第3話

少年は屈みこむと、ロープで青年の手を後ろ手にぐるぐると縛った。

「声を出さないと約束するならそいつをはがす」

青年は小さく何度も頷いた。鼻から溢れる吐しゃ物で、窒息寸前だったのだ。

「よし」

少年は乱暴にガムテープをはがした。青年の腫れあがった唇の両脇から血と何かの液体が流れ出す。


「…なぜ」

彼は息も絶え絶えに言った。

「彼女に、乱暴、……」

「しゃべるなと言った」

「オレはいい、から、彼女に乱暴だけは」


いきなり少年は丸めたストッキングを青年の口に突っ込み、胸にしたたかに二、三度蹴りを入れる。アバラの折れる音がして、男はそのままぐったりと大人しくなった。


「自分は何しに来たんだよ」

嘲笑しながらつま先で青年の体を転がす。ぐったりした体はもう何の反応もしない。

少年は屈みこみ、ナイフで青年の頬をぴたぴたと二、三度叩いた。

「……しゃべっても、いいですか」

消え入りそうな声で、杉菜は床から懸命に問いかけた。少年は答えない。

「もう終わりにしてください。もう、出て行って。……お願い」

 少年は血走った眼でこちらを見ると、いきなり上着を脱ぎ、そして彼女の顔に投げつけた。

脱いだ服から、甘い、花のような香りがする。わけがわからず戸惑う杉菜の前で、少年は小さく何かを呟き始めた。

何?


ふいに少年が脱ぎ捨てた上着の中から、携帯が鳴りだした。

少年はふと我に返ったように上着を見つめ、そして、ポケットから携帯を取り出した。

「はい」

『どうだ、お待ちかねの客は来たか』

男のだみ声が杉菜の耳にまで響いてくる。

「まあね」

『少しは発散できたか?』

「もうやめた。何の手ごたえもない」少年は不満そうに言った。

『じゃあ始末の必要はないな。ま、やめてくれて助かった。どちらかというと面倒はないほうがいい』

「今どこですか」

『駅前にホテルをとった。Rホテルの311。気が済んだならこちらに来い。女はどうした』

「ここにいるけど」

『手は出さなかったのか』

「……冗談でしょう」

『まあいい、出せ』

少年は黙って杉菜に携帯を突きつけた。震える手で携帯を受け取る。

『おい姉ちゃんよ、役に立つ兄ちゃんだったろう?』

杉菜は絶句した。傍らの男はびくともしない。いったいこの事態をどうすれば……

「私はどうしたらいいんですか。どうしてこんなことまで」

『その兄ちゃんには、ときどきそうやって餌を与えて血抜きさせないと危険なんだよ。その衝動は薬やカウンセリングでは消せない。ときどき俺が餌与えたりぶん殴ったりヤッたりしてコントロールしてるわけだ』

「この人が死んだら……」

『部屋で死なれちゃ困るってんなら、外に捨てとけ。そのくらいその兄ちゃんがやってくれるさ』

「真冬なんですよ。外に出したら死んじゃう」

『おい、姉ちゃん。邪魔なら捨てる、邪魔じゃないならあんたが飼うんだ。これ以上ごちゃごちゃぬかしたり、いらんこと警察に届けたりしたら、来年の冬は迎えられないと覚悟しとけ。俺は一応組ともつながってるんでな。で、その兄ちゃんは』

杉菜は少年を見上げた。

『悪魔とつながってる。俺より上だ』

男は付け足して、からからと笑った。少年はふいと横を向いて完璧な横顔を見せた。

『ま、長生きすることだ』

「待って。わかったから、もうこれ以上私と、大怪我させた彼に構わないって、あなたの…… ブルーとかいう人に約束させて。もうここに来ないって」

『それはこれからのあんた次第だ』

「それは約束するから、警察とかには言わないから、あなたからも……」

『おい、アマ。俺は同じことを何度も言うのが嫌いなんだよ。とっとと彼を解放しろ。俺はそいつと一刻も早くヤりたくてうずうずしてんだ。あいつがお前みたいなブスに執着してくれるとでも思ってんのか』

