KidsRoomMan

島原大知

本編

滋賀県の山間に佇む古い農家。その二階の四畳半の部屋で、青木翔は今日も一日を無為に過ごしていた。窓から差し込む夕日が、埃っぽい畳に斜めの影を落としている。翔は布団の上で横たわったまま、天井のシミを眺めていた。


うつ病。その診断を受けてから、もう半年が過ぎていた。東京の会社を辞め、実家に戻ってきてからというもの、翔の世界はこの四畳半に閉じ込められていた。外の世界は遠く、自分には手の届かないものになってしまった気がした。


「翔、ごはんできたよ」


階下から母の声が聞こえる。翔は目を閉じ、返事をする気力すら湧かなかった。食事の匂いが部屋に漂ってくるが、それすら胸焼けを起こすだけだった。


しばらくすると、階段を上がってくる足音が聞こえた。ノックの音。


「お兄ちゃん、入るよ」


返事を待たずにドアが開く。妹の美月だった。大学生になった妹は、相変わらず明るく元気だった。その姿を見るたびに、翔は自分がどれだけ落ちぶれたかを思い知らされた。


「もう、またごはん食べてないの?」美月は心配そうな顔で翔を見つめた。「このままじゃ体壊しちゃうよ」


翔は目をそらした。妹の優しさが、かえって自分を責めているように感じられた。


「大丈夫だから。食べたくなったら降りるよ」


嘘だった。食べたくなる気はしなかった。ただ、これ以上心配をかけたくなかっただけだ。


美月はため息をついた。「わかった。でも、お母さんが心配してるから、少しでいいから顔を見せてあげてね」


翔は小さくうなずいた。美月が部屋を出ていく。ドアが閉まる音が、やけに寂しく響いた。


外は完全に暗くなっていた。田舎の夜は、都会とは比べものにならないほど静かだ。その静けさが、翔の心をさらに重くしていく。


ふと、階下から音が聞こえてきた。ギターの音色だった。美月が弾いているのだろう。最初は単純なコード進行だったが、次第に複雑になっていく。そして、美月の歌声が重なった。


翔は思わず耳を澄ました。妹がこんなに上手くギターを弾けるようになっていたことに驚いた。歌声も、子供っぽさが抜けて、艶のある大人の声になっていた。


曲は翔の知らないものだった。おそらく美月のオリジナル曲なのだろう。歌詞は聞き取れなかったが、メロディーには何か懐かしさを感じた。


翔は目を閉じ、美月の演奏に耳を傾けた。気がつくと、指が自然とリズムを刻んでいた。忘れていた感覚が、少しずつよみがえってくる。


かつて、翔も音楽に夢中だった。大学時代はバンドを組み、ライブハウスで演奏したこともある。でも、就職を機に音楽からは遠ざかってしまった。社会人になれば、そんなものは趣味の範疇を出ない。そう思い込んでいた。


