Ⅹ
病院の中は空調が効いていて涼しい。教室みたいに効き過ぎもせず、かといって暑いわけでもない。まさに適温だった。売店で2人分のアイスを買って病室へと向かう。7階までエレベーターであっという間だった。プレートの名前を確認して、ノックをする。
「どうぞ」
彼女の声がした。ゆっくりとドアを引くと、ベッドの上に上体を起こした唯の姿があった。頭に巻かれた白い包帯が痛々しい。
「久しぶり」
彼女と喧嘩して以来、本当に久しぶりの対面だったので、なんだか余所余所しくなってしまう。
「遠いところまで、ありがとね」
彼女は申し訳なさそうに言って、ベッド横の椅子を勧めてくれた。
「ほんとよー。ていうかここ、1人部屋なの?贅沢ねぇ」
照れ隠しでついつい毒を吐いてしまう。彼女はそんな私を見て、くすくすと笑った。
佐久間くんが連行されたその日の晩、彼女は意識を取り戻した。あまりにも長く昏睡状態に陥っていたため、このまま目覚めないかもしれないとまで言われていたのだ。そんな彼女が奇跡を起こした。私はその夜、人生で初めて、嬉しくて泣いた。
3年生の短い夏休みも終盤に差し掛かり、彼女の容態も安定してきたところをお見舞いに訪れたのだ。
「佐久間くん、どうなっちゃうのかな」
「警察に連れて行かれて、それっきりだよ。少なくとも推薦はパーだろうね」
「捕まっちゃったら退学だよね」
「まあ、それだけ最低なことしたんだからさ、相応の報いを受けるべきだよ」
「……馬鹿だよ、佐久間くん」
と、彼女はポツリと悲しげに呟く。
「たかだか一人の天才を潰すために人生棒に振っちゃうなんて」
「ほんと、大馬鹿野郎よ、あいつ。一発かましてせいせいした」
「それ、怒られなかったの」
「今のところ何も言われてないから……多分」
今頃冷や汗が伝う。それを誤魔化すように話を変えた。
「ていうか、自分で天才って認めてるじゃん」
「もういいのよ、開き直った。私は天才。努力型の天才ね」
「もう、調子いいんだから」
会話が途切れそうになったところで、私はとうとう腹を決めた。伝えるべきことを、伝えなきゃいけないと思った。
「ごめんね。唯」
あんな事を言って、貴女を傷つけて――。あの日に限ったことじゃない。これまでずっと、私は貴女に憎しみを抱いてきた。それを貴女に悪意のない風を装ってぶつけて、痛めつけて、気持ちよくなってた。貴女の総てを駄目にしてしまいたかった。でも、貴女が見るも無残に枯れたからと言って私が報われることなんてきっとなかった。心が晴れるはずもなかった。最初から分かっていたくせに、私は貴女の破滅を願った。願うことで、貴女の呪いになれると思ったから。貴女が朽ちる、その限界まで見ていたかった。一緒に壊れてしまってもいいと思ったのだ。正気でない感情を彼女に向けていたのは確かだった。腐りきった考えだとは自分でも分かっていながら、それでやめることができなかった。貴女の呪いになることでしか、貴女を私のもとに繋ぎ止めておけない、そんな気がしたのだ。唯の瞳に、私という存在が映らなくなるのが怖かった。そもそも、すでに絵の道において、彼女には私など眼中になかったのだ。置いて行かれるというより、見捨てられるんだと思った。彼女は絵の道を突き詰め、やがてその先でいろんな才能と巡り合う。私のことなど、彼女は気にも留めなくなるかもしれない。そんな未来が、どうしようもなく怖かったのだ。
だから、貴女の呪いになってどこまでも纏わりついてやろうと、そう思った。
私は最低な人間だ。こうして、大切な人が死にかけてからじゃないと、ことの重大さに気づけない。いや、気づいていながら無視し続けていた。このまま状況が悪くなってしまえば――なんて冗談半分で、それでも半分は本気で思っていた。
でも、今は違う。貴女を失うのが怖い。私が貴女の不幸を願ったばかりに、こんなことになってしまったのかもしれない。総て、私のせいかもしれなかった。こんな未来、望んでいない。破滅すればいいのにと思っていた自分がそんなことを言うのは虫がいい話だということは重々承知だ。許されようなんて甘いことは考えていない。
