なんか生きてたってみんな言うんです
柴田彼女
なんか生きてたってみんな言うんです
その夜は妙に客入りが悪かった。
隣町で祭りがあるからそれなりの売り上げを見込んでわざわざいつものルートを逸らしてまで幹線道路まで出てきたというのに、回れども回れども道路脇で片手を上げてタクシーを待っている人間はいなかった。
個人タクシーだからこそ、一日一日の売り上げがリアルに生活に反映する。
いっそいつも通りのルートに戻ろうか、そう思いウインカーを左に切り、住宅街へ続く細道の門で、ようやくこちらに手を振っている男が目についた。俺はハザードランプを焚き、男のすぐ前に停まる。手元のボタンで後部座席のドアーを開けてやると、男はゆっくりと乗り込んできて、
「神鳴谷駅までお願いできますか」
「かしこまりました」
「あの、何分くらいかかりますか?」
「ああ……まあ、二十分か二十五分か、そのくらいですかね。お急ぎですか?」
「あ、いえ、大丈夫です」
よくわからない、歯切れの悪い返事だな。そんなことを思いながら、ハザードランプをウインカーに切り替え、俺は神鳴谷駅まで最短ルートで向かい始めた。祭り会場と神鳴谷駅はちょうど反対方向だ。今は祭りの終盤、ちょうど見頃だし、渋滞に巻き込まれるようなことはないだろう。後部座席に座る男はきっちりとシートベルトを絞め、ただじっと自分の膝の上で握り締めた両手を見ている。
「今夜は七窓神社でお祭りですね。そのお帰りか何かですか?」
どうせ違うだろうな、と思いながら、取って付けたような会話を始める。男は、
「いえ、違います。さっき拾ってもらった辺りが自分の地元で……神鳴谷駅は、自宅のアパートまで乗り換えなしで帰られる駅ですね」
てっきり神鳴谷駅自体に用があるのかと思っていたが、そこから電車に乗って帰るのだと男は言う。タクシーの運転手が言うのもおかしな話かもしれないが、だったら先ほどの道から歩いて五分ほどの場所にある駅に乗って帰ればよかったのに、と思う。その駅も、神鳴谷駅まで乗り換えなしで着く。変な奴だな。地元ならなおさら駅の乗り継ぎだのなんだの、大体のシステムは把握しているだろうに。まあこんな客でも、金になるのだから別にいいか。あまり気にしないことにする。
「そうなんですね。この辺り、閑静な住宅街で、いいですよね。お綺麗なお宅が多くて。車で走っていても、気持ちのいい景色です」
「そうですか」
会話の続かない男だ。あまり話したくもないのか。俺は運転に集中しようとして、しかし、
「あの、運転手さん、一つお伺いしてもいいですか?」
「ああ、はい。わたしに答えられることであれば」
脈絡もなく、自ら話を切り出してきた。訊きたいこととは何だろうか。
「タクシーって、よく……怪談話とかでモチーフとして使われることが多いじゃないですか。びしょ濡れの女を乗せたら墓地に行くように指示されて、到着して振り向いたら濡れた座席だけがそこにあったとか……山奥の夜道を走っていたら子どもが立っていて、おかしいなと思って話しかけようと速度を落としたら急にその子どもが化け物みたいな見た目に変わって目の前に飛び出してきて、急ブレーキをかけるけどぶつかった感触はなく、当然エアバッグも作動せず、ゆっくりと目を開けてみたらそこには何もいなくて、その代わりに耳元で『チッ』ていう舌打ちが聞こえただとか……なんていうか、そういう」
「ああー、まあ……職業柄と言いますか、似たような噂話なら、聞かなくはないですねえ」
男はそわそわと小さく身を揺らしながら、
「運転手さんには、そういう話、ないんですか」
バックミラー越しに、俺の目を見てきた。ふざけているのか、ただの興味なのかがよくわからない。
とりあえず客の要望には答えておくかと、俺は昔何かの番組かラジオか、とにかく赤の他人の身に起こった出来事を、まるで自分事のように話すことにした。