美月の演奏が終わると、部屋に静寂が戻ってきた。翔はゆっくりと体を起こした。久しぶりに、何かをしたいという気持ちが湧いてきた。


押し入れの奥に、ずっと眠っていたギターケースがある。翔は迷いながらも、その方に手を伸ばした。ケースを開けると、埃をかぶったギターが現れた。


指で弦を軽くはじく。少し音程が狂っているが、懐かしい音色が部屋に響いた。翔は静かにギターを抱え、チューニングを始めた。


しばらくすると、ノックの音がした。


「お兄ちゃん、音が聞こえたけど...」美月が顔を覗かせる。そして、翔がギターを持っているのを見て、目を丸くした。


「えっ、弾いてたの?」


翔は少し照れくさそうに頷いた。「ちょっとね。久しぶりだから指が動かないけど」


美月の顔が輝いた。「すごい!私も最近始めたんだ。お兄ちゃんに教えてもらえるかな?」


翔は戸惑った。自分がなぜギターを手に取ったのか、自分でもよくわからない。妹に教えられるほどの腕前はないし、そもそも人と関わる自信もなかった。


しかし、美月の目が期待に満ちているのを見て、翔は弱々しく笑った。「まあ、昔取った杵柄ってやつかな。でも、あんまり期待しないでよ」


美月は嬉しそうに部屋に入ってきた。「いいの、いいの!お兄ちゃんが教えてくれるだけで嬉しいよ」


翔は軽くギターをかき鳴らした。指の感覚が少しずつ戻ってくる。「じゃあ、簡単なコードから始めようか」


美月は熱心に翔の指の動きを見つめた。翔は基本的なコードの押さえ方を教え始めた。妹の上達の早さに驚きながら、翔は少しずつ昔の感覚を取り戻していった。


気がつくと、二人で簡単な曲を合わせるまでになっていた。美月の歌声に合わせて翔がギターを奏でる。不思議と心地よかった。


「お兄ちゃん、すごいね!昔はバンドやってたんだっけ?」


翔はその言葉に少し戸惑った。昔のことを思い出すのは、今の自分を思い知らされるようで辛かった。でも、今はそんな気持ちよりも、音楽を奏でる喜びの方が大きかった。


「ああ、大学の時にね。でも、所詮アマチュアだよ」


美月は首を振った。「違うよ。お兄ちゃんの演奏、すごくいいと思う。もっと自信持っていいんだよ」


その言葉が、翔の心に沁みた。自信。それは失ってしまったと思っていたものだった。


二人の演奏は夜遅くまで続いた。久しぶりに、時間が過ぎるのを忘れるほど何かに没頭した。それは小さいけれど、確かな変化の兆しだった。


翌朝、翔は久しぶりに自分から布団を出た。体はだるかったが、昨日の感覚がまだ残っていた。階下に降りると、両親が驚いたような顔をした。


「おはよう」翔はぎこちなく言った。


「あら、翔」母が嬉しそうに微笑んだ。「珍しいわね。朝ごはん食べる?」


翔は小さく頷いた。テーブルにつきながら、両親の心配そうな視線を感じた。申し訳ない気持ちと、何か変わらなければという思いが交錯する。


食事を終えると、翔は庭に出た。久しぶりの外の空気に、少し目眩がした。青い空。さわやかな風。当たり前の風景が、新鮮に感じられた。


その日から、翔は少しずつ日課を作り始めた。朝は庭で深呼吸をする。昼は短い散歩。そして夜は美月とギターの練習。小さな変化だったが、それでも以前よりはずっとましだった。


ある日の夜、美月が興奮した様子で翔の部屋に飛び込んできた。


「お兄ちゃん、聞いて!地元で小さな音楽イベントがあるんだって。私たち、出てみない?」


翔は驚いて美月を見た。「えっ、イベント?僕らが?」


美月は目を輝かせていた。「うん!お兄ちゃんのギター、私の歌。きっと大丈夫だよ。それに、目標があった方がいいでしょ?」


翔は迷った。人前で演奏するなんて、今の自分に出来るだろうか。不安が胸をよぎる。


しかし、美月の期待に満ちた顔を見ていると、断る言葉が出てこなかった。


「わかった」翔は小さくため息をついた。「でも、失敗しても責任取らないからね」


美月は飛び上がって喜んだ。「やった!大丈夫、きっと大丈夫だから!」


その晩、翔は久しぶりに胸の高鳴りを感じた。不安と期待が入り混じる複雑な感情。でも、それは生きている証だった。


翔は窓を開け、夜空を見上げた。満天の星空が広がっていた。都会では決して見ることのできない光景だ。


小さな光の一つ一つが、何かを語りかけてくるようだった。


「まだ、終わりじゃないのかもしれない」


翔は小さくつぶやいた。星空の下で、新たな一歩を踏み出す決意が、少しずつ形になっていくのを感じていた。


イベントまであと一週間。翔は自室で必死にギターの練習を重ねていた。かつては自然に動いていた指が、今はぎこちない。音程が狂い、リズムも不安定だ。焦りが募る。


「くそっ」


思わず呟いた言葉が、静かな部屋に響く。翔は深いため息をついた。うつ病の症状は相変わらずだった。気分の浮き沈み、不眠、食欲不振。それでも、音楽という小さな光が、彼の日々に僅かばかりの彩りを与えていた。


ノックの音がして、美月が顔を覗かせた。


「お兄ちゃん、どう? 調子はいい?」


翔は苦笑いを浮かべた。「いまいちだな。昔の感覚が全然戻ってこない」


美月は部屋に入ってきて、翔の隣に座った。「焦らなくていいよ。ゆっくりでいいんだから」


その言葉に、翔は少し救われた気がした。しかし同時に、妹に頼ってばかりの自分が情けなくもあった。


「ねえ、お兄ちゃん」美月が静かな声で言った。「私ね、お兄ちゃんが音楽を始めてくれて、本当に嬉しいんだ」


翔は驚いて妹を見た。美月の目には、真剣な光が宿っていた。


「だって、お兄ちゃんがずっと部屋に閉じこもってた時、私、どうしていいか分からなくて...」美月の声が少し震えた。「でも、音楽のおかげで、少しずつお兄ちゃんが戻ってきてる気がするんだ」


翔は言葉を失った。自分がどれだけ周りに心配をかけていたか、改めて実感した。


「ごめんな」翔は小さく呟いた。「心配かけて」


美月は首を振った。「謝らなくていいの。ただ、お兄ちゃんには幸せになってほしいだけ」


その言葉が、翔の心に沁みた。幸せ。それは遠い世界の話のように思えていた。でも、今こうして妹と音楽を共有できているこの瞬間は、確かに幸せだった。


「ありがとう」翔は静かに言った。「頑張るよ」


美月は嬉しそうに頷いた。「うん!私も頑張る!」


その日から、翔の練習にさらに熱が入った。それでも、思うように上達しない自分にもどかしさを感じることもあった。そんな時は、美月の言葉を思い出す。「焦らなくていい」。少しずつでいい。その言葉を胸に、翔は前に進もうとしていた。


イベント前日、翔と美月は地元の音楽教室で最後の練習をすることにした。そこには他のミュージシャンたちもいた。みな翔たちよりずっと若く、生き生きとした表情で練習に励んでいる。


