S誌(2017年2月号)大家はやめられない
*
……船橋哲夫は、このアパートの大家で三三歳。自身も一階の角室で暮らしている。荷物を運び出した後の室を点検している最中だった。
……山元美穂がこのアパートに移って来たときから、二年が経っていた。
短大へ通うための一人暮らしだったのであり、このたび、めでたく卒業して就職するのだという。
……このアパートは大家が常駐しているということで、若い娘をもつ親御さんたちにも好評であり、女性の入居者でいっぱいで繁盛していた。
長い睫毛に挟まれた瞳が潤んでいるように思えて、彼は動揺した。
入居してからの美穂とは、挨拶を交わすぐらいで、貸し手と借り手を越えるような関係ではなかった。何かアクシデントがあって助けたというような例も無い。
……しかし、期待に胸が高まってしまい、……許してしまった。
「わたし、知ってるんですよ。……」
哲夫は、毎朝アパート前の砂地を掃除するのを日課にしている。この二年間、短大に出かける彼女と数えきれないくらい挨拶を交わしてきた。
そして、彼女の言うことは間違っていないのであった。
哲夫は、彼女と会うのを愉しみにしていた。
整った顔立ちに、スラとした躯。
「いつも、……見てるし」
「知ってたの……?」
「あんなに見詰められたら、誰だって、気づきますよ」
美穂は、見上げるようにして哲夫と視線を合わせる。その潤んだような瞳を見ると、いとおしくなって、髪を撫でるようにした。
「……。大家さんの素敵な思い出になったらいいんですけど……」
「なったよ。でも、こんなに名残惜しいお別れは初めてかな……」
*
数週間後、哲夫は最寄りの駅の駐車場にいた。
山元美穂が去った室に、新たに入居するかも知れない訪問者を待っているのだ。
哲夫は不動産屋にまかせることはしないから、自身が案内役も務めるのである。
今回の訪問者は、短大の協同組合に出していた不動産情報を見て、連絡をとってきた。美穂が通っていたのと同じ短大に入学する男の子のようである。
哲夫が、軽自動車のフロントガラス越しに注視していると、駅の出入口に二人の男女が立った。周りをキョロキョロと見回している。
間違いない、下見に訪れた母子だ。
哲夫は自動車から降りて、母子にかけ寄った。彼女らの方も、彼を認めているようだ。
「こんにちは。失礼ですが、岡江博美さまでいらっしゃいますか」
彼の言葉に、女性は笑顔を見せた。
「はい。わたしが岡江博美でございます。こちらが息子の武です」
博美の横に立つ武が、チョコンとお辞儀をした。美しい顔だが、頼りない感じもする男の子だ。
「では早速、アパートを御案内しましょう。あちらの車に、お乗りください」
後部座席に坐った親子を、哲夫は改めてパックミラーで確認した。
それにしても、若く美しい。
博美のことだ。
セミロングの髪を掻き上げながら、外を見やる目は切れ長だ。細面でスッと鼻筋が通っている。
目立ったシワもないようで、とても短大に入学する歳の息子がいるとは思えない。
おそらく、まだ三〇代ではないかと思われた。
哲夫は、うっとりとした気持ちを切り替えるようにして、自動車を出発させた。
「歩いた場合は、一〇分くらいで通えますので……」
彼の言葉に、親子が頷ずいているのが伝わってくる。
「アパートには、ぼくも住んでいますから、もし何かあったら、直ぐに相談していただくこともできますので……」
すると、博美が畏まった様子で訊いた。
「大家さんでいらっしゃいますよね」
哲夫は何気なく応える。
「はい、大家です。船橋哲夫と申します」
「すみません。随分お若いなあと思いまして」
「ああ、そういうことですか」
アパート経営をしていると話すと、同じような反応を示す人が少なからずいるから、哲夫は馴れていた。
面倒臭いので、こういう場合は自分から経緯を話すことにしている。その方がスッキリして信用が得られるのだ。
「二〇代の頃に、株で少し利益を得まして、それを元手にアパート経営を始めたんです……」
哲夫の話に、親子は、
「ああ、なるほど」
大きな声を揃えた。
「さあ、到着しました。ここが、そのアパートです」
自動車を降りると、哲夫はまず、自身の室の玄関を指し示した。そして、親子に勧める室へと案内した。
武の次に入った博美が、声を上げる。
「わあ、綺麗ね。ここ、いいんじゃない? 武、どーお」
「うん、いいと思う」
好感触らしい親子に対して、哲夫は背中を押すつもりで言う。
「ここは、いわゆるワン・ケーということになるんですけど、六帖より半帖ほど大きくなっています。だから、ベッドを置いても、ゆったりと使っていただけると思います。……」
武が、好奇心からか質問した。
「大家さんの室も同じ広さですか」
哲夫は、笑顔で答える。
「そうですよ」
「株で儲けたのにですか」
「武! 何を言ってるの。申し訳ありません、失礼なことを申して」
息子を諭すように言う博美に対しても、笑顔を向けながら、哲夫は言った。
