Sadistic Smile

黒澤すい

第1話

性的虐待の描写があります。苦手な方はご注意ください。






「男のくせに情けない」


そうだ、僕はそういう人間だ。身体は薄っぺらく小柄で、力のない肉体。声は小さくて、昔から父の怒鳴り声が怖くてたまらなかった。どうやら僕が傷ついて泣くことは、「普通の人間」ならどうってことない事らしかった。男なら、なおさらだと。


この街で生きていくにはそんな僕ではダメなのだ。暴力、悲鳴、赤い血、絶望。それらが渦巻く腐敗した街。力が、生きていく要。


力のない僕は、笑うことにした。会う人間に、へりくだった。何を言われようと、何をされようと、笑顔を作った。


「何ヘラヘラしてんだよ!ナメてんのか!」


腹に拳を叩きつけられて、うずくまった。3人のチンピラに目をつけられ、理由もなく路地裏に連れ込まれた。お金も渡した、何度も謝った。しかし僕の表情筋に染み付いた笑顔が、彼らの気に障ったらしかった。


「そんなに嬉しいのか、ボコられて。んなら望み通りにしてやるよ!」


2人に押さえつけられて、1人に何度も腹を踏まれた。馬乗りになられて、顔も殴られた。どうしたら解放されるのか必死に考えたけれど、術が思いつかない。

笑ってもこんな目に遭うのなら。僕はもうこのまま死ぬしかないのかもと思った。夕暮れ時、あたりは薄暗く、顔もよくわからない相手が拳を再び振り上げたのを見た。


そこで突然、そいつが横から何かにふっ飛ばされた。僕を押さえつけていた2人が立ち上がり「てめぇ何しやがる!」怒声をあげたかと思うと、鈍い音が立て続けに響いて地面に倒れる音がした。


視線を動かすと、点滅する裸電球の下に1人人間が立っていた。長く伸ばした明るい茶髪、赤地に黄色い派手柄のシャツ、握り拳を作った手にはめられたシルバーの指輪からは、赤い血が滴っていた。


「邪魔なんだけど」


発した声で、男だとわかった。チンピラが呻きながら立ち上がって、どすの効いた声を上げて向かっていった。男は何度か攻撃をくらったけれど決して倒れることなくチンピラたちを殴りつけ、次々に地面に転がしていく。転がしてもなお、執拗に殴り続けた。あっという間に手が血で染まっていく。

1人のチンピラの胸ぐらを掴むと、男はその耳に噛みついた。悲鳴をあげたチンピラが暴れるのをものともせずに、そのまま噛みちぎった。血しぶきが上がる。僕は、目が離せないでいた。


「ちゃんと耳、機能してるじゃん」


口内から雑に指で掻き出した肉片を、チンピラめがけ吐き捨てた。


「もう一回言う。邪魔なんだけど」

「...!こいつ、か、カネコですよ!カネコ!」

「カネコ!?」

「やばいっ、ご、ごめんなさい!!」


尻尾を巻いて逃げる、という言葉がまさにぴったりな姿でチンピラたちは走り去っていった。一気に静まり返り、僕は放心する頭の中でカネコという名前を反芻した。

この街で最も恐れられている男。物事のすべてを暴力でねじ伏せてきた、血も涙もない悪魔。そう噂される名前だった。

記憶と、さっきまでの光景が結びついて震撼した。


「まっず。うぇ!」


声で意識が引き戻された。血のついた指輪を裾で拭きながら、カネコさんがひどく不快そうに何度も足元に唾を吐いている。

逃げなくては、と立ち上がった瞬間全身に激痛とめまいが走ってアスファルトに突っ伏してしまった。力が入らない。もがくうちに、頭のどこかで誰かが囁いた。


逃げるって、どこへ?