翔は思わず萎縮してしまった。自分たちの演奏は、彼らに比べればお遊びのようなものだ。そう思うと、急に自信がなくなってきた。


「どうしたの、お兄ちゃん?」美月が心配そうに聞いてきた。


「いや...」翔は言葉を濁した。本当のことは言えなかった。「ちょっと疲れただけ」


しかし、美月は翔の本心を見抜いたようだった。


「お兄ちゃん、人と比べる必要なんてないよ」美月は優しく言った。「私たちは私たちの音楽をするだけでいいんだから」


その言葉に、翔は少し救われた気がした。そうだ。人と比べても仕方ない。自分たちにできることをすればいい。そう言い聞かせながら、翔は再びギターを手に取った。


練習を終えて帰ろうとした時、一人の男性が声をかけてきた。


「すみません、さっきから聞いてたんですけど、お二人の演奏、素敵でしたよ」


翔と美月は驚いて振り返った。そこには、30代後半くらいの男性が立っていた。温和な表情で、どこか安心感を与える雰囲気の人だった。


「あ、ありがとうございます」翔は戸惑いながら答えた。


男性は柔らかく微笑んだ。「岡本と言います。こちらで音楽を教えてるんです。お二人、明日のイベントに出られるんですよね?」


翔は小さく頷いた。「はい...まあ、素人同然ですけど」


岡本は首を振った。「いえいえ、そんなことないですよ。特に兄さんのギター、味があっていいですね」


その言葉に、翔は驚いた。自分の演奏が、人に評価されるなんて思ってもみなかった。


「あの...」翔は躊躇いながら言った。「僕、実はうつ病で...」


言いかけて、翔は口をつぐんだ。なぜそんなことを話してしまったのか。しかし、岡本の表情は変わらなかった。


「そうだったんですか」岡本は静かに言った。「実は私も昔、うつを経験したんです」


翔は驚いて岡本を見た。明るく自信に満ちた岡本が、うつ病だったなんて信じられなかった。


「音楽が私を救ってくれたんです」岡本は続けた。「辛い時も、音楽があれば乗り越えられる。そう信じています」


その言葉が、翔の心に深く響いた。音楽の力。それは翔自身も、薄々感じ始めていたものだった。


「頑張ってください」岡本は優しく言った。「明日のイベント、楽しみにしてますよ」


岡本との出会いは、翔に小さな自信を与えてくれた。プロから認められたという事実が、彼の背中を押した。


イベント当日。会場は予想以上の人で溢れていた。翔は楽屋で、激しい動悸を感じていた。ステージに立つ自信がない。逃げ出したい衝動と戦っていた。


「大丈夫?」美月が心配そうに声をかけてきた。


翔は無理に笑顔を作った。「ああ、大丈夫だよ」


しかし、その言葉が嘘だということは、美月にも伝わっているようだった。


「お兄ちゃん」美月が真剣な顔で言った。「失敗してもいいんだよ。ただ楽しもう」


その言葉に、翔は少し落ち着きを取り戻した。そうだ。失敗を恐れていては何も始まらない。ただ、自分たちの音楽を楽しめばいい。


「青木さん、準備お願いします」スタッフの声がした。


翔は深呼吸をした。美月の手を軽く握り、ステージに向かった。


明るい照明。観客の視線。それらが一気に翔を襲った。足が震える。冷や汗が背中を伝う。それでも、翔はギターを手に取った。


「こんにちは」美月が明るく挨拶をした。「青木美月です。こちらは兄の翔です」


会場から小さな拍手が起こる。翔は硬直したような表情で、かろうじて頭を下げた。


美月が翔に目配せをした。合図だ。翔は震える指でギターを爪弾いた。


最初の音が、会場に響く。


その瞬間、翔の頭の中が真っ白になった。次に弾くべき音が思い出せない。パニックに陥る。


「お兄ちゃん」


かすかに聞こえた美月の声に、翔は我に返った。美月が優しく微笑んでいる。その表情に、翔は少し落ち着きを取り戻した。


深呼吸をして、もう一度ギターに手をかける。今度は、なんとか音を紡ぎ出すことができた。


美月の歌声が重なる。二人の音が、少しずつ調和していく。


翔は必死に指を動かした。ミスは何度もあった。でも、美月の歌声に支えられ、なんとか最後まで弾ききることができた。


演奏が終わると、会場から拍手が起こった。大きな拍手ではなかったが、温かいものを感じた。


舞台袖に戻ると、翔はへたり込んでしまった。


「お兄ちゃん!」美月が駆け寄ってきた。「大丈夫?」


翔は虚ろな目で美月を見上げた。「ごめん...めちゃくちゃだった」


美月は首を振った。「ううん、そんなことない。とってもよかったよ」


しかし、翔の耳には美月の言葉が入ってこなかった。自分の失敗が頭の中でリプレイされ、どんどん落ち込んでいく。


楽屋に戻ると、岡本が待っていた。


「お疲れ様」岡本が声をかけてきた。「良かったですよ」


翔は俯いたまま、小さく頷いた。岡本の言葉が、心にまで届かない。


「青木さん」岡本が静かに言った。「失敗は誰にでもあります。大切なのは、そこから何を学ぶかです」


翔は黙ったまま、岡本の言葉を聞いていた。


「今日の経験を糧にして、また頑張ればいい。音楽は、そういうものなんです」


岡本の言葉に、翔は少し顔を上げた。その目には、まだ迷いがあったが、かすかな希望の光も宿っていた。


「ありがとうございます」翔は小さく呟いた。


岡本は優しく微笑んだ。「これからも応援してますよ。頑張ってください」


その夜、翔は眠れなかった。イベントでの失敗が、頭の中でぐるぐると回り続ける。自己嫌悪に陥り、もう二度と人前で演奏したくないと思った。


翌朝、翔は再び部屋に引きこもった。美月が何度か声をかけてきたが、返事をする気にもなれなかった。


数日が過ぎた。翔はまた以前のように、ベッドで一日中過ごすようになっていた。ギターには触れようともしない。


ある日、美月が翔の部屋に入ってきた。


「お兄ちゃん、これ」


美月が差し出したのは、一通の手紙だった。


「イベントの主催者から届いたんだ。お兄ちゃん宛て」


翔は驚いて手紙を受け取った。封を開けると、そこには見知らぬ人からのメッセージが書かれていた。


「青木さんの演奏を聴いて、とても感動しました。私も以前うつ病を患っていて、音楽に救われた一人です。あなたの音楽に、同じような思いを感じました。これからも音楽を続けてください。応援しています」


