三流の書き手となろう
中今透
三流の書き手となろう
いつの頃からだろうか。小説を書くからには、誰かに認められなければならないという強迫観念に駆られるようになったのは。
よくよく考えれば、おかしなことである。
最初は、ただ楽しかったのだ。しかし、いつしか、誰かに認められたい、賞を取りたい。そんな考えにしがみ付くようになった。少し考えれば、それは副産物に過ぎないと分かる。誰かに面白いと思われること。誰かに作品として認められること。賞を取って社会的に認められること。
それらは、全て、些事に過ぎない。
今の私は、三流の書き手で構わないと思っている。
元々、自由に、好きに書くことが楽しかったのだ。自分の空想を言葉として現出させること。その行為そのものに楽しみを見いだすこと。
所詮、社会的な評価などというものは、他人が勝手に決めることであり、何が正しい物語の作り方なのかとか、読者を喜ばせる方法とか、そういったものは、二次的な産物に過ぎない。
小説を書く者であれば、誰でも知っていること。
それは、書き手たる自分自身が喜び、楽しみ、うれしみ、そういったものを感じ入ること。その熱そのものが大事なのだ。
誰かに認められることは、結果に過ぎない。
重要なのは、自分こそが、自分の作品にどう向き合い、どう楽しむか。小説を書くという営為にどう向き合うか。それこそが大事。
無論、その結果として、誰かに貶されたり、疎んじられたり、傷つけられたりもする。それ自体は否定しない。とはいえ、それはそんなに悪いことだろうか……?
所詮、他人の戯れ言。
そもそも、誰かがに疎んじられたり、傷つけられたりすることは、小説を書くにせよ書かないにせよ、よくあること。いちいち気にしていたらきりがない。それに、傷つくことも、悪いことばかりではない。
人生など、思い通りにいかないことばかり。一向に構わない。不本意と同居してこそ、人生。どれだけ世界的に名声を欲しいままにしている人間でさえそうなのだから、これはもう、甘んじて受け止めるしなかない。
大事なのは、そうしたものを糧として、集中力やら持続力やらを蓄えて発揮すること。どんな偉人も凡人も、そうして生きている。皆、偉人やら成功者やらの輝かしい部分に目が行きがちだが、連中もそうしたものを背負って生きてきている。
ならば、そうして生きれば社会的な成功を手に入れられるのかといえば、必ずしもそうとは限らない。しかし、少し顧みれば分かる。成功は、そこまで欲張って手にするべきものではないと。何しろ、成功すれば、それに見合うだけの振る舞いやら、更なる成功を期待される。社会やら、世間から。
そんなもの、ちょっぴりも羨ましくない。成功したら成功しただけ、いちいち注目される。社会的成功者は、ほんの少しのことで、いちいち注目される。自宅はどこかとか、誰々と結婚したりお付き合いしたとか、人格者か否か、家族はどのような人物なのか、どこに行き、何を食べ、何を着て、何を趣味にするのか。面倒なこと、このうえない。制限される。自由とはほど遠い。
ならば、成功しなくていい。
小説を書くのが好き? ならば、ただ、書けば良い。なにしろ、今はインターネットに作品を公開して、自分の作品を好きだと言ってくれる人と簡単に繋がりを持てる。もちろん、侮辱してくる者がいることもまたしかりであるが、そういった人とはまとも付き合う必要も無い。無視すれば、ことたりる。
三流でいい。
ただ、書けばいい。
それが喜びに繋がり、人生の糧となるなら、書けばいい。
成功など、二の次。ただの結果であり飾りだ。周りが勝手に騒ぐだけ。
いいじゃないか。三流で。
生きる糧となるなら、三流で構わない。
三流の書き手となろう 中今透 @tooru_nakaima
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
筆を執って10年経つこの頃/中今透
★68 エッセイ・ノンフィクション 完結済 13話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます