第2話


「ちょっと待ってね」

ドアを開けると、杉菜は手で少年を制して廊下のくくったままのゴミを洗面所に放り込み、脱ぎっぱなしの服をクロゼットに突っ込んで、空のペットボトルや弁当の空き箱を集めてゴミ箱に押し込んだ。

「散らかってるけど良ければ上がって。冷えたでしょ、今温かいもの淹れるから。それとも、おなかすいてる?」

気まずい空気を隠すように、たてつづけに話しかける。少年は覗き込むようにして室内を眺め、玄関に突っ立ったまま迷っているようだった。

「ここまで来て遠慮しないで。こうなったら本音で言うね。帰らないでほしいの。本気で怖いし、一人でいたくない」

少年は靴を脱ぎ、そろりと室内に上がった。彼はもしかして女性の部屋に入ったことがほとんどないのでは、ふとそんな気がするほど、周りの空気に違和感を感じているのが伝わって来る。

「マフラーほどいたら? ミルクティーでいい?」

「別に何もいらない」突っ立ったまま少年が答える。

「そんな風に言わないで。手すきになるとこっちもどうしていいか、だもん。今暖房入れたけど、あったまるまでちょっとかかるかな」

「今何か飲むとまずいんで」

杉菜はポットのスイッチを押そうとした手を止めた。

「どうしてまずいの。お酒じゃないよ?」

「飲んでもたいがい吐くことになるからいらない」

「何かのアレルギー?」

「あいつと会うときは何も飲まないことにしてる」

「もしかして、顔見ただけで吐き気、とかって話? ひどいなあ。顔は怖いけど結構いい人じゃない」

「顔の話じゃない。殴られるんだ」

「殴られる? あのおじさんがあなたを殴るの? どうして?」

「それが趣味だから」

「ねえ。あの人って、結局、キミのなんなの」

低いテーブルに差し向かいで座る。よくできた彫刻のような顔に、宝石のような不思議なきらめきを宿した目が静かに光っている。杉菜は馬鹿みたいに開いてゆく自分の口を意識して閉じた。

「そんな目に遭わされるなら、なんでいっしょにいるの」視線を外しながら質問する。

「粘着テープ、ロープ、ストッキング、手錠……」

「え?」

「手錠は無理か。普通ないもんな」独り言のように、少年は呟いた。

「それ、何? もしかして、あのおじさんの必需品?」杉菜は身を乗り出した。

「ねえ、親でも親戚でもないとすると、危ない関係なの、あなたたち」自分から遠慮という文字が消えてゆくのを杉菜は感じていた。自分のテリトリーだからだろうか。少年は不愉快そうに答えた。

「大体見てればわかるだろ。それより、ある?」

「なにが」

「今言ったもの」

「え、え、どうするの?」

「使うんだよ、これから」

少年は立ち上がった。

「出せよ。あまり時間がない」

瞬間、杉菜の背中に戦慄が走った。

「……何をするつもりなの」

「今さら何をでもないだろ。あるなら出せ。あまり待たせるな」

「あのひとが、そうしろといったから?」

少年は肩から下げていた黒い鞄のチャックを開けた。ドイツ製のミニナイフを取り出し、掌の上でくるくる回す。


「早く」


「あ、……」


 打って変って低い声だった。杉菜は震えながらデスクの引き出しを開け、ガムテープと、荷造り用の麻ひもを取り出した。自分が呼びこんだものが、自分の前で殻を脱ぎ捨ててゆくのを感じながら。

「ロープとかはないんだけど……」

「洗濯用の細いのがあるだろう」

掌でナイフを弄びながら杉菜を見下ろす少年の前で洗面所の小物入れを開け、震えながらロープを取り出す。背後でガムテープを引き出す音がビーっと響いた。

振り向くと、少年は30センチくらいに引き伸ばしたガムテープを眺めている。さらにビ、ビ、ビと10センチほど伸ばすと、手で引きちぎった。

「……お願い」

少年は部屋の灯りを消した。

「抵抗しないから、あまり酷いことはしないで」

「風呂場に入ってシャワーを出せ」

暗闇の中、少年はガムテープの端をシンクのへりにくっつけると、またガムテープを引き出した。

「それからストッキング」

言われるままに乾燥機の蓋を開け、洗濯済の衣類の中からストッキングを取り出す。

少年は窓に歩み寄ると、下を見下ろした。

「あれか?」

「え?」

シャワーの栓をひねってから窓辺の少年のそばに立つ。窓の下、マンションの入口あたりに、うろうろとあたりを伺う人影があった。その背格好はまさに……

「あいつよ!」

杉菜は窓から離れた。胸が乱れ打ち始める。本当に来ていたとは。

「ずっと後ろをつけてきてた。あれだけの目にあって、ここに来るんだ。生半可な覚悟じゃないな」

感心したように少年は呟いた。その様子がどこか楽しげに杉菜には見えた。

人影はあたりを見回した後、マンションの入り口に接近し、見えなくなった。

「ここはオートロックだから、玄関からは…」

「外から見た感じでは、この構造なら排水管を伝って四階までくらいなら登れる」

「そんなこと……まさか」

「洗面所に入って、出てこないで。シャワーは流しっぱなしにして」

そこで初めて、杉菜は少年が用意させたものの用途を悟った。そしてまた、恐怖に震えながら、自分がされることのその先にエロティックな期待があったことも認めないわけにいかない。洗面所に入り、ドアを閉めると、杉菜は両ほほを手ではさみ、馬鹿、バカ、と小さくつぶやき続けた。