それでも。
私は謝りたかった。
あの日、貴女の努力を足蹴にしたことを――。
そして、あの時願ったことを――。
貴女が枯れてしまえばいいのに、と。
貴女が咲かなければいいのに、と。
唯、ごめんなさい――。
「いいの。そんなこと」
私の目を見て、それからからりとした口調で、彼女は言った。
「天才は憎まれてなんぼ、だっけ?」
口元に笑みをたたえた彼女は私に聞いてくる。
「他に何言ったか覚えてないよ」
「私だって、忘れちゃった」
久しぶりに二人で笑った。大して面白くもないのに、二人で笑うことの素敵さを痛いほど感じて、目がチカチカして、それが素晴らしくて、笑った。彼女が生きていてよかったと、心の底から思った。
彼女には、どうしても聞いておきたいことがあった。少し落ち着いてから、彼女に問う。
「あの日ね、佐久間くんから聞いたんだ。唯が県内の大学の推薦を頑なに譲らなかったって。もっと上の大学、都会の方にも行けたのにって」
「あそこが早く合格決まるからね」
「違うでしょ」
私は彼女の真意を知りたかった。
「ほんとは私のためなんでしょ。私が目指してるのが地元の公立だから。私と一緒にいようって」
「もう葵ったら、自意識過剰」
彼女は破顔する。それから、少し悲しげな顔になって、正解、と呟いた。
「でも、駄目になっちゃった。この手じゃ、推薦入試には間に合わない」
彼女は包帯の巻かれた腕を悲しげに見下ろす。
「大丈夫だよ、唯。まだ他の大学がある。少しレベルの高い大学なら、推薦が間に合うところもあるって」
アイスの蓋を取りながら、担当の先生に聞いたことを伝えた。彼女は手を使えないから、彼女の分まで取ってやる。
「私ね、唯を憎むの、疲れちゃったんだ。だから、もう一緒にいなくても、いいのかもって。こんなこと言える立場じゃないけどさ、自由に、どこへでも行きなよ」
都会の方とか、と笑って言った。それなのに
「いやだ」
彼女は強くそう言った。
「私は、葵に憎まれていたい。愛されていたいの。そんな捻れた感情の繋がり合いがとっても心地よかった。だからまだ、このままでいたい」
「もうできないよ。これ以上貴女を苦しめるわけにはいかない……それに、唯だってほんとは嫌だったんでしょ?あの日いつにも増して本気で怒ってたじゃん」
「それはそっちが、天才とか才能とか、わざとムカつくようなこと言って煽ってくるからだよ。スランプになって、ただでさえ焦燥感半端なくって追い詰められてたってのにさ。ちょっとは察してよー」
ごめん、とつい呟いた。なんだか立場が逆転している気がする。いや、端からこうだったんじゃないかと疑ってしまう。彼女は、私の性格を分かってて、
「いいよ、別に」
彼女はからりと言った。それから、あのね、と続ける。
「私の可能性を見出してくれたのは、葵だよ。貴女が美術部に誘ってくれなかったら、私はこの道に進まなかった。今頃絵なんて描いていなかったと思う。総て、葵のおかげ。総て、葵のせい」
だからさ、と小悪魔のような微笑みを浮かべて唯は言った。
「責任、ちゃんと取ってよ」
「……好きにして」
彼女は左手で器用にスプーンを使い、アイスを掬った。彼女の好きな、チョコアイスだ。私は勿論レモンシャーベット。サクサクと軽快な音を立ててシャーベットを掘る。
「佐久間くん、バニラ好きだったよね」
「またあいつの話ー?」
そう言ってみるけど、やっぱり、彼女にとって佐久間くんは大切な人だったみたいだ。彼女は彼の名を出す時、少し苦しそうにする。
「唯は、佐久間くんのこと、許せる?」
彼女に問うと、彼女は押し黙って、暫くして言った。
「許せないよ。この先も、許せる日が来るとは思ってない」
「そっか」
聞いておきながら、気の利いた返事は用意していなかった。
「でもね」
沈黙を破るように彼女が口を開いた。
「全部が嘘だったとは、思ってないよ」