翔は何度も手紙を読み返した。自分の音楽が、誰かの心に届いた。その事実が、翔の心に温かいものをもたらした。


「お兄ちゃん」美月が優しく言った。「また、始めよう」


翔は静かに頷いた。そうだ。ここで諦めるわけにはいかない。たとえ小さな一歩でも、前に進もう。


翔は久しぶりにギターを手に取った。そして、新たな曲を作り始めた。それは、自分の経験と感情を素直に表現した曲。うつ病との闘い、音楽との再会、そして希望。


指先から紡ぎ出される音色が、翔の心を少しずつ癒していく。


まだ道は長い。でも、音楽という道標があれば、きっと前に進めるはずだ。翔はそう信じて、静かにギターを奏で続けた。


滋賀の山あいに、秋の気配が忍び寄っていた。寒暖の差が激しくなり、朝夕には肌寒さを感じるようになっていた。青木翔の部屋の窓からは、少しずつ色づき始めた木々が見える。その景色を眺めながら、翔は静かにギターを奏でていた。


指先から紡ぎ出される音色は、以前よりも落ち着きを帯びていた。失敗を恐れる気持ちは相変わらずあったが、それでも音楽と向き合う勇気が少しずつ芽生えていた。


「翔、ちょっといい?」


母の声に、翔は演奏を中断した。ドアを開けると、母が心配そうな顔で立っていた。その手には一通の封筒が握られている。


「これ、病院からよ」


母が差し出した封筒を、翔は静かに受け取った。開封すると、そこには次の診察日が記されていた。うつ病の治療は継続中だ。薬の効果か、症状は少しずつ和らいでいたが、完治にはまだ遠い道のりがあった。


「ありがとう」翔は小さく呟いた。


母は少し躊躇いがちに言葉を続けた。「あのね、翔。最近、少し元気になったみたいで嬉しいわ。音楽のおかげかしら?」


翔は複雑な表情を浮かべた。確かに、音楽は彼に小さな希望をもたらしていた。しかし同時に、自分の未熟さや社会からの孤立感を痛感させるものでもあった。


「まあ...少しはね」翔は曖昧に答えた。


母は安堵したような、しかし何か物足りなさも感じるような表情を見せた。「そう。頑張り過ぎないでね」


母が去った後、翔は再びギターを手に取った。しかし、今度は音が出てこない。診察の事を考えると、急に重圧を感じた。回復への期待。それは同時に、プレッシャーでもあった。


そんな翔の心の揺れを知ってか知らずか、妹の美月が元気よく部屋に飛び込んできた。


「お兄ちゃん! 聞いて聞いて!」


美月の目は輝いていた。その手には一枚のチラシが握られている。


「地元のカフェでライブイベントがあるんだって。私たち、出てみない?」


翔は息を呑んだ。前回の失敗が頭をよぎる。しかし、美月の期待に満ちた表情を見ていると、簡単に断ることもできない。


「でも...前みたいに失敗したら...」


美月は首を振った。「大丈夫だよ。今度は絶対うまくいく。お兄ちゃん、最近すごく上手くなったもん」


その言葉に、翔は少し勇気をもらった。確かに、毎日の練習で少しずつ上達しているのは自分でも感じていた。それでも、人前で演奏する自信はまだなかった。


「考えておく」翔はそう答えるのが精一杯だった。


美月は少し残念そうな顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻した。「うん、ゆっくり考えてね。私、お兄ちゃんと一緒に演奏できるの、すっごく楽しみにしてるんだ」


