死という経典


「ははあ、それで最後にボクのことを尋ねに来たという訳なんですか。いやはや呆れを通り越して尊敬しますよ。そこまでの執念を、執着を、妄執とも呼べるものを、どうしてもっと他のことに使わずに、事件性もなにもない自殺に費やしたのか」


 ボクには不思議でたまらない――と、悪原無道あくはらむどうはそう私に言った。

 心底面白そうに。その顔はまるで自分が悪いことをしていることに気づいていない、純粋な嗤いだった。


 ここは駅前にあるよく私が依頼者と待ち合わせする場所に使っている小さな喫茶店だ。時刻は午後の四時半、平日だからか学校の制服を着用したまま、彼は私の元へと来た。


 心底ゾッとする。これで正気を保っているのだから、本当にこの少年は頭がおかしい。犯罪者予備軍なんて言葉は似合わない。これはもっと歪で禍ったナニカだ。


「ボクは特になにもしていませんよ。ええ本当に。実際、あの話以降ボクたちは一度も、一言だって会話をしていないんですから。むしろボクは被害者だ。こんな数か月前に話したクラスメイト……おっと失礼『元クラスメイト』のことで、受験を控えた大事なこの時期に、ボクの時間を奪うだなんて」


 ニヤニヤ。ニヤニヤ。

 煽ったような口調で、その人を馬鹿にしたような目で、無道は私を見ていた。

 その口調は怒ってもなくむしろ楽しんでいる風でもある。


「しかしね……君もさっき話してくれたじゃないか。彼がそういう衝動を抱えているということを。ならどうして君はもっと誰かに、大人に言わなかったのかな? そんな……教唆まがいのことをして」


 私は少し、この卑屈な少年に鬱憤がたまっていたので、少し意地悪をしてみた。

 しかし彼は慌てずに、運ばれてきたホットココアを口に含んで首を傾げた。


「なんでそんな面倒なことするんですか?」


「……なんで、とは?」


「いやいやだって当たり前じゃないですか。自殺を、自分の存在に疑問を抱かない人なんていませんよ。それも多感な時期じゃないですか。そんなの一々報告していたら相手だって面倒ですよ。だからボクはただ、自分の見解を言っただけです」


『まあ最後の一押しにはなったかもしれませんがね』――と悪びれない彼に、私はテーブルの下でぎゅっと拳を握りしめた。なんで、そんなことが言えるのか不思議でならなかった。生まれてから四十七年。探偵業をやり始めて十年が経過する私は、様々なアングラの住人たちと出会ってきた。中には私を殺そうとしてきたものもいたし、テロまがいのことを平然とやってのける奴もいた。


 だが今、それらが霞んで見えるほどに。

 彼の持つ闇の壮大さに圧倒される。


「では逆に。君はどうして人道善太君が自殺したと考えられる?」


「そんなの簡単ですよ。彼は優秀です。優秀すぎるあまり、温室育ちだったために、彼は『理不尽』に出会っていない。理不尽なことに慣れていない。だから死んだ。有体に言えば――今が人生の最高潮だったから、そこでピリオドを付けた。来るであろう理不尽に、不幸に、不運に、耐えきれないと判断したから彼は死んだんですよ」


 自殺の背景には様々な理由がある。

 その多くは何かしらのイジメや家庭環境による問題であったり、または未来に絶望して自殺を図ったものも多くいる。しかし善太が未来に絶望していると、どうして私には思えなかった。


「……ま、人生が上手くいってる人の考えなんてボクには……というか、上手くいっている人なんてそうそういないから、結局は分からないけどさ。生きる価値がなくとも、結局は生きなければならないのだから──ねえ、探偵さん」


 彼は私の目を真っ直ぐと見つめて訊いた。


「死は悪だと、生きることは正しいと思いますか?」


「……私には答えられないな。きっと、その答えはどんな聖人にも答える事が出来ない。だが自殺は悪だ」


「自殺は悪……ね。ボクにはそれが不思議でならない。自殺が悪ならば、この世の美しさは半減しますよ。その理論で言うならば『自己犠牲』だって立派な自殺だ」


 白いカップの中にあるホットココアをかき混ぜる無道。

 カップの中にある白色の泡と黒色のココアが混ざり合う様は、まるで彼の性格を表しているようでもあった。善も悪も関係ない。全てが平等でどうでもいい、彼の心を映し出しているように私は見えた。


。人の人生に価値はない。だけどその足跡だけは遺る。その意志は、軌跡は必ず後続の人たちの支えになる。それだけが価値あるものだ。意味あるものだ。……善悪問わずね」


 人に意味はなく、人生に価値はなく、ただその意志は、足跡だけは残り続ける。

 それが人間の素晴らしさである──とは、流石に言えなかった。


「だから君はさっきから、それを書いているのかい?」


 私は彼の近くに置いてあった小さなメモ帳に視線を向ける。

 市販製品の黒色のメモ帳の横にはシャーペンが置いてあった。

 僅かにある消しカスを見るに、私が来るまで書いていたのだろう。


「そうですね。これは──メモというよりかは本に近しいものです。いつかお金が貯まったら自費出版しようと思ってるんですよ。タイトルは──〈死という教典〉」


 彼はメモ帳をそっとカバンの中にしまいながら言う。

 そこに少しばかりの感情の揺らぎがあったことに、私は驚きながらも、しかし敢えてそこには触れなかった。いずれ目の前にいるこの少年が、大犯罪者になろうとも、怪しげな宗教を作ろうとも、どうでも良かった。


