下巻

 香苗さんは大学の同級生だ。


 月に一度ほど映画館に出かけ、ときおりホテルでセックスをする。そういう、性的な部分も含んだ、友達らしくない友達だった。


 彼女は数少ない友達ではあるけれど、しかし唯一の友だちではない。


 ひとりが好きな僕だけれど、孤独を愛しているわけではなかった。友達と言われれば片手の数くらいの人の顔は浮かぶ。言い方は良くないけれど、そのなかで香苗さんは一番ではなかった。


 そもそも僕には一番という存在がいない。


 この人が何よりも大事だ、大切にしたい、そういう感情がよく分からない。


 「自分が一番大切にしている」と思っている相手がいるとして「相手のなかで自分が一番ではない」という状態。そんなことは世の中にありふれている。それは恋愛における振った振られたみたいな話だけではなく。人間関係における無意識下のランキング制度みたいなものが、僕は苦手で我慢ならない。


 それについては、僕が三人兄弟の次男であるということと、両親が子どもに対し平等な接し方をすることが少し下手な人だったところに原因があるのではないかと考えている。


 誤解して欲しくはないが、別に僕は虐待を受けたとか、兄弟間で悲痛なエピソードがあるわけではない。


 父母は共働きで忙しいなか、最低限の親として役割を果たしてくれたと思うし、多少ひもじい思いもしたけれど、ご飯は三食食べさせてくれたことには感謝している。


 ただ、子どもというのは立場や環境だけで、いくらでも人格を形成できるものだ。だから僕は両親や兄弟との生活のなかで被ってきた「小さな損」に対し、期待することをやめることで対応してきた。


 期待しない。

 一番を作らない。

 他者に依存しない。


 それが僕という人間のモットーだと思っている。


 そうすると、香苗さんは僕にとって真逆の存在だった。


 一番以外はどうでもいい。


 大切にしている存在だけを守ることができたなら、それだけでいい。そのためなら、彼女は孤独を厭わない。


 大学で香苗さんが誰かと一緒に歩いているところを見たことがない。誰かと一緒にご飯を食べているところを見たことがない。

 怖いくらいに整った顔立ち。青色のカラーコンタクトレンズを入れた瞳。そのせいで、彼女はずいぶん大学では浮いた存在だった。


 そんな真逆の生き方をしている僕らではあったけれど、映画の趣味だけは同じだった。学校帰りの映画館でばったりと会ったのは、偶然と呼ぶにはあまりにも出来過ぎていた。


 映画が好きな僕らは、校内で一緒にいることが多くなった。と、言いたいところではあるけれど、実際そんなことはなかった。僕らは月に数回だけ予定が合ったときに映画を観にいくようになった。


 昼頃に映画館へ行き、少しショッピングをして、夕食のときには映画の短い感想を言い合い、ときおりホテルでセックスをする。そんな奇妙な関係が三年近く続いている。


 思えば、それほどに香苗さんは口下手な女性だった。


 言葉を介するコミュニケーションに何らかのコンプレックスがあるように感じた。彼女との会話はどれも印象に残るものが少なかった。それはまるで水のように、いつも口にしているのに、その味がどういうものか分からない代物に近かった。


 まるでコミュニケーションの代替として、カラダを差し出しているような、消極的な部分が香苗さんにはあった。


 だからといって、僕が彼女を嫌うということはなく、彼女の提供してくれる事務的な快楽と、コミュニケーションに甘えていた。むしろそういう代償行為に及ぶその発想力や行動が好ましかった。


 僕はそんな香苗さんの洗練された生き方を尊敬していた。大学で彼女はいつも一人だったけれど、彼女を見かけるたびに一本の青い薔薇を見つけたような悦びにも似た気分になった。


 だからこそ、バス停で彼女が待っていたとき、僕はこの人が香苗さんだと分からなかった。


 今日の彼女の瞳は、青色ではなかったから。


「……その子の名前は?」


 第一声を発したのは僕の方だった。

 香苗さんは籠を抱えたまま、微動だにせず、ぽたぽたと涙をこぼしながら人形のように立ち尽くしていた。


「ハナちゃん」


 彼女は震える喉で、短く答えた。


「わたしが、名前を付けたの」


 そうか、と。僕も短く答えた。

 それから彼女の濡れた頬を少し撫でて「氷を買って君の家に行こう。こんな暑いところにいたら、ハナちゃんも可哀想だよ」と促す。


 初めて呼んだ友だちの飼い猫の名前は、ずいぶんと白々しく響いた。アスファルトの路面にアイスクリームをそのまま落としたような、そんな音だった。


 僕らは、二人で近くのコンビニまで歩いた。

籠を抱えたまま歩く香苗さんと、僕の歩くペースはいつの間にかズレていて、彼女の「待って」の声で足を止めることが何度かあった。


 この場合、冷たいのは僕の方かもしれないけれど。僕には僕の悲しみもあって。今まで僕らは歩く歩幅がたまたま同じだったのだという事実が急に突き付けられた気がして、思いの外ショックだった。