「まあ、大した話じゃないんですけどね。あれも、きょうみたいな、蒸し暑い夏の夜でしたかねえ。いつも通りに、決まったルートをぐるぐると回っていると、息を切らして必死にこちらに手を振る男の人がいましてね。ああ、お客さんだ、と思って、ちょうどさっきお客さん……あなたを乗せたときみたいに、ハザードランプを焚いて、ゆっくりとその男の人の前に停まったんです。そしたらその人、いきなりドアーをガチャガチャ開けようとしましてね、ああお急ぎのかたなんだ、と思って、すぐにドアーを開けるスイッチを押したんです。そしたらその男の人が滑り込むようにして乗り込んできて、隣の県まで行ってくれ、って言うんです。当たり前ですけどこっちはタクシーですから、隣の県までお連れするとなると、とんでもない金額になってしまうんですよ。そのことを確認しようとして口を開く寸前、それを察知したのか何なのか、お客さんが持っていたトートバッグに手を突っ込んで、一万円札を何枚も、グシャグシャに握ってこちらに見せてきて、『金ならある、とにかく急いでくれ』って。ああなるほど、訳ありの人だなっていうのはすぐにわかりましたから、愛想よく、かしこまりましたあ、なんて軽く言って、車を出しました。高速道路に乗って、隣の県の、お客さんが指定なさった場所までお連れする最中、わたしは何度もこっそりとお客さんのお顔を確認しました。いやあね、タクシーっていうのは、たまーに犯罪にも利用されるんですよ。罪を犯した人が、急いでその場を立ち去るために、っていう感じで。ですから、もしそういう目的だったら大変なのでね、失礼な話ではあるんですけど、そのお客さんのお顔の特徴をしっかりと記憶しておこうと。そのお客さんは右の眉尻の下に大きなほくろがあって、両目は一重で、鷲鼻で、顎はすんと細長くて。車ですから、当然お客さんは座っていて、ズボンの色形までは確認できなかったけれど、カーキ色の少しくたびれたTシャツと、黒い大きなトートバッグをお持ちであることは見てとれました。二時間いかないくらいですかね、お客さんと共に二人きり……そうして、やっと目的地に着いたときには、もう二十三時を回っていました。お客さんにお代金を頂戴して、お釣りをお返しして、レシートをお渡しして、お客さんが立ち去ってからいつものように乗車日誌をつけて。ふと違和感を覚えて、お客さんから頂戴したお札をもう一度確認してみたんです。そうしたら数枚のお札すべてに、赤いインクで指紋がくっ付いていたんですよ。いやあ、血みたいな赤というか、赤黒さというか、なんとも気味が悪いなあって、もしかして誰かを刺して、そのままここまで逃げてきたのかな……なーんて、変な想像までしちゃってね。そこでわたし、自分の財布の中のお札と、お客さんから頂戴したお札、わざと交換したんです。売り上げのトレイには自分の財布に入っていたお札を入れて、もし何か事情のあった人だったなら、わたしが手元に残したお札とドライブレコーダーの記録を持って、警察に行こう、なんて考えながら、その日はまた自分の地元に帰って、ちょこちょこ別のお客さんを乗せて、そうして仕事を終えました。その三日後でしたかね、いつものように昼過ぎに起きて、携帯電話でニュースを見ていたら、そのお客さんにそっくりの顔写真が載った記事があったんですよ。でもね、おかしいんですよ。だってそのお客さん、わたしのタクシーに乗る前に、借金取りに刺されて、亡くなっていたんです。ご遺体はわたしがお客さんを連れて行った隣県の、お客さんを降ろした場所から少し離れた森の中で遺棄されていたみたいで。ああそうか、わたしはあの日、空っぽのご遺体に、魂を届けたんだなって、なんとなく、そうすんなり思えたんです。そういえばあのときお金を交換したなあって思い出して、確認してみたらなぜか赤いインクが消えていて、ただの、普通のお札になっていてね、それも怖かったなあ……まあでも、たぶんわたしの見間違いか何かだと思うんですけどね。似た顔つきの人を偶然乗せたとか、赤いインクは勘違いだとか見間違いだとか、そういう部類の話だとでも思っていただけたら、ね。じゃないと、怖くてタクシー運転手なんてやってられませんからね。わははは」
俺が喋っている間、男はただじっと押し黙って、俺の言葉に耳を澄ませていた。少し脅かしすぎただろうか、と思い、今度はこちらからバックミラー越しに男を見る。男は一切表情を変えず、
「ああ……そういうことって、やっぱりあるんですね」
奇妙なくらいあっさりと納得して、怖がっている様子もなかった。まあ、時間稼ぎにはなったかな。時計を見る。五分と時計が進んでいない。
あれ、おかしいな、と思いながら、まあ話に熱中して時間の感覚が少し鈍ったかな、と自らを納得させる。