どこまで行っても力が支配するこの街に、僕の居場所はないのだ。だったら無意味じゃないか。ここで逃げても、殺されても。

汚れた革靴が視界に現れる。カネコさんはしゃがみ込むと、僕の髪をつかんで顔を凝視した。


「何で笑ってんの?」


低い声で尋ねられて身が固くなったけれど、僕は笑うことをやめられなかった。それしか、出来なかった。彼の唇についた赤いよだれが、顎を伝って落ちていく。


彼は僕の足元を見やると、再び僕を見て言った。


「行くとこねぇんだろ。うち来る?」


僕は、裸足だった。






蓮茶、と一言添えて出されたお茶を飲んだ。クセが鼻を通り抜けたけれど、それ以上のみずみずしい喉越しがおいしくてすぐ飲み終えてしまった。


ワンルームの室内を改めて見回すも、特に見るものがない。というのも、物と言えば床に敷かれた布団とローテーブルのみ。キッチンは使った形跡がないものの水垢がこびりついていて、一人向けの小さな冷蔵庫が隣で佇んでいた。


おそらく洗面所であろう所から出てくると(入念に口をゆすいでいた)、僕の向かいに足を投げ出して座った。改めて彼を見ると、やつれた頬に髪は傷んでいるようで顔色も悪いけれど、自尊心までは失われていない威厳のようなものを感じた。くまがある目はしっかり開かれて、いつでも獲物を捉えられる鋭さがあった。


「助けてくれて、ありがとうございます」

「助け?ああ、俺ん家あの道以外通じてなくてさ。ほんと、邪魔だっただけ」

「そうですか」

「家出?」

「...」

「蓮茶、もっと飲む?」

「いただきます」


ピッチャーから注がれる濁ったお茶が、透明なグラスに満ちていく。そうだ、父が注ぐ酒も、いつも濁っていた。


男なら酒ぐらい飲んでみせろ。

酔った父はそんなめちゃくちゃな理由で僕を捕まえて、酒の入ったグラスを口に押し付けてきた。逆らうわけにはいかず、笑顔で僕は飲んでみせた。しかし焼けるような喉越しに吐き出してしまった。父は激昂し、酒を浴びせながら怒鳴った。


「男のくせに情けない奴だ」

「男のくせに恥ずかしい奴だ」

「男なら家族の役に立て」


そして僕を組み敷くと、僕の服を裂いた...それがいつの日の出来事だったのかも思い出せないくらい、日常と化していった。


「まだ笑ってんね」


その一言にはっとして、さらに笑ってみせた。


「すみません、癖っていうか、これしか出来ないっていうか」

「殴られても笑ってたな」

「ははは」

「そうやって、何されても笑ってんの?」


カネコさんの声が低くなった。鋭い眼光が僕を見る。


「今までそうやって生きてきたの?へえ」


乾いた音が室内に響いた。遅れて、頬がじんじん痛み出した。殴られたのだと理解した直後、


「痛ぇだろ」


間髪入れずにもう一発平手をくらった。「なあ」もう一発。一発。「痛ぇだろ。痛ぇって言えよ」一発。脳天がぶれるくらい鮮烈な痛みが走っている。頬に手をやろうとすると、首を摑まれて壁に叩きつけられた。カネコさんが片手でグラスを割り、僕に見せつけた。


「何笑ってんだよ。痛ぇなら、痛ぇって言えよ。笑いたくなんかないんだろ本当は。痛ぇって、泣きてぇんだろ。...泣けよ」


視線が合った。直後口にグラスの破片を突っ込まれると、下から拳を叩き込まれた。口の中で粉々に砕けたグラス片が激痛を雷のごとくほとばしらせた。

悶絶し、とにかく痛みを取り除きたくて嘔吐しながら指を突っ込む。血が吐瀉物が破片が、刺激過多で混乱する僕を、カネコさんが再び押さえつけた。


「痛ぇよな。なあ?...こんなことされても泣かないの?」


口の粘膜が血で燃えている。顎を完全に開かされ、動かすことすらできない。


「いや、本当は怒ってんだろお前。殺したいって思ってんだろ。なら笑うな。泣いて泣いて、怒れよ!自分殺して作って笑ってんじゃねえよッ!...お前が出来ないなら、俺が殺してやるよ。お前を踏みにじってきた奴ら、全員」