 この人は誰なんだろう。

 頭の片隅にはそんな言葉がじくじくと浮かんでいた。


 コンビニに着いてからは、香苗さんに外で待ってもらうことになった。さすがに店内に猫の亡骸を持ち込むわけにはいかない。


 カチ割り氷が切れていたため、在庫が余っている丸氷を買って香苗さんのもとに戻る。


「ハナちゃん、ボールのおもちゃで遊ぶの好きだったな」


 そう言って、彼女はまた泣き出してしまう。

 彼女の背中をさすりながら歩くなんて、僕は想像だにしてこなかった。しかしそこにあるのは新鮮さではなく、裏切りにも似た寂しさであった。


 香苗さんの住んでいるアパートへ向かう道すがら、彼女は「ハナちゃん」との思い出をつとつとと吐き出していた。


「家の近くの公園で拾ったの」

 そうかい。

「お刺身が好きだったの、贅沢よね」

 可愛がってたんだね。

「よく食べる子だったんだけどね、小さい頃に食べれなかったから、なかなか身体が大きくならなかった」


 香苗さんのアパートに着くと、僕らは買ってきた丸氷をビニール袋に入れたままタオルに包んで「ハナちゃん」の下に敷いてあげた。


 初めて来る香苗さんの部屋は、どこか生活感に欠けていた。最低限の家具と家電が置いてあるだけだった。学校の課題をプリントするためか、机の上に置いてある家庭用のコピー機の乳白色だけが妙に浮いていた。


 しかし、ところどころに落ちている猫の毛や部屋の隅にあるドーム型のクッションなどが、僕を無性に不安にさせる。


 籠は、窓際の日当たりの良い場所に置かれた。日陰がいいんじゃないかと言うと、ここが好きだったのと言うので、僕はそれ以上何も言わなかった。


「頭、撫でられるのも好きじゃなかったよね」


 彼女は亡骸の前で座り込んで、労わるように猫の前足を握っている。


「抱っこも好きじゃなかったよね」


 僕はそれを立ったまま見下ろしている。


「でも、前足だけはいつも握らせてくれたよね」


 香苗さんの涙の綺麗さに、置いていかれている僕がいる。

 想像していたように、僕は彼女の飼い猫のために涙を流すことはできなかった。それは例えば、僕がもっと「ハナちゃん」について知っていたとしても、結果に大きな違いはなかったのかもしれない。


 泣き続ける彼女に代わり、火葬場の予約などを僕は済ませた。


 午前中は他の家族からの予約で火葬場が埋まってしまったのだというので午後からになった。今この瞬間にも死んでいく飼いならされた動物たち。誰もが香苗さんのように涙を流してくれるとは限らないけれど、あれほど泣いてくれたら幸せだろうな。


 例えば。

 この人は僕が死んだときも同じように泣いてくれるだろうか。


「香苗さん」


 彼女は亡骸の前で膝を付いている。


「火葬場は午後から空いてるらしい」


 その小さな背中に一方的に話しかける。


「あと二時間くらいしたらタクシーを呼んで行こう。ここから火葬場まで、距離があるから」


 事務的なことをいくらか伝えると、彼女はゆらりと僕の方へ振り返った。

 濡れた瞳が暴力的に僕を見ている。


「呼んでよかった」


 君を、とか。

 アナタを、とか。

 そういう代名詞を僕は期待していたのだろうか。

 彼女はふらふらと立ち上がり、玄関へ向かう。何をしに行くのかと訊ねると「花を買いにいく」とだけ。彼女は振り返ることもないまま玄関のドアから出ていった。


 そうして僕は彼女の飼い猫と二人きりになった。


 猫と人なので、二人と言う表現は間違っているかもしれない。もっと言えば片方は死んでいるのだ。では一人きりになったという表現が正しいのかもしれない。


「元から一人か」


 自嘲的な呟きも、蝉の音が塗りつぶしていく。

 この炎天下のなかで、死んだ猫のために花を買いにいく香苗さん。そういえば二人で映画を見に行く約束をした日に、僕が発熱をしてしまったときがあったな。彼女は僕に「お大事に」の短いメッセージだけを送って、ひとりで映画を観に行った。