「……わかりました」

杉菜は携帯を切った。


血だらけの青年がかすかに呻いた。


「放り出すなら手伝うけど」

少年は哀れな青年の襟首に手を伸ばそうとしていた。

「いい。もういい。ここにおいてって」

「ふうん」

少年は一度脱ぎ捨てた服に手を伸ばし、血のシミを見つめ、眉間にしわを寄せ、

「……汚い」

 呟くように言うと、しぶしぶ袖を通した。


「あなたは、……なんなの」

背を向けて玄関に立つ少年に、青年の手の傷を布で抑えながら杉菜は声をかけた。少年は少し黙ったのち、


「ただの学生」

振り向くと

「聖職に付きたい奴が行く神学校の、ね」

ドアに手をかけて、外の風と入れ替わりに出て行った。

室内に、ふわりとした涼やかな花の香りが残った。


杉菜の傍らで、青年は身じろぎをし、目を開けると、首を振った。

「大丈夫? 気がついた?」

青年は杉菜を見ると、目を閉じ、呟くように言った。

「今、出て行くから、ちょっと待って……」

「無理よ、多分骨とか折れてるし」

「あいつ……は」

「帰ったわ、もう来ない」

青年の左手に消毒液をたらし、深い傷を負った掌を、あらん限りの包帯でぐるぐる巻きにする。青年は片手で顔を覆うようにして、つぶやいた。

「彼は、君の……」

「あんたが怖くて、通りすがりにボディガードを頼んだだけ」

 青年は宙を見上げながらため息をついた。

「……これで、踏ん切りがついた。いいざまだ。……もう、キミの前に現れない」

「……」

「あの悪魔みたいなガキには、感謝しなきゃな」

「感謝するような相手じゃないわよ」

ぬれタオルで今度は顔の周りをぬぐいながら、杉菜は言った。

「自分がどんなに、みじめで、みっともないか、わかってたんだ」

青年は胸の痛みに耐えながら、あえぐように言った。

「わかって、たけど……あきらめられなかった。一度こんな風に、ボロボロにされて、それでやっと、自分が最低のクズ野郎だとわかる、だろうと、どこかでそれを待ってた。の、かも。こういうきっかけがないと、オレ、どこまでやったか……」