暗闇の中、クロゼットの陰に身を隠し、窓の外の群青の空の色を眺めながら、少年は息を殺していた。奴の姿は必ずベランダに現れる、その確信があった。掌のナイフの稜線をゆっくりと撫で、折りたたむとポケットに入れる。 

ふと、外の空気が揺らぐのが見える気がした。黒い腕がベランダの柵をつかみ、続いて人影が柵の上にのっと伸びあがる。


……いいぞ。来い。


影は暗い室内を覗き込むようにし、上着を脱ぐと手に巻いて、硝子をぶっきらぼうに叩いた。多分バスルームの灯りと室内からダクトを伝って出る蒸気で、入浴中と踏んだのだろう。

ドンドンと二、三度叩き、硝子が小さく割れると、そのまま手を突っ込んでサッシのカギを開ける。

カチャン。サッシのカギが開く音とともに、するすると窓が開いた。外の冷気が流れ込んでくる。青年はそろりそろりと土足のまま、室内に上がり込んだ。灯りの漏れる洗面所に気を取られているようで、そちらに顔を向けたまま、腕の上着をほどく。そしてその服を一本にねじり上げ、両手に伸ばして持った。

自分の前を男の背中が通過した刹那、少年は手を伸ばして部屋の灯りをつけた。

「!」

一気に光に満ちる室内で、一瞬青年は動きを止めた。振り向きざまに目に入った、クロゼットの陰に立つ少年が、短髪の少女に見えて、自分の見ている映像に混乱する。

部屋を間違った? 

次の瞬間、少年の足は青年の顎を鮮やかにけり上げていた。彼は体を一回転させ、ミニキッチンの方向に吹っ飛ぶ。シンクに捕まり、顔を挙げると、目の前の箸立てにフォークとスプーンが目に入った。

夢中でフォークをつかみ、振り向いて横ざまに腕を振るう。手ごたえがあり、幾つかのなま暖かいしぶきが飛んだ。目の前で顔をかばおうとする少年の腕の外側に鮮血が踊るのが見えた次の瞬間、壁についた手に、いきなりドンと衝撃があった。


 体と何かが激しくぶつかる音、すさまじい悲鳴が一瞬響いたのち、急にあたりは静かになった。ぶるぶると震えながら洗面所の隅にしゃがみ込んでいた杉菜は、その静寂に思わず立ち上がる。


 何が起きたの? もう済んだの? ドアの外にいるのはどっち?


細くドアを開け、外をうかがう。少年の後ろ姿が見える。そして、少年にガムテープで口を封じられて呻く青年、その顔にしたたり落ちる夥しい鮮血。

壁に伸ばした青年の手は、ドイツ製のナイフで、深々と壁に打ちつけられていた。まるで架刑のキリストのように。

杉菜の悲鳴に少年は振り向いた。青年の手から滴る鮮血がみるみる床に血だまりを作る。


「何をしたの、何をしてるの」

「まだだ、引っ込んでろ」

「そのナイフを抜いて、お願い」

「あんたのケツを触った忌まわしい手じゃないのか」


少年はナイフを一気に抜きとった。さらに鮮血がどっと飛び散る。青年はガムテープの猿轡の内側で悲鳴を上げながら咄嗟に右手で、血に染まる左手をつかもうとした。その顔に、正面から少年のパンチが飛んだ。歯が折れる音がした気がする。前に倒れかかる彼の髪を掴むと、少年は間髪をいれず胸に腹にひざ蹴りをくらわす。気の毒な男は血の混じった液体を鼻から嘔吐した。


「やめて、やり過ぎよ」

「黙れ」


杉菜の顔に一閃、平手打ちが飛ぶ。杉菜は壁に頭をぶつけ、そして血だまりの上に倒れ込んだ。傍らにはガムテープを食わされたままの血だらけの男が横たわっている。


「静かにしてろ。俺の邪魔をするな」


杉菜はべたべたと血で滑る床に手をついて少年を見上げた。顔と服を血で染め、肩で息をしながら、腕の傷を舐めている。赤い舌がちろちろと、舌なめずりするように唇の上を動く。完璧な容貌と相まって、まるで美しい悪夢のような光景だった。


俺が始末つけてやるから、久し振りに発散して来い。男の声が頭にこだまする。

発散。

私の思っていた意味じゃなくて……


この少年をボディガードに着けてくれた時、なんて親切な人だろうと思った。彼がどうして従うのかもわからなかった。


……親切なんかじゃない。

親切なんかじゃなかった。

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