その言葉が、翔の心に温かいものをもたらした。妹の純粋な思いが、彼の閉ざされた心を少しずつ開いていく。


翔は窓の外を見た。庭には、赤や黄色に色づいた葉が舞い落ちている。季節の移ろいを感じながら、翔は静かに決意を固めた。


「やってみよう」


その言葉に、美月の顔が輝いた。


それからの日々、翔と美月は熱心に練習に励んだ。毎晩、二人の演奏が家中に響き渡る。両親も、最初は心配そうだったが、次第に二人の成長を喜ぶようになっていった。


ライブまであと一週間という日、翔は岡本に連絡を取った。前回のイベント以来、時々アドバイスをもらっていた岡本は、翔たちの出演を聞いて喜んでくれた。


「がんばってください」岡本の声には、温かな励ましが込められていた。「音楽は、人の心を癒す力がある。それを信じて」


その言葉に、翔は深く頷いた。音楽の持つ力。それは、翔自身が身をもって感じていたものだった。


ライブ当日。会場となったカフェは、温かな照明に包まれていた。木の温もりを感じる内装が、翔の緊張を少し和らげる。


客席には20人ほどの観客が座っていた。前回よりも小規模なイベントだが、それでも翔の心臓は早鐘を打っていた。


「大丈夫」美月が翔の手を軽く握った。「私たちの音楽を、みんなに届けよう」


翔は小さく頷いた。深呼吸をして、ステージに向かう。


ギターを手に取り、客席を見渡す。そこには、岡本の姿もあった。岡本は微笑んで頷いてくれた。


翔は目を閉じ、ゆっくりとギターを奏で始めた。最初は震える指だったが、徐々に安定してくる。美月の歌声が重なる。二人の音が、静かにカフェ内に広がっていく。


演奏しながら、翔は様々な思いを巡らせていた。うつ病になってからの苦しい日々。音楽との再会。妹や家族の支え。そして、少しずつだが確実に前に進んでいる自分。


気がつけば、最後の音が鳴り響いていた。


一瞬の静寂の後、温かな拍手が沸き起こった。翔は恐る恐る目を開けた。そこには、優しい笑顔で拍手を送る観客たちの姿があった。


美月が嬉しそうに翔に駆け寄ってきた。「お兄ちゃん、すごかったよ!」


翔は少し照れくさそうに頷いた。今回は、最後まで弾ききることができた。小さいけれど、確かな一歩だった。


ステージを降りると、岡本が近づいてきた。


「素晴らしかったですよ」岡本の目は、喜びに満ちていた。「特に、最後の曲。あれは青木さんの オリジナルですか?」


翔は小さく頷いた。「はい。自分の経験を曲にしてみたんです」


岡本は深く頷いた。「そうだと思いました。とても心に響きましたよ。青木さんの思いが、音を通して伝わってきました」


その言葉に、翔は胸が熱くなるのを感じた。自分の音楽が、誰かの心に届いた。それは、これまで経験したことのない喜びだった。


帰り道、翔は美月と並んで歩きながら、静かに語り合った。


「ねえ、お兄ちゃん」美月が空を見上げながら言った。「私ね、お兄ちゃんの曲を聴いてて思ったんだ。音楽って、本当に不思議だなって」


翔は美月を見た。「どういう意味?」


美月は少し考えてから答えた。「だって、言葉じゃ表現できないものを、音で表現できるんだよ。お兄ちゃんの気持ち、全部伝わってきたよ」


翔は黙ってうなずいた。確かに、音楽は言葉以上に多くのものを伝えることができる。それは、翔自身が身をもって感じていたことだった。


家に着くと、両親が待っていた。


「お帰り」母が優しく迎えてくれた。「どうだった?」


翔は少し照れくさそうに答えた。「まあ...なんとかね」


その言葉に、翔は驚いた。両親が自分たちの音楽を、こんなにも気にかけてくれていたなんて。


その夜、家族でライブの録画を見た。画面に映る自分を見て、翔は複雑な思いに駆られた。まだまだ未熟な演奏。しかし、そこには確かに、何かが宿っていた。


「翔」録画が終わった後、父が静かに言った。「お前、最近変わったな」


翔は驚いて父を見た。父はめったに感情を表に出さない人だった。


「音楽を始めてから、少しずつだが、お前らしさが戻ってきたように思う」父の声には、普段聞けない優しさが滲んでいた。


翔は言葉につまった。ただ、小さくうなずくことしかできなかった。


その晩、翔は久しぶりに安らかな眠りについた。夢の中で、彼は広大な野原でギターを弾いていた。周りには沢山の人がいて、みんな笑顔で彼の音楽に耳を傾けている。


翌朝、翔は早起きした。窓を開けると、清々しい朝の空気が流れ込んできた。庭の木々は、すっかり紅葉していた。


翔はギターを手に取り、静かに弾き始めた。その音色は、まるで新しい季節の始まりを告げるかのようだった。


これからの道のりは、決して平坦ではないだろう。うつ病との闘いは続く。音楽の道も、険しいに違いない。


それでも、翔は前を向いて歩いていく決意をした。音楽という道標があれば、きっと乗り越えられる。


翔は深呼吸をして、新しい曲を作り始めた。それは、希望の音色を帯びていた。


窓の外では、一枚の紅葉が風に舞っていた。新しい季節の訪れと共に、翔の人生も新たな一歩を踏み出そうとしていた。


朝もやが立ち込める滋賀の山村。青木翔は早朝の静けさの中、裏庭に佇んでいた。湿った空気が肌に触れ、どこか懐かしい匂いが鼻をくすぐる。遠くでは鳥のさえずりが聞こえ、時折風に揺れる竹林のざわめきが心地よい。


翔は深呼吸をした。胸いっぱいに冷たい空気を吸い込むと、体の中から何かが洗い流されていくような気がした。うつ病の症状は相変わらずだったが、以前ほど重くはなくなっていた。音楽という新たな希望が、彼の心に小さな灯りをともしていた。


ふと、物音がして翔は振り向いた。茂みの向こうで、何かが動いている。警戒しながら近づくと、そこにいたのは一匹の狸だった。丸々と太った体で、キョロキョロと辺りを見回している。


「おい、驚かすなよ」


翔は思わず声をかけた。狸は翔を一瞥すると、ゆっくりと茂みの中へ姿を消した。その姿に、翔は少し微笑んだ。都会では決して見られない光景だ。こんな些細なことでさえ、彼の心を和ませた。


