美しい人

水森 凪

第1話

のんびりしたチャイムの音とともに、銀色の車両にかけ込む。


終電の車内は、アルコールと整髪料と安い化粧の匂いに満ちていた。自律神経失調気味の杉菜は、それだけでもう頭から血が下がりそうになる。

気の進まない大学のサークルの飲み会で、付き合いで体に入れた苦いアルコールが、出口をなくして全身を駆け廻っていた。


ふと、尻のあたりに違和感を覚える。

明らかに意志を持って触れて来る誰かの手。

何度も身に覚えのある杉菜は、その刺激が二、三度続いたところで、偶然ではなく確信犯の痴漢行為であることを確信した。しかも、多分…… いつもの男!

いつもの彼なら、いつまでも尻を触っていないで、次は手を握ってくるはずだ。


……ほら、やっぱり。


遠慮がちに尻を撫でていた手がいったん離れ、下に下げていた手を上からそっと握って来る。その手に一層力がこもる。

そっと顔を斜めに向けて、斜め後ろの男を視界に入れようとする。茶色い髪と、地味な濃紺のブルゾン。たぶん、間違いない。もうこれで、十回は超えている。

こんな時間まで自分の後ろについてくるなんて、一日中行動を見張られているのだろうか!?


男はさするように、杉菜の指に自分の指を滑らせてはその感触を楽しんでいる。

しらない男じゃない、その嫌な記憶がますます杉菜の全身を固まらせる。

どうしよう、どうしよう。これは終電だし、降りたら次はない。逡巡している間に電車はN駅に止まり、少々の客を吐き出し、また動き出した。手を離れた指は下に降り、スカートの上からヒップラインをなぞり、そして愛撫するように腰回りを撫でまわし始める。

 声をあげなきゃ! でも誰が信じてくれる? もしだれも協力してくれなかったら……

喉から絞り出そうと思っても声が出ない。


「おい、兄ちゃんよ」


いきなり野太い声が車内に響き渡った。

「そこの兄ちゃんよ。女ってなあそんなにいいもんかね、ああ?」

自分の斜め前でつり革にぶら下がるようにしていた、ヤクザ顔の中年男だ。一声一声にきついアルコールの匂いが漂っている。車内の視線が一斉にヤクザ男と自分に集まった。

「その程度のご面相のよ、たいしてそそりもしねえ小娘のよ、ケツだのアソコだのいじり倒して、それで幸せか? 楽しいんだろうなあ?」

 

充血した目で自分の背後の男をねめつける。指の動きはピタリと止まった。


「唯一六尺褌の似合う作家、三島由紀夫先生はいいことをおっしゃった。聞け阿呆ども。お前らの愚かさはまるで甲羅に首をひっこめた泥亀だ。見えるものを見ようともせず、聞けるものを聞こうともしない。と、こうだ」

五分刈りの頭に赤らんだ強面、頬と額に無数の傷。普段なら近寄りたくもないタイプの中年男が、杉菜には救世主のように思われた。酒臭い救世主は歌うようにだみ声を張り上げた。


「早く人間よ、滅びてしまえ!

生まれると匆々糞尿の中を転げ回り、年長じて女の粘膜にうつつを抜かし、その口はいぎたない飲み食いと低俗下劣な言葉と隠しどころを舐めることにしか使われず、老いさらばえて再び糞尿の中を転げまわる。嫉妬と讒謗に明け暮れて、水と虚偽なしには寸時も生きられぬ、人間なんぞ早く滅びてしまえ! 汚れた臓物に満ち満ちた奇怪な革袋をかぶった存在よ、滅びてしまえ! 消えてなくなれ!」


車内に失笑が広がった。後ろの痴漢青年がぼそりと切り返した。


「関係ない事に正義漢面してしゃしゃんじゃねえよ、アル中じじい」

 

二、三秒の沈黙の後、

「聞いたかよ××。久し振りに楽しめそうだぜ」

男は連れらしい脇の背の高い少年に話しかけ、いきなりずいと前に出てブルゾンの青年の襟首をつかんだ。

「次で降りようか兄ちゃん」

電車はM駅で止まった。ドアが開くと同時に襟をつかんだまますごい勢いで男は青年をホームにひきずり出すと、いきなり腹に蹴りを入れ、髪の毛を掴んで柱に叩きつけた。続けざまに腹を二、三発殴る。青年は体をエビのように曲げたまま声もなくホームに転がった。