気づけば身を乗り出して、唇を重ねていた。人にキスしたことなどなかった僕のキスは、キスと言えるのか、触れるか触れないかくらいのかすかなものだった。


すぐに我に返って、自分のしたことに唖然としていると、彼と目が合った。


キスし返してきた。破片と血だらけの口内をものともせずあっという間に彼の舌が入ってきて、鋭い痛みに反射的に身を引いたが、無理矢理床に押し倒された。カネコさんは一度身を離すと、手早くシャツを脱いだ。暴力で鍛え抜かれた身体は傷と痣だらけで、目を見張っていると再びキスで口を塞がれる。ゴツゴツした彼の手が、僕の服の上を這って、パンツのファスナーを下ろした。動揺してとっさに身を固くすると、髪を摑まれて、唇に噛みつかれた。

ファスナーの空いた隙間に手が滑り込み、やわらかいペニスに触れる。下着をずらされて生身で触られると、思わず声が出た。手のひらでゆっくりさすられていくと、どんどんソコが濡れて粘ついていくのを感じた。

痛くて思うように喋れない。ひどく舌足らずに、僕は訴えた。


「はっ...ぁ、待って、待って」

「すげぇ濡れてる」


僕のYシャツを引きちぎるように無理矢理はだけさせると、乳首に吸い付かれた。キスと同様噛みつくようなそれは刺激が強くて、声が裏返った。


「声出せよ。気持ちいいならちゃんと出せ」

「んっんんっああっ」


恥ずかしくてたまらなかった。そんな様子を乳首を舐めながらカネコさんが長い髪の間から目を光らせ、妖しく笑った。


「勃ってきた」


精液を利用してぬるぬると先端を弄られて、ますます熱がソコに集中する。ますます、敏感にもなっていく。ダメだと思えば思うほど、彼の手の感触が、舌の感触が際立つ。


「あ、あっう」

「え?もしかしてイキそうなの?」

「んんっ...」


カネコさんが唾を引きながら顔を上げた。やめてもらえたとほっとして息を整えようとした瞬間、指を口に突っ込まれた。人を何人も殴ってきた血のついた指輪が粘膜を刺激し、痛みに思わず奥歯を噛みしめる。