「お兄ちゃん、何してるの?」


背後から美月の声がした。振り返ると、妹は寝癖の付いた髪を片手でとかしながら、眠そうな目をこすっていた。


「ああ、ちょっとね」翔は曖昧に答えた。「朝の空気がいいから」


美月は首を傾げた。「珍しいね。お兄ちゃんが朝早く起きるなんて」


確かに、以前の翔なら考えられないことだった。うつ病になってからは特に、朝は辛い時間だった。しかし最近は、少しずつ生活リズムが整ってきていた。


「ねえ、今日はどうする?」美月が尋ねた。「また練習する?」


翔は空を見上げた。澄み切った青空が広がっている。「いや、今日はちょっと外に出てみようかな」


美月の目が輝いた。「ほんと? やった! じゃあ、ピクニックに行こうよ!」


その提案に、翔は少し戸惑った。外出することはまだ怖かった。しかし、美月の嬉しそうな顔を見ていると、断る理由が見つからなかった。


「そうだな...じゃあ、近くの土手あたりでどうだ?」


美月は大きく頷いた。「うん! お弁当作るね!」


そう言って美月は家の中へ駆け込んでいった。その後ろ姿を見ながら、翔は軽いため息をついた。妹の元気さに、少し疲れを感じる。しかし同時に、その明るさが自分を支えてくれているのも事実だった。


数時間後、翔と美月は近くの土手にいた。周りには広大な田んぼが広がり、遠くには山々が連なっている。のどかな田園風景が、彼らを包み込んでいた。


美月は張り切って作ったおにぎりを頬張りながら、嬉しそうに辺りを見回していた。「ねえ、お兄ちゃん。ここって、小さい頃よく来たよね」


翔は懐かしさを込めて頷いた。「ああ。虫取りしたり、川で遊んだり」


思い出が次々と蘇ってくる。あの頃は、こんな風景が当たり前だった。都会に出てからは、すっかり忘れていた感覚だ。


ふと、土手の向こうから子供たちの声が聞こえてきた。


「いくよー!」


「うん、準備できた!」


好奇心に駆られて顔を上げると、小学生くらいの兄妹がペットボトルロケットを準備している姿が目に入った。男の子が自転車の空気入れでロケットに空気を送り込み、女の子が発射台を支えている。


「せーの!」


兄妹の掛け声と共に、ロケットが空高く飛び上がった。キラキラと日光を反射しながら、ロケットは青空を突き抜けていく。


「すごーい!」


歓声が上がり、兄妹は喜びを爆発させていた。その無邪気な笑顔に、翔は胸が熱くなるのを感じた。


「なつかしいな」翔は小さく呟いた。「僕らも、あんな風だったっけ」


美月も懐かしそうに頷いた。「うん。お兄ちゃんが作ってくれたロケット、すっごく高く飛んだんだよね」


その言葉に、翔は少し照れくさそうに笑った。「ああ、でも失敗も多かったけどな」


「でも、お兄ちゃんは諦めなかった」美月の声は真剣だった。「何度も何度も挑戦して、最後には成功したんだよ」


翔は黙ってうなずいた。そうだった。あの頃の自分は、失敗を恐れずに何度でもチャレンジしていた。いつからだろう。そんな気持ちを忘れてしまったのは。


「ねえ、お兄ちゃん」美月が静かに言った。「音楽も、きっと同じだよ。失敗しても、諦めなければきっと...」


その言葉が、翔の心に沁みた。音楽。それは今の彼にとって、希望であり不安でもあった。でも、もしかしたら...


「そうだな」翔は小さく微笑んだ。「もう少し、頑張ってみるか」


美月の顔が輝いた。「うん! 私も頑張る!」


二人は黙って空を見上げた。ペットボトルロケットは、まだ青空の彼方へと昇っていった。


その日の夕方、翔は久しぶりに新しい曲を作り始めた。指先から紡ぎ出される音色は、今までとは少し違っていた。そこには、懐かしさと新しい希望が混ざり合っていた。


メロディーを口ずさみながら、翔は今日見た風景を思い出していた。のどかな田園。無邪気に遊ぶ子供たち。そして、朝に見た狸。


ふと、アイデアが浮かんだ。この曲に、自然の音を取り入れてみたらどうだろう。鳥のさえずり、風の音、川のせせらぎ...


翔は急いでスマートフォンを取り出し、録音アプリを起動させた。明日からは、この辺りの自然音を録音してみよう。そう決意した瞬間、心が躍るのを感じた。


「どうしたの、お兄ちゃん?」美月が部屋をのぞき込んできた。


翔は嬉しそうに説明した。「新しい曲のアイデアが浮かんだんだ。この辺りの自然音を使って...」


美月の目が輝いた。「すごい! 私も手伝う!」


翔は微笑んだ。「ああ、よろしく」


その夜、翔は久しぶりに充実感を感じながら眠りについた。夢の中で、彼は広大な田んぼの中でギターを弾いていた。周りには動物たちが集まり、鳥たちが美しいハーモニーを奏でている。


翌朝、翔は早起きして裏庭に出た。スマートフォンを手に、辺りの音を録音し始める。鳥のさえずり、風に揺れる木々の音、遠くで鳴く牛の声...