「……少し意地悪な質問をしてもいいかな。ちょっとした疑問なんだけど」


「良いですよ。ここの支払いは貴方持ちだ。ココア一杯分のサービスくらいは、ボクだってケチじゃあない」


 こんな少年とはもう話したく無かったが、彼と話してみて私の中に湧き上がった疑問をぶつけてみることにした。好奇心は何よりも勝るとは良く言ったものだが、まあこれがなきゃ探偵業なんて務まらないものだ。


「君は善太君にこの世の理不尽さを、厳しさを、どうしようもなさを説いた訳だけれど。それじゃあなんで君は今、息をしているんだい? どうしてそのココアを呑みながら、そんなをしているんだい? 未来の話なんて、君が嫌いそうなものだけれど」


 その時、初めて彼の薄っぺらな態度の裏を垣間見れたような気がした。

 彼は目を少し丸くさせて、だがそれは一瞬のことで、すぐに元の顔に戻る。


「簡単ですよ。──痛いのは誰だって嫌じゃないですか」


 続けて彼は言った。


「痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌いだ。そんなもんですよ人間って。明日や明後日、数ヶ月や数年後に来るかもしれない理不尽よりも、目先に起こるであろう痛みや絶望に恐怖する――だから生きるしかない。ボクには、自殺をする度胸がない。ああ、笑ってくれても構いませんよ」


 ──格好悪くても、笑われても、それでもボクは生きるんで。


 ──他者を踏みつけながら、誰かを嘲笑いながら、そしていつかボクが踏みつけられて嘲笑われるその日まで。


「……最後に。君は自殺についてどう思っている?」


「死ぬことは無意味だ。自殺は『逃げ』ですよ。その原因が後から来るものなのか現状からなのか、違いはそれだけです。現状いまからの逃避、未来からの逃避――まあ自己犠牲からは少し違いますけどね」


 逃避行為――確かに一理ある。

 この世から逃げ出したくて、苦しみから抜け出したくて、幸せを放棄してドロップアウトする……幸せになれない代償に、もう二度と苦しまずにすむ。


 人はそれを――『無』と呼ぶのだろう。


「今回はありがとう。聞きたいことはすべて聞けた」


「いえいえこちらこそ。中々に有意義な時間でしたよ。家で勉強するより百倍タメになります」


「勉強ね……そう言えばもう学年末テストだろう? おざなりだが、是非とも頑張ってくれ」


「ははぁ……まあちゃんとやりますけど、もう以前のようなやる気はありませんよ。ボクはもう、彼には勝てないので」


 彼──とは、まさかあの善太君なのか? 

 私の次の質問を見透かしたかのように、無道は一封の手紙を私の前に差し出した。

 開けてみろと言うことらしい。私は丁寧にそれらを開けて中身を読んだ。


「……これは」


「つまりそう言うことですよ。ははっ、いやホント残念。彼とは最後に決着を付けたかったのですが──」









 次の無道の心無い言葉に、私はもう何も言う気になれなくて、ただ黙って机の上に一万円札を置いた。


 駅前のカフェから出た私は、抱えていた茶色のコートを羽織って街を歩いていた。

 灰色の曇り空は世界を覆いつくしているようで、私は雨が降りそうだな、と急ぎ足で事務所のほうへと向かっていた。


 街はいつものように騒めきを発して生きていた。

 まるで少年が死んだことすら気づいていないように。

 その寂寥感からか、少しだけ私は善太君の気持ちが分かりかけてきた。


「寂しかったん……だろうなぁ」


 将来に対する漠然とした不安。それはきっと成功している者でもあるのだろう。

 現状がずっと続くとは限らない。そのことへの不安はさぞかし大きいものに違いない。未来の自分を思い描けなかったあの子は、最終的に死を選んでしまった。


「誰かに相談すれば……」


 そう言いかけた。

 私はその時ようやく、この少年の恐ろしさが分かった。

 ああそうか、あの少年には――善も悪もないのだ。


 だから自分のやったことに反省がない。

 なぜ善太君が彼に相談を持ち掛けたのか――それはきっと、おそらく彼が成功者でもなんでもない、ただの『人』だからだろう。


 未来に希望を抱かず、目先の苦しみから逃げるように生き続ける彼を、どこか羨んだかもしれない。


 そしてそのことを彼も分かっていたはずだ。

 だから彼は敢えて希望を語らなかった。この世界にまだ残る、ほんの小さな希望の灯火の存在を彼は敢えて言わなかった。この世には絶望しかないと、そう思わすことで彼の選択を待っていたのだ。


「悪原無道……か」


 無論今のはすべて私が推測した仮説である。

 だが私にはどうもそれが真実にしか思えない。


『「俺の勝ち」──最後にこんな置き手紙まで遺して、ほらやっぱり彼はボクのことが嫌いなんですよ。だからボクは悪くない。自殺は彼が選んだことだ。ボクには責任も何もない。罪ではないし、司法で捌けない』


 サイコパス――などでは形容しがたい彼の心の闇は、誰も救えないだろう。

 どうしてこうなってしまったかは調べる必要はありそうだが、しかし、彼の場合はもう――終わってる。あまりにもどうしようもなく、自己完結している。


 私には何もできない。祈ることすら、彼にとっては無意味だろう。


『まあ、けど』


 ああ、だから神様。どうかこの世にいるとするならば。


『良かったね善太ちゃん。最後はちゃあんと──


 どうか、願わくは彼の存在が、再び私の人生に現れないでください。











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死という経典 天野創夜 @amanogami

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