「いいえ、なんでも訊いてください。……で、ぼくは住居には、それほど拘らない方なんですよ。食べ物にも洋服についてもそうかも知れません。株だって、大儲けしてやろうと思ってやったんじゃありません。お金の勉強になるかなあと思ってのことだったんです……」
母子は、その話に黙って聞き入っていた。特に博美は大きく頷き、次のようなことを言った。
「ほらッ、武。聞いた? 何事も、お勉強よ。慾ばっかり多くちゃダメなのよ、やっぱり」
室を出るときには、息子の目から隠れるようにして囁くように言った。哲夫の手まで握って。
「たぶん、ここに決めることになると思います。息子のこと、よろしくお願いいたします」
*
後日、岡江母子から、正式に哲夫のアパートに決めた旨の連絡があった。
哲夫は、博美との接点が生まれたことにワクワクした気持ちが収まらないでいた。大事な息子の様子を見るために、度々アパートを訪ねてくれるかも知れないのだ。
会話ができるだけでも嬉しい。
近い内に、少なくとも、もう一度会える可能性はあった。
引っ越しの日である。
そして当日、哲夫の予想通り本当に、博美が引っ越しの手伝いをしに、息子に付き添ってきたのだった。
*
哲夫は親子と一緒に、電気、ガス、水道の確認をした後、自分の室に戻って本を読んでいた。
引っ越し業者も来て、しばらく外が騒がしかったが、思ったよりも早く静かになった。
初めての一人暮らしということもあって、荷物は少ないのかも知れない。
「まあ、学校に通うための下宿なんだし、勉強道具さえあればいいんだから」
何人もの学生に室を貸してきて、何度となく考えたことを、また独り言にしながら読書を続けた。
いつか没頭していた。
気づいたときには、一時間半は経っていた。
トイレに立って、手を洗っている最中に室のブザーが鳴った。ドアに向かって声をかけた。
「はーい。少々、お待ちください」
手を拭いて、ドアを開けると、博美が立っていた。
「先ほどは、どうも有難うございました。お渡し忘れたものがあって。それから、お願いがあるんですけれど、お室に入ってでは御迷惑でしょうか」
哲夫にとっては、博美と話ができるなんて願ってもないことだったから、嬉々として招き入れた。
彼は室にベッドを置き、空いた所に座卓を置いている。それに向かい合うように坐ると、博美が紙袋から辛子色の包装紙にくるまれた箱を取り出した。
「つまらないものですけれど」
「いいんですよ。変に、お気をつかっていただかなくとも」
「いいえ、これから息子が、最低二年はお世話になるのですから」
「そうですか……、有難うございます」
おそらく中身は菓子だろう。哲夫も、茶を用意しなければと立ち上がった。
「紅茶でよろしいでしょうか」
「お気つかいなく」
博美の透き通った声を聞いていると、決まりきった会話も心地良い。
哲夫が紅茶を座卓に運ぶと、博美が言った。
「お室、綺麗にしていらっしゃいますね」
哲夫は、嬉しく思いながら応える。
「そんなことはありません。物が少ないだけなんです」
「息子が、こんな風に生活できるかしら。今日から御飯も自分で用意するなんて言って、さきほど追い出されてきたところなんですけど、口だけ立派で。心配なんです」
引っ越し作業のことを考えたのであろう、博美は黒色のジャージ・ズボンに、青色の長袖Tシャツを合わせていた……。
哲夫は、その胸にチラチラと目をやりながらも、話は真面目にした。
「親御さんの気持ちは分かりますが、心配はいりません。食事の用意にも直ぐに慣れると思いますよ。やっぱり、親御さんの知らない所で、成長しているのではないでしょうか」
博美は安心したような、それでいて不服そうな、どちらともとれる表情をした。
「それならいいんですけど。あの子、親から見ても綺麗な顔をしてると思うんです。だから、女の子と問題を起こすのではないかと、そちらも心配で」
「確かに、美しい顔立ちをしているから、彼女はできるかも知れませんが……」
「そうでしょう!?」
声を荒げた博美に、哲夫は驚いた。彼女は続ける。
「見張っていて、ほしいんです」
「見張る? ですか」
「ええ。もし女の子と親しくしているようなところを見たら、わたしに連絡してほしいんです」
そのまま哲夫にチュッとキスをした。
*
哲夫と博美は、引き寄せられるようにして立ち上がると、お互いの背中に手を回した。
唇を重ねる。
哲夫は腰砕けになって、博美の服を強く掴んでしまった。
あまりの快感に……。
*
春は引っ越しシーズン。また一人、退去の申し出があった。
ポスターでも貼ってあったのか、壁には四角い跡。ヤカンでも置いたのか、キッチンの床材には焦げ跡。等々。
「えーと。申し訳ないんですけど、三年にしては瑕疵が多いですね……」
この室の住人だったのは、田村理恵という三五歳の女性である。二回目の契約期間満了前での引っ越しだ。
ガラスサッシから注ぐ暖かい光を浴びながら、哲夫は甘い匂いを嗅ぐのであった。
(「大家はやめられない」おわり)
切り刻んだ処女作(官能R15リミックス) 森下 巻々 @kankan740
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