カネコさんは眼の前にご馳走があるかのようにごくりと喉を鳴らすと、ニヤリとした。


「いいよ。イけ」

「あ、あああ!」カネコさんの手が急にペニスを大きく扱いて超絶な快感が駆け巡った。「あいっいく...イッ、ふ、ぅうううんっ!」


彼の指に噛みつきながら、射精した。その間口内で指が更に奥に突っ込まれて息がうまく出来ず、窒息しそうになりながら喘いだ。汚い声だった。


最後の一滴まで出し切ると、指が抜かれた。大きく咳き込みながら、股間がぐっちょりと濡れていて気持ち悪さを感じた。


「へえ。あれだけでイくんだ」

「はあ、はあ...ごめん、なさい」

「いいよ。...すげぇ興奮した」


耳元で囁かれると、鳥肌が立った。脱力したはずの股間がむずむずとして、興奮していることを自覚した。

僕の濡れたパンツも下着も脱がすと、カネコさんも脱いだ。日が沈みかけた薄暗い部屋でもわかるくらい、そそり勃った大きなペニスに息を飲んだ。


「男とするの初めて?」


首を振った。大きく唾を吐くと、少しだけ舌が回るようになった。


「...父に...父と」


言葉が詰まった。カネコさんの顔色を見るのが怖くてうつむくと、彼がそっと、顎を掬い上げた。

僕は泣いていた。目元が熱い。呼吸が乱れて、涙が溢れて止まらない。生まれて初めてといっていいほどの、涙だった。


涙と、唇に落とされたキスは、優しいものだった。痛くて、不味くて、酷い味が混ざりあった。


力なく丸まった僕を仰向けにさせると、ソコにペニスの先端があてがわれた。


「入れるよ」


足を上げて、目を閉じた。


僕の中が開いて、カネコさんを受け入れていくのを痛感した。めりめり圧迫されて、必死に息を吸う。

動きが止まったので目を開けると、カネコさんが僕を見つめていた。真剣な眼差し。茶色い毛先が僕の頬にかかった。


「痛ぇか?」

「...痛い」


答えると、カネコさんは自分の手のひらを入念に舐めて、僕のペニスを扱き始めた。僕の喘ぎは深いキスによって遮られた。親指が唾でぬめりながらカリを何度も擦って、ソコが再び熱を持つ。舌が口内を愛撫して僕の吐息はカネコさんが呑み、カネコさんの吐息だけが肺にいく。酸素が取り込めない。ぼんやりとしてきた僕の全身を、甘い快楽だけが支配していく。


「んんっ!」


突然の内側からの衝撃に痛みが走るも、ペニスを扱く力が強くてすぐに上書きされる。もう一度突かれて、規則的にカネコさんが腰を動かしていく。意識がペニスと穴を行き来して、どちらが痛くてどちらが気持ちいいのかわからなくなった。


ある一点を突かれたとき、身体が反り返った。あきらかに感覚が違う。カネコさんが一度腰を止めて、今度は強めに一突きすると情けない矯声が出た。


「ココ?」

「な、なにが」


答えの代わりに、力強く、激しく律動が再開した。未曾有の、これまでに感じたことのない体感に、自分でも無自覚に口走っていた。


「ああいい!気持ィィィ!あああああ!!」


射精とはまた違う快感に身が悶えた。尻の筋肉が硬直してきゅうっと穴が締り、身体の芯が痺れるような大きな波に堪えきれず、叫んだ。

全身の筋肉の緊張が解けるのに少し時間が必要だった。

けれどカネコさんが止まったのはほんの一瞬で、


「か、カネコさ、まってっまって」


脳が、沸騰しそうだった。息を切らしながら懇願すると、カネコさんがのしかかってきた。顔を、ねっとりとした手つきで撫で回した後、笑った。


「無理。可愛いすぎ」

「ああん!ああ!!あうう!!」


執拗に同じところを突かれて歯を食いしばると、カネコさんの親指がそれをこじ開けて無理矢理口に突っ込んできた。


「噛めよほらっ。気持ちいいんだろ、噛め!」

「ふううあっうう゛うう゛う゛ううう!!」


彼を傷つけたくないという思考は一瞬で、再び来た波に叫声を上げて、思い切り噛んだ。律動は止まず、絶え間なく来る内側からの刺激に力が抜けない。

3度目の波で、新しい新鮮な鉄の味が広がった。

口の力が抜けると指も引き抜かれた。腰の動きを緩慢にさせて、カネコさんは血の流れる親指を丁寧にしゃぶる。今すぐかぶりつきたいのをこらえている、本能に満ちた獣のようだった。

カネコさんは人を殺すとき、こんな顔をするのだろうか。


「中に出していい?」


僕の穴でカネコさんの精液が、ぐちゅっと音を立てた。もうぬるぬるだった。

朦朧とした意識で、頷いた。無意識に、もう完璧に勃った自分のペニスを扱いていた。

カネコさんの猛ったペニスが、肉を掻き分け入っていく。さっきよりも奥、さらに奥まで。ぱんぱんと肌同士が音を立てて、カネコさんは一心不乱に腰を振っていた。


「カネコさんッカネコさん」

「なに」

「痛くないっ...気持ちいい。カネコさんは気持ちいい?」


絞り出すように言うと、今までで一番、優しい穏やかな笑みを浮かべて頷いてくれた。僕が手を伸ばすと中指を口に含んで、僕の腰を掴むと激しく打ち付けた。


カネコさんの息が乱れていき、眉間に皺が寄った。一際強く噛まれたとき、彼が呻いた。


「んん゛んッ!」

「出してっ...僕もいくっ...イク!あっ!」


カネコさんが僕に覆いかぶさると同時に、2度目の射精をした。耳元で彼が微かに喘いでる最中、僕の中でペニスが蠢いて、精を吐き出しているのがわかった。何度かペニスを奥に押し込んで、身震いし、全体重を僕に預けた。