そこまで言って、吐き気を抑えるように口もとに手をやった。

「もう、ほんとに、行くから」

「歩けもしないくせに」

「でも……」

「いいから、傷だらけの痴漢さん、今は寝て」

青年はふと滲みそうになる涙を抑えて、目を閉じた。


……あたしは何をしてるんだろう。今見ていたものは何だったんだろう。どうしてこの男の看病なんかすることに。

杉菜は目を閉じて、自分の前を通り過ぎた激しい残響と残像を反芻しようとした。


――自分は、美しい人を見た。いい香りのする、今まであった中で一番残酷で美しい人を。

ただその印象を選び、いい、もうそれでいいわ、と、杉菜は記憶のノートを閉じた。



ホテルの部屋の中で男は早くも冷蔵庫の酒をあおっていた。

入ってきた少年を眺めて、グラスを挙げる。

「どうだ、人助けした感想は」

「女の子を泣かせた」少年は血で汚れたパーカーを脱いでぼそりと言った。

「血でも浴びりゃあメスは誰でも泣くわな。痴漢野郎は撃退したんだろ」

「たぶん、うまくやるんじゃないかと思う、あの二人は」

「ああ?」

男は怪訝そうな声を出した。

「あの痴漢とか。そういうことになったのか」

「あのままならね」

男はグラスをもう一つ出して、ウィスキーを注ぐ。

「そりゃ後味の悪いこったな。だがブスがバカとくっつく、似合いの図柄だ。まあ飲め」

「木崎さんが言うほどブスじゃないよ」少年は苦笑しながら言って、少しだけ口をつけた。

「そうかもな、だがお前の顔ばかり見てるとな」

両手の間に挟んだグラスをテーブルに置いて、少年は呟いた。

「汚い血で気持ちが悪い」

「中の服までえらいことになってるな。外側が黒のパーカーじゃなかったら、ホテルのフロント通れてないぞお前」

少年は立ち上がると忌々しそうに、血で汚れたオリーブグリーンのコマンドセーターを脱ぎ捨てた。下着にも血がしみているのに気付くと、舌打ちしてそれも脱ぎ捨てる。

「おい、腕の傷が半端じゃないな」男が血のにじんだタオルを見て驚いたように言う。

「ああ、…フォークで引っかかれたんだ。大したことない。それより、よく暗記できたね」ソファの上に服を丸めて放り投げながら少年は尋ねた。

「何をだ?」

「電車の中でわめいてたろ、人間どもよ滅びてしまえ」

「ああ、三島の“美しい星”か。好きなら頭に入る。俺が書いたのかと思うくらいの名文だからな」


「早く人間よ、滅びてしまえ。生まれると匆々糞尿の中を転げ回り、年長じて女の粘膜にうつつを抜かし…」少年は諳んじた。


「その口はいぎたない飲み食いと低俗下劣な言葉と隠しどころを舐めることにしか使われず」男が続ける。


「ひとのことが言えるの」

「来ると思った、まあそういうな」男は立ち上がると、少年の背後から裸の上半身に腕を回した。

「血の匂いがするよ」

「その方がいい、シャワーなんぞ浴びるな」

男は少年の顔の前にウィスキーの入ったグラスを回し、勝手に傾けて口に流し込んだ。火のついた蛇がのどを下って行くような感覚が少年の喉を這い降りる。

「世界のあちこちに玩具を仕掛けて」

男は首筋に唇を寄せて囁くように言う。

「美しい理念の実現のための、美しい手段のように言って見せる。実験だと言っては澄んだ海で炸裂させて、一つ花が咲くたびに皆で称賛の拍手を送る。そして連中はぬかす、神よ、恩恵に感謝します。我々はこれほど強く賢くなりました」

「星はお好きですか」

「そいつは小説の中の言葉だな」

「あのセリフは好きだ」

「俺はお前が好きだ」

「たまには素面で言ったら」


男は少年の胸に回した指先で、女にするように突端をゆっくり愛撫した。


「お前は火をつけられるのを待っている花火、この世で最も美しい花火だ。その焔はこの星を眠りから覚まし、そして気付かせる。世界はとうに終わっていることを」


触れられた部分が充血し、少年の喉から細い声が溜息のように漏れた。


「俺は待っている、お前が何もかも手にして、この世界が待ち望んでいる終末を存分に与えることを。地上にはびこる人の形をした虫けらを一人残さず地獄に叩き落すその時を。この腐ったどんよりした球体を美しい星に変えるその時を。

お前ならできる。お前にならそれができる」


微笑む少年の体から一気にあの、めまいがするような甘い香りが立ち上った。


「お前は魔王だ。でなければ、世界を終わらせる闇の神の眷属だ。

俺は腐れた街の片隅で身を売るガキどもの中からお前を見つけて確信した。

夢物語でも戯言でもいい、世界を滅亡させろ。その時まで、俺を棄てるな。いいか。世界の最後を俺に見せてくれ」

「……ああ」


少年は振り向くと、いとおしむように、酒臭い男の頭を抱えてささやいた。


どこにもいかない、ここにいる。

この世界の片隅で僕を見つけた報いとして。

あなたがあなた自身の終わりを血だまりで見つめるその時まで

……可愛い人、

ずっと、あなたのそばに。


                    <了>









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美しい人 水森 凪 @nekotoyoru

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