茂みの向こうで、また例の狸が顔を出した。翔はそっと近づき、狸の動く音も録音した。狸は警戒しながらも、すぐには逃げなかった。


「おはよう」翔は小さく声をかけた。「また会えたな」


狸はキョロキョロと辺りを見回してから、ゆっくりと立ち去っていった。その姿を見送りながら、翔は不思議な親近感を覚えた。


数日後、翔は新しい曲の原型を完成させた。ギターの音色に、録音した自然音が絶妙に溶け込んでいる。美月も興奮して聴き入っていた。


「お兄ちゃん、これすごいよ!」美月の目は輝いていた。「なんか...心が落ち着くっていうか、懐かしい気持ちになるっていうか...」


翔も満足げに頷いた。「ああ、僕もそう感じるんだ。この曲を聴くと、この地域の風景が浮かんでくるんだよな」


二人は熱心に曲を磨き上げていった。時には意見がぶつかることもあったが、それも創作の過程の一部だった。


ある日、岡本から連絡が入った。地元のラジオ局で、新人アーティスト特集があるという。翔たちの曲を流してみないかと誘われた。


翔は躊躇した。まだ自信がなかった。しかし、美月の後押しと岡本の励ましで、最終的に承諾した。


録音当日。翔は緊張で手が震えていた。しかし、ギターを手に取ると不思議と落ち着いた。自然音が流れ始め、翔はゆっくりとギターを奏で始めた。美月の澄んだ歌声が重なる。


曲が終わると、スタジオは静寂に包まれた。


「素晴らしい」ディレクターが感動した様子で言った。「こんな音楽は初めて聴きました」


その言葉に、翔は胸が熱くなるのを感じた。自分の音楽が、誰かの心に響いた。それは、これまで経験したことのない喜びだった。


放送日、翔と美月は家族と一緒にラジオを聴いた。自分たちの曲が流れ始めると、部屋は静まり返った。


曲が終わると、アナウンサーが感想を述べた。「まるで故郷の風景が目の前に広がるようでした。心が洗われるような、不思議な曲でしたね」


両親は誇らしげな表情で翔を見つめていた。父は珍しく言葉を発した。「よくやった」


その言葉に、翔は思わず目頭が熱くなった。


その夜、翔は裏庭に出た。満天の星空が広がっている。遠くでは、カエルの鳴き声が聞こえる。


ふと、茂みの向こうで動きがあった。例の狸だ。今日は逃げ出さず、じっと翔を見つめている。


翔は静かに語りかけた。「ありがとう。君たちのおかげで、僕は新しい音楽を見つけられたんだ」


狸はしばらく翔を見つめていたが、やがてゆっくりと立ち去っていった。


翔は深呼吸をした。胸に、新しい決意が芽生えていた。これからも、この地の音色を大切にしながら、音楽を作り続けよう。


空には、一際明るい星が輝いていた。それは、翔の新たな旅立ちを祝福しているかのようだった。


秋も深まり、滋賀の山々は錦絵のような色彩を帯びていた。青木翔は自室の窓辺に座り、外の景色を眺めながらギターを静かに奏でていた。指先から紡ぎ出される音色は、以前よりもさらに深みを増していた。


ラジオでの放送以来、翔と美月の音楽は少しずつ注目を集めつつあった。地元のイベントに呼ばれたり、小さなライブハウスで演奏する機会も増えてきた。それでも、翔の心の中にはまだ不安が残っていた。


「お兄ちゃん、お茶どう?」


美月が部屋に入ってきた。手には湯気の立つお茶と、小さな菓子皿が乗っている。


「ありがとう」翔は優しく微笑んだ。


美月は翔の隣に座り、菓子皿を差し出した。「はい、これも食べて。ミックスナッツだよ」


翔は感謝して一つつまんだ。カシューナッツの塩味が口の中に広がる。次はアーモンド。その香ばしさに、翔は少し気分が和らぐのを感じた。


「美月、ありがとうな」翔は静かに言った。「いつも気を使ってくれて」


美月は首を振った。「ううん、当たり前だよ。私たち、家族だもん」


その言葉に、翔は胸が熱くなるのを感じた。うつ病になってから、自分は家族に多大な迷惑をかけてきた。それでも、彼らは決して見放さなかった。


ふと、翔の目に見慣れた形のナッツが入っているのが目に留まった。


「これ、なんだろう?」翔は分かっていながらも美月に悪戯そうに問いた。


美月は首を傾げた。「え...ピーナッツじゃないの?」


翔は小さく笑った。「そうだな、ピーナッツ。でも、知ってるか? ピーナッツって名前に『ナッツ』が入ってるけど、実はナッツの仲間じゃないんだ。温野菜だって」


美月は驚いた顔をした。「へえ、知らなかった。でも、なんでミックスナッツに入ってるの?」


翔はピーナッツをじっと見つめた。「なんだか、自分に似てるような気がするよ」


「どういうこと?」美月は不思議そうに尋ねた。


翔は言葉を選びながら話し始めた。「このピーナッツみたいに、僕も今、自分の居場所を探してるんだ。音楽の世界に飛び込んだけど、まだ本当にここが自分の場所なのか確信が持てない」


