のことを一人の老人が救ってくれたのです。
その老人は私に凪と名付け、可愛がってくれました。
人間の道具を知りました。人間の暖かさを知りました。
それでも私は老人の死後村を追われました。
ですが私は人間を恨みません。
私は人間に母を奪われ、家族を失いました。
それでも人里の近くの川に毒を流そうとは思いません。
人間たちから“山の主”と呼ばれた母を殺した猟銃を恐れません。
私は兄弟も恨みません。
兄は人間を呪ったのでしょう。そのせいで人間は大量に死にました。
姉は逃げたのでしょう。兄を止めず。私を連れず。
生きていれば過ちを犯すのでしょう。
それは最早、自然の摂理と言っても過言ではないかもしれません。
…私はこの社が好きです。
それでも発たねばなりません。
ここへ来た迷い人たちは皆自分の道を見つけて進んで行きました。
私にもその時が来たのです。
この鈴はお返しいたします。
私は本日をもってこの社の禰宜を辞させて頂きます。
お世話になりました。
神は泣かなかった。凪の道を塞がぬために。
『よくやった。我の禰宜よ。務め、ご苦労であった。』
凪は泣かなかった。自身の道を見失わぬために。
『凪よ。最後に。この社の名を考えてはくれないか。』
凪は振り向かずに答えた。
「常世の杜、などどうでしょう。永遠に世にあり、迷う者を導く。常世の杜。」
凪は歩いた。逞しくなった足取りで。
振り返らずに進んでいった。
『凪よ。其方は自分の全てを思い出してはおらぬ。だが、それで良い。其方を名付けることができず、其方から名を貰った我を許せ。』
『凪よ。其方は生きる理由を見出すことも、誰も殺さずに真実の愛を手に入れることも、大切なものを守るために他者を殺すこともできるのだろう。』
凪には聞こえているのだろうか。
『凪、お前は我などより優れた主となりなさい。この愚かな母の真似などせずに。』
凪は既に杜を抜けていた。
胸に赤黒い傷を持つ女狐はその姿が見えなくなるまで目を離さなかった。
その女狐の名は常世の杜。永遠に世にあり、迷う者を導く。常世の杜。
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常世の杜 檸檬京 @lemonkyo
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