野次馬が遠巻きにする中、一人二人、駅員に連絡しようと走り出す気配があった。


「おいそこの、余計な真似するんじゃねえ!」


中年男はその方向に指差して怒鳴った。


「卑怯者どもが、何か起きてる時は見て見ぬふり、仏心で助け船を出せば通報か。いいか、おれは警察官に痴漢野郎を通報して仕事や家庭を失わせようってんじゃねえんだ。女のケツにそれほどの価値はねえ。この場で、おいたをしようって気がなくなる程度のお仕置きしてやって、それで無罪放免だ。仏の裁量だ。今俺を通報すればこの痴漢兄ちゃんも捕まるんだぞ。それでもいいか、兄ちゃん?」

青年はふらふらと顔をあげた。

「……すいません……」

「もうしねえよなあ? いい子だもんな?」

「はい」

「よしよし、ものわかりのいいやつだ。ってわけだ、散れ、クソども」

群衆はばらばらに散っていった。青年はよろよろと立ちあがり、柱に捕まって下を向いて腹を抑えながら息をした後、杉菜のほうは全く見ずに、階段に向かっておぼつかない足取りで歩き始めた。

杉菜はその姿を茫然と見送ったのち、再びだみ声を張り上げ始めたヤクザ男を振りかえった。

「滅亡の太鼓を鳴らして夜明けがやって来る! 人間が一斉に荷を掲げ、無の中へ旅立つのを見送ろう。クソはクソ袋へだ、糞ったれ」

ふと少し離れた場所に、困ったような顔で立っている少年と目があった。

杉菜は、その少年が完璧に美しいのに気付き、内心驚愕した。


電車の中でも男に話しかけられていた彼。息子にしては全然似ていない。澄んだ瞳に長い睫毛、真っ白な肌、鼻から顎にかけての彫刻のようなラインに玲瓏とした風情を漂わせていて、まるでよくできた人形か教会のイコンのようだった。

杉菜は張り付きそうな視線を外して、静かになった中年男の方を向いた。柱に寄りかかるようにして茫然と宙をにらんでいる。

「あの、さっきは、ありがとうございま……」

 頭を下げかけた杉菜に背を向けて男はホームの端によろよろと歩み寄り、線路に向かって勢いよく嘔吐した。

 少年はただ困ったように視線を落としている。

「あの、あのひと、大丈夫なんでしょうか……」

杉菜が恐る恐る話しかけると

「いつものことだから」

少年はひとこと諦め口調で言って、男の脇に屈んで何か話しかけた。そして杉菜を振り返ると、

「ここはもういいから」

といって掌を軽くこちらに向ける。

杉菜は軽く頭を下げて階段の方に歩きかけ、線路の向こうの照明の落ちた深夜の街を見て、少し考えたのち踵を返した。

男は駅のベンチで頭を抱えたまま、何かブツブツ言っている。その隣に座る少年に、勇気を出して杉菜は話しかけた。


「ごめんなさい。一人じゃ怖いんです」


男はどんよりとした目を開けてこちらを見上げた。


「これが初めてじゃないんです。あのひと、私のいく先を調べるようにして、電車の中で待ち伏せしたり、家の近くまでついてきたりしてるんです。今日も、この駅で降りることになったから、きっと……」

「あんたの駅はここでいいのか」

男は首をぐりぐり回しながらたずねてきた。

「うちはここでいいですけど」

「でも俺がストーカー痴漢も一緒の駅で降ろしちまったわけか。そりゃ危ねえよなあ。おい、ブルー」

ぶるー?