美月は真剣な表情で翔の言葉を聞いていた。「お兄ちゃん...」


翔は微笑んだ。「大丈夫。前よりは随分ましになったよ。音楽のおかげで、少しずつ前を向けるようになった」


その時、翔のスマートフォンが鳴った。画面を見ると、岡本からの着信だった。


「もしもし、岡本さん」


「あ、青木君。ちょっといい話があるんだ」岡本の声は明るかった。「君たちの曲、覚えてるかい? あの自然音を使った曲さ」


「はい、もちろん」


「実はね、その曲が地元の観光協会の目に留まったんだ。彼らが新しい観光プロモーション動画の BGM として使いたいって言ってるんだよ」


翔は驚いて声が出なかった。美月が心配そうに顔を覗き込んでくる。


「青木君? 聞こえてる?」


「あ、はい...」翔は我に返った。「本当ですか?」


「ああ、本当さ。これは大きなチャンスだと思うんだ。君たちの音楽が、もっと多くの人に届く機会になる」


通話を終えた後、翔は呆然としていた。美月に状況を説明すると、彼女は飛び上がって喜んだ。


「やったね、お兄ちゃん! これで私たちの音楽が、もっとたくさんの人に聴いてもらえるんだよ!」


翔も嬉しかったが、同時に不安も感じていた。「でも、僕たちの音楽で本当にいいのかな...」


美月は翔の手をぎゅっと握った。「大丈夫だよ。お兄ちゃんの音楽は、きっと人の心に届く。私が保証する!」


その言葉に、翔は勇気をもらった。「ありがとう、美月」


数週間後、翔と美月は観光協会のオフィスで、完成したプロモーション動画を見ていた。画面には、滋賀の美しい自然や伝統文化が映し出され、そこに二人の音楽が重なる。


「素晴らしい出来栄えです」担当者が感動した様子で言った。「この音楽のおかげで、映像がより生き生きとしています」


翔は自分の音楽が映像と調和している様子を見て、胸が熱くなるのを感じた。これが自分たちの音楽の力なのか。人々に故郷の美しさを伝える手助けができるなんて。


帰り道、翔は美月に話しかけた。「なあ、美月。僕たち、ここからどうする?」


美月は空を見上げながら答えた。「もっと音楽を極めていきたいな。もっと多くの人に、私たちの音楽を聴いてもらいたい」


翔も頷いた。「そうだな。僕も同じこと考えてた。でも、同時に...この地域のために何かできないかなとも思うんだ」


「どういうこと?」


「例えば、地元の子供たちに音楽を教えるとか。音楽の力で、この地域をもっと元気にできないかな」


美月の目が輝いた。「素敵なアイデアだね! 私も手伝うよ!」


その夜、翔は久しぶりに母と真剣に話をした。自分たちの音楽活動のこと、そして地域に貢献したいという思いを伝えた。


母は涙ぐみながら言った。「翔、本当に良かった。あなたの顔を見ていると、昔のあなたに戻ってきたみたい」


翔は両親に深く頭を下げた。「本当にありがとう。これからは、もっと自分らしく生きていきたいと思います」


数ヶ月後、翔と美月は地元の公民館で小さな音楽教室を開いていた。子供たちが楽しそうに楽器を弾く姿を見て、翔は心から満足感を覚えた。


ある日の帰り道、翔は久しぶりに裏庭に立ち寄った。そこには、例の狸が待っているかのようにいた。


「やあ」翔は優しく声をかけた。「久しぶりだな」


狸はいつものようにキョロキョロと辺りを見回してから、ゆっくりと近づいてきた。


翔はポケットからミックスナッツを取り出し、地面に置いた。「ほら、お前も食べるか?」


狸は警戒しながらも、ナッツに手を伸ばした。その姿を見て、翔は微笑んだ。


「なあ」翔は狸に語りかけた。「僕も、やっと自分の居場所が見つかったような気がするんだ。音楽を通じて、この地域と繋がれた。僕も自分なりの方法で社会に溶け込めた気がする」


狸は翔の言葉を理解したかのように、じっと見つめていた。


翔は空を見上げた。満天の星空が広がっている。「これからも頑張るよ。僕なりのやり方で、音楽を続けていく。そして、この地域のために何かできることを探していく」


狸はナッツを食べ終わると、ゆっくりと立ち去っていった。翔はその後ろ姿を見送りながら、ふと口ずさんだ。


「Kids room man, 僕いま取り込み中。秘密結社みたい、止めらんない。Keep it moving, また出るからあとで。Kids room man」


その歌詞は、かつての自分を思い出させた。閉じこもっていた部屋、外の世界との隔たり。しかし今、翔はその部屋から一歩外に踏み出していた。


「もう、Kids roommanじゃないんだ」翔は静かに呟いた。

「これからは、世界中が僕の部屋。音楽と共に、もっと広い世界へ飛び出していくんだ」


翔は深呼吸をした。冷たい夜気が肺に染み渡る。明日からまた、新しい一日が始まる。新しい音楽が生まれ、新しい出会いがあるかもしれない。


翔は家に向かって歩き出した。窓からは、美月がギターを弾いている姿が見える。両親も、リビングでくつろいでいるようだ。


「ただいま」翔は小さく呟いた。


それは、自分自身に向けた言葉でもあった。長い旅を経て、ようやく自分の居場所に辿り着いた。そう感じられた瞬間だった。


これからの人生は、きっと新しい音色に満ちている。翔はその音色を、大切に奏で続けていくことを誓った。

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KidsRoomMan 島原大知 @SHIMAHARA_DAICHI

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