「ああ……やっぱり、不思議なことってあるんですね……ああ、よかったです。そうですよね。何でもかんでも理屈で片付けられることばっかりなんかじゃないですよね。この世界は絶対に非科学的なことが起きないって信じるほうが、むしろ非科学的ですよね。そうですよね、ねえ、そうですよね?」
男がやけに早口でまくし立てる。俺は、そうですね、とか、はい、とか、無理矢理透き間にねじ込むように片手間のような相槌を打つ。男は言葉を続ける。
「いやあね、おかしいなって思ったんですよ……だって、僕、明らかにあの日に死んだんです。死んだはずなんですよ。だって、自殺したんですもん。迫りくる電車の前にひょいって飛び出して。神鳴谷駅の、最終電車に飛び込んで、確かに死んだはずなんですよ。一年前の、まさに、きょうでした。でも、次の瞬間、気づいたらなぜか今朝だったんです。今朝、気づいたら、僕、気がついてたんです。あれ? って思ってスマートフォンを見たら自殺した日からちょうど一年が経っていて、死ぬ前に消したはずのSNSも残っていて、死んでいたはずの期間にもいろんな言葉を投稿していて、友達とくだらないやり取りをしたり、会社にも通ったりしていた形跡がそこかしこにあって……でも、どこにもないんですよ、僕が死んだっていう、明確な形跡だけが。だから僕、いろんな人にメッセージを送ったんです。僕、一年前に自殺したよね? って。そしたらみんな口を揃えて『何バカなこと言ってるんだ?』って。どうやらこの一年間、僕、すごく真面目に生きていたみたいなんです。自殺したはずの日までの僕はひどく塞ぎ込んでいて、話しかけるのにも躊躇うくらい陰鬱で、だからみんな心配していたのに、その日を境にまるで人が変わったみたいに明るくなって、活発になって、ああよかったって、みんなでお前が前向きになれてよかったなって、噂してたくらいなんだよって。でも、僕にはその一年間の記憶がないんです。電車に飛び込んだあの夜から、今朝まで一気に、まるで時空をワープしてきたみたいに、一切の記憶がないんです。こんなの、おかしいですよね? 運転手さん、これっておかしい話ですよね? 僕は死んだはずなのに、死んでなくて、記憶がないまま生きてきて、しかも怪我をしていたとかそういう期間すらなくて、毎日を普通……いや、普通以上に、活動的な一年を暮らしていたんだってみんなが、みんなが、口を揃えて言っていて……」
男がバックミラー越しにへらっと笑って、
「だから、もう一回、試しに死んでみようと思って」
と、言った。
同時、目的地の神鳴谷駅に到着する。体感では自分の話が終わってからやはり五分程度しか経っていない気がする。しかし、明らかに俺は、二十分はかかる道のりを走ったのだ。目の前には、明らかに神鳴谷駅がある。
「あの、到着いたしました……」
動揺を悟られないように男に告げ、震える手で料金を受け取った。額面ぴったりの金を勢いよくしまい込み、早急に後部座席を開ける。
男は、
「ありがとうございました。助かりました」
そう言いながら、ゆっくりと車を降りつつ、
「ああ、今度は助からないといいなあ」
明らかに俺に聞こえるようにそう言い残して、駅のほうへと消えて行った。
男の後姿をじっと見ている。男は振り向かない。
遠くで祭りの終わりを告げる花火の音がちょうど七回鳴り響いた。
その間も、男が幽霊のようにふわっと消えてしまうようなことはない。男は黙々と歩いて、駅の中へと消えていく。
車内で後部座席のほうに振り向き、男の座っていた座席をじっと見る。水滴も、血痕も、異常なものは何もなく、そこに男が座っていたという証拠は、受け取った小銭くらいだった。
この駅に終電がやってくるまで、あと数時間ほど。男はその間、駅の中で何をするのだろう。あの男の話は本当なのだろうか。それともただの冗談なのだろうか、あるいは彼の妄想か、もしかすると。
あしたはニュース番組を見ないでいよう。
どんな結末だったとしても、俺は何かをあの男から受け取ってしまうだろうから。
そう思いながら、俺はまたゆっくりと車を走らせ始めた。
街の明かりが砂嵐のように、法定速度で淡々と過ぎ去っていく。
なんか生きてたってみんな言うんです 柴田彼女 @shibatakanojo
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