いつだったか、彼が戦友と言った時、それが嘘のようには聞こえなかった。彼らは互いに励まし合って、あの教室でそれぞれのカンヴァスに向き合っていたのだろう。私が邪魔者に思えるくらい、あの空間は二人のものになっていた。総てがつくりもののようには見えなかった。私にだって、そう思えたのだから。実際、彼らの関係が羨ましかった。
「私も、そう信じてる」
私は彼女に寄り添うように呟いた。ただ時期と状況が悪かっただけ。そう信じたいだけなのかもしれない。でも、それでよかった。今の彼女にとって、真実はそれだけでいいと思った。
アイスを食べながら、ふと思い出して気になっていたことを聞いた。
「そういえばあの日、なんで手を振ってたの。あんな喧嘩をした後だったのに」
彼女は少しうーんと考えた。それから、
「条件反射みたいなものだよ」
と言った。
「葵が見えたから、手を振った。ただそれだけ。深い意味なんて何もないよ。私達、ずっとそういうくだらない関係でしょ」
そんなものか。なんだか拍子抜けした。くだらない関係。私が仰々しい名前をあてがっていただけで、所詮はその程度のものなのか。くだらないことを話して、くだらないことで笑って……あぁもう本当にくだらない。でも、思い返せば中学生の頃から、憎しみなんて抱くこともなかったあの頃から、ずっとそうだった。私たちは、ただのくだらない親友だった。くだらないから、心地いい。ああ、なんだ、そうだったのか。思わず唇の端が緩んだ。シャーベットを口に含む。レモンの香りが鼻を抜ける。爽快な味わいだった。彼女は彼女で、チョコアイスを堪能している。美味しい、と呟いて彼女が花笑みを見せた。彼女は本当に、綺麗に笑う。その花笑みを罪だと思った。でも、彼女が贖うべきだとは思わなかった。その無邪気さに腹黒い思惑などこれっぽちも見えない。この罪は、きっと私のものなのだろう。だから、私だけが胸の内に抱えて生きればいい。許せなくなるほど愛しているから、それさえ幸せなことだと思える気がした。
蝉の声が窓越しにも聞こえてきた。
「もうすぐ、夏が終わるね」
唯はどこか寂しそうに、窓の外を見て言った。この夏の間に、彼女が筆を持つことは叶わないだろう。素晴らしい才能はあの事件のせいで咲かずじまいだ。でも、いつか彼女の花は咲く。それだけは確かに分かった。夏が終わり、秋が来て、季節外れの花が咲くかもしれない、秋に咲かなくったって、冬がある。冬が駄目だって、春がある。また次の夏だっていい。
きっと、貴女は咲く。
だって、貴女は、私が憎んで、私が愛した「天才」なのだから。
窓の外を見やると、澄んだ空が広がっていた。幼さも、脆さも、いびつさも、何もかも含んだ青色が目に刺さる。その鋭利さが、恥ずかしくて、痛ましくて、でもどういうわけか誇らしい。私たちのこの夏を美しい言葉で片づけてしまうことなんて決してできない。しようとも思わない。実際あの教室に渦巻いていたのは醜い感情ばかりだった。どうやったって綺麗にならない思い出には青がお似合いなのかもしれない。この空なら、私たちの何もかもをそのまま受け止めて、包み込んでくれるはずだ。
彼女のことは相変わらず憎い。だけどそれ以上に、大切で愛しい。この混じり合う愛憎には、いまだに折り合いをつけられないでいる。これから先だって矛盾した思いを抱くことがあるかもしれない。けど、この青なら私のありのままの感情を受け止めてくれる。抱き締めてくれる。それがどんなに醜い呪いだったとしても。そんな気がしたのだ。
美しく穢れたこの空に祈りを捧げた。
今年の夏は、貴女の笑顔が咲くなら、それだけでいい。だから――。
どうか、私の隣で、この先もずっと咲き誇っていて――。
そんな身勝手な願いを、蒼穹に託す。
【了】
今年の夏は、貴女が咲かない。 見咲影弥 @shadow128
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