少年が男の方を向いた。

「おまえついてってやれ、家まで」

「ええ?」

少年は不本意そうに声をあげた。

「俺がちょっかい出したせいでお嬢さんがお困りだ。ボディガードも兼ねて家までお送りしろ。姉ちゃん、それでいいんだろう」

「どうして僕が」少年が抗議を含んだ声をあげる。

「俺が送っても姉ちゃんは余計に怖い思いをなさるだけだろうしな。確かにあの痴漢坊やが手負いになってますます姉ちゃんを逆恨みしてないとも限らない。

いいじゃないか、何なら俺が始末つけてやるから、久し振りに発散して来い」

発散? 始末をつける? 咄嗟に理解できない言葉が耳を通り過ぎる。

「おい姉ちゃん、こう見えてもこいつそうとう強いんだぜ。おまけに御覧の通りあんたみたいなブスがめったにお近づきになれない美少年だ。あんた幸せ者だぜ」

「僕、嫌なんですけど」

「嫌だろうなあ、だがこれは命令だ。行って来い」

少年がついた小さなため息が、ほの白い蒸気になって冬の空気に溶けた。


駅前広場から上水沿いに延びる道は、風の散歩道というしゃれた名前がついていた。

水音しか聞こえない冬の歩道を、自分が先に立って無言で歩く。煮詰まった空気にいたたまれず、杉菜は固い声で問いかけた。


「私、そんなにブスかな……」


背後の少年は答えない。

杉菜は少し足を止めて付いてくる少年を見かえし、即座に自分の質問を後悔した。彼から見ればほとんどの人間は不細工だろう。


「普通だと思う」

 

黒いパーカーのポケットに手を突っこんだまま少年はぼそりと答えた。


「きいていいのかな。あの人は、あなたのお父さん?」

少年はふっと口元で笑い、そして首を左右に振った。

「ごめんね、もう終電ないし、こんなことになって。ほんとに迷惑かけちゃって……でも、一人で帰るのがほんとに怖くて」

17か18くらいだろうか? 背は高いけど、よく見るとどこかにあどけなさもある。何か香水のような、つんとした甘い香りが、彼から漂って来るのに杉菜は気づいた。何重にも巻いた灰色のマフラーを、視線を避けるように少年は口元まで上げた。

「知らない人じゃないの。ちょっと前までバイトしていた麻雀店がはいってた雑居ビルの一階の、イタリアンレストランのウェイター。顔は覚えてる。何度か水割りの氷もらいにいったから」

 歩道に眼を落としたまま問わず語りにしゃべり続ける。

「そこでお店用の氷買うのがいつもの習慣だった。ひと言ふた言言葉交わすだけだったの。ふた月くらいでそこやめて、後は何にもなかったのに、気がつくと、行く先行く先にあの人の姿が見えるようになって……」

少年はマフラーに顔をうずめたまま答えない。

「一度もまともに口きいたことないのに、どうしてこんなふうにされるのかわからない。電車で気がつくと後ろに立ってたり。手を握られたり、いろいろ……

 誰に訴えてもどうせ助けてくれないから、いつも怖くて泣きそうだった。上京して大学に入った時から、東京では他人に何も期待しちゃいけないって言われてたから。でも、あなたの、あの、ええと、あの人に助けてもらって、態度は乱暴だけどすごくうれしかった。私今まで、痴漢てああいうタイプって想像してたから」

少年は小さく噴き出した。杉菜は思わず彼の方に目を向けた。

「あ、ごめん、お知り合いに変なこと言って」

「たいして間違ってない」

独り言のように言って少年はまた黙った。


「あ、ここなの」

自宅のあるマンションにつくと、杉菜は少年に向き直った。

「ほんとにありがとう。きっと一人だったら怖くて帰れなかったと思う。で、あの、もう電車もないよね」

「……別に何とかなる」

「あのね。実を言うと、マンションの前で朝まで張りこまれたこともあるの。ここの駅で降りてるから、きっと周辺にいると思う。わがままついでに、ほんとに悪いんだけど、あの、部屋まで、付いてきてくれないかな」

ひとことひとこと区切るように言いながら、杉菜は自分の胸に問いかけていた。

あんた何を考えてんの? さっきの言葉を覚えてて、それでこれ?

存分に発散して来い。あんたにはもったいないような美少年……

結局そんなつもりで連れてきたってわけ? あのおっさんの思惑通りになりたくて?

そうじゃなくて、彼と一緒に帰ってきたとか、朝まで一緒にいる仲だとか、あの男にアピールすれば予防線になるじゃない。そういうことよ、泊って、振りをしてもらえればそれでいいだけ……


少年は小さく頷いた。杉菜は心の中で小さくガッツポーズを決めた。


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