起き上がったカネコさんを見ると、顎に白い液体が飛び散っていた。


「あっ、ついてる」

「...ああ」


長い舌で舐めとり、手の甲で雑に拭った。ペニスを抜くと、あー!と深く息をついて、僕の横に大の字に転がった。


「あちぃ。風呂入る?」

「その前に、口どうにかしたいです」

「そっか。ていうか身体痛いだろ。もう少し横になってろ」

「カネコさん」

「ん?」

「どうして僕に...優しくしてくれるんですか」

「俺の行動、優しいだなんて初めて言われた」


カネコさんがおかしそうに笑いながら、こっちに首を向けた。


「やっぱり覚えてねぇのか。前に会ってるんだよ、俺達」

「え?どこで?」

「そのへんの路上で。俺強盗に遭ってさ、ボコボコにされた上有り金全部持ってかれて。...怖がって誰も俺に近づかなかったから、横たわってああこのまま死ぬんだなあって思ってたら...食いもんくれたの、お前が」


そう言われて思い出した。3ヶ月くらい前、土砂降りの日だった。

路上生活をする人は少なくなかったけれど、やたら若いホームレスだなと見ていたら、突然血を吐いたのだ。とっさに駆け寄って声をかけると、腹が減っていると呟いた。その時、夕飯にと買ってあったおにぎりを差し出したら、貪るように食べていた。あまりにも必死に口に詰め込むので、その日買ったものを全部置いて、帰った。


あれがカネコさんだったのか。


「先に助けてくれたのはお前だよ。お前変わってんね。この街に向いてないよ」

「... もし僕がここを出るなら、カネコさんも一緒に来てくれますか?」

「俺はここ以外じゃ生きていけないから」

「殺してくれるんじゃないんですか。僕の、死んで欲しい人たちを」

「やるよもちろん。お前が望むなら」


カネコさんは表情を変えなかった。


「好きなようにすればいい。どこで生きるのかも、どう生きるのかも、自分で決めればいい」

「...カネコさん...」

「風呂沸かしてくる。寝てろ」


かったるそうに立ち上がると、カネコさんは浴室に消えていった。少し動くと裂くような痛みがしてうずくまった。カネコさんの歯型がついた中指が脈打って熱くなったが、血は出ていなかった。





数日後。アパートを訪れた。ドアをノックすると、少し間を空けてカネコさんが出た。口元が赤紫に腫れていて、唇が切れている。また喧嘩したのだろうか。僕の心配をよそに「おはよ」となんてことないように言った。


「ちゃんと喋れるようになったな」

「まあ」

「上がるか?」

「いや、ここで大丈夫です」

「そうか」

「僕、ここを出ます」

「...そうか」

「僕はカネコさんに、人を殺してほしくないです」


カネコさんは一瞬黙った後、表情をそのままに「そうか」と呟いた。


「元気で、生きててほしいです」

「うん」

「カネコさん」

「ん?」

「...ありがとう」


唇のかさぶたにそっと触れる。


「よかったら、また、」


すると頭を引き寄せられて、唇を塞がれた。けれどすぐに解放されて、カネコさんは薄く笑った。


「じゃあな」


きぃ、と古びた音を立ててドアが閉まった。しばらく立ち尽くしてしまったけれど、荷物を持ち直して、僕はアパートを後にした。


僕は泣いた。カネコさんに殴られた頬が、カネコさんにキスされた口が、噛まれた中指が、入った跡が、痛かったからだ。今までこんなに痛みを感じて、泣きじゃくるなんてことなかった。...いや、痛みをごまかしてきただけなのかもしれない。それをカネコさんが生き返らせてくれたのだ。


痛みが優しいことを初めて知った。


拭っても拭っても涙は止まらなくて、僕は拳を握り締めて、歩き続けた。



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