 別に香苗さんを冷たい人間だと罵りたいわけじゃない。


 むしろ僕と彼女の人と関わることへのスタンスは対極にあるかもしれないけれど、僕らの抱える精神的な孤独は、どこかで似ていると思っていた。それは紛れもない尊敬だった。


 けれど今の僕には、それがない。今朝までは持っていた、彼女への特別な感情が、今の僕には欠片もなかった。


 それはもしかすると、バス停に降りたとき、彼女の瞳から青色が消えていたとき、僕の心からも何かがぽっかりと消えてしまった。


 彼女の孤高は、自分を美しく魅せるための装飾品に過ぎなかったのだ。


 僕としたことが、気付かないうちに期待していたらしい。


 何を期待していたかと言えば、それは理解だったのかもしれない。


 掛け替えのない存在がいるという感覚が、僕にはない。それは腕や、足が、五体満足ではないことに近いのかもしれない。


 そういった欠落を、香苗さんは理解してくれるのではないかと思った。順番を付けるなんてできない、不器用な彼女なら、僕を一番にしてくれるんじゃないか。そんな淡い希望が、この息絶えた小動物によって奪われたことが何よりも惨めだった。


 僕と香苗さんの欠落は似ている。唯一の違い、分岐点、があるとするなら、この「ハナちゃん」という黒い猫だった。


 僕の手が知らぬうちに伸びていた。

 あれほど触れることをためらっていた指先が、猫の胴にふれる。骨ばった皮膚、毛並みだけが柔らかく、撫でるほどに岩に張り付いた苔を思わせた。


 まるで、まだ歩いているように横たわる姿。

 前足、首、頬、そして耳。血の気の引いた耳の内側が、白く、ぼんやりと冷たい。


 乾いた瞳は、どこかで見たことのある薄いブルーだった。


 夢見がちな自分から距離を取りたい。それは一種の防衛本能のような動作で顔をあげた。


 そのとき、偶然目についたのが、リビングにおいてあった家庭用コピー機だった。


 魔が差したと言われれば、そうなのかもしれない。

 「ハナちゃん」を抱えると、コピー機の原稿台の上に置いた。


 コピー機設定画面で自分のスマホと無線で繋げ「スキャン」と書かれたボタンを押す。誰かに命令されているかのような、機械的な動作であるにも関わらず、僕の行いが残酷性を帯びていることだけははっきりと分かった。


 それなのに僕の手は止まらない。

 彼女のさりげない裏切りが、僕を動かしていた。


 「ハナちゃん」の横たわった姿をスキャンをして、そのデータを僕のスマホへ送った。それを、何回も繰り返す。


 僕が「ハナちゃん」を元の場所に戻すタイミングと、彼女が戻ってきたタイミングはほぼ同時だった。僕は彼女に背を向けたまま「おかえり」と言った。彼女は何も言わなかった。


 それからすぐに、アパートの下の道路から急かすようなクラクションの音が2回鳴った。


 家の前でクラクションを鳴らしてタクシーの運転手は、疲れた顔をした壮年の男性だった。事情を説明すると、運転手は一瞬顔をしかめて、トランクからビニール袋を取り出して僕にわたした。


 男性運転手が何を言わんとしているかについては、十分承知していたけれど、それを香苗さんに対し実行しようとは思えなくて「すみませんが」と言って袋を返した。

 そのとき耳に届いた小さい舌打ちが、香苗さんには聞こえていただろうか。


 火葬場は住宅地から離れた山奥にある。その後はタクシーに乗って火葬場へ向かった。


 彼女は窓の外ばかり見ていた。

 その手だけが、包むように猫の頭を撫でていた。


 タクシーのエアコンが効きすぎていたのかもしれない。その時はずいぶん肌寒く感じた。


 「ハナちゃん」の火葬はつつがなく行われた。再び泣きじゃくる彼女に変わり、骨壺の大きさは僕が決めた。実質、僕の呼ばれた意味というのはその時点で終わったも同然だった。


「長生きした猫の骨って弱くなってますから、火葬するとボロボロになってしまうんですけど、この子は綺麗にのこってますよ。きっと愛情いっぱいに育ててもらったからですね」


 愛情と骨密度にどういった関わりがあるかはわからないけど、火葬場の職員は丁寧に猫の納骨について説明をしてくれた。僕らは骨を尻尾から順番に骨壷へおくった。どんな小さい骨も彼女は見逃さなかった。箸で掴んだものが骨なのか灰なのかもわからない。ただそれは香苗さんにとっては些細なことだったように思う。

 顎を、最後に入れると、職員が蓋を締めてくれた。


 意外にも、行きがけに乗車したタクシーの運転手は待ってくれていた。今度はビニール袋は渡されない。そこにどれだけの違いがあるかもわからないまま、二人で同じタクシーに乗り、ルートを伝えた。距離的に、僕の家に寄ったほうが近かった。


「ねえ」

「なに」


 帰り道、彼女は僕を呼ぶけれど、相変わらず窓の外ばかりを見ていた。

 

「火葬される前にね」

「うん」

「ハナちゃんのお髭を少しもらったの」

「そうだな、職員の人に鋏を借りて」

「ハナちゃんのお髭、もらってよかったのかな」

「髭は、燃えたら残らないだろ」

「ハナちゃん、怒ってないかな」

「……君が、欲しくて切ったんだろ」


 瞬間、香苗さんは車の窓ガラスを強く叩く。


「自慢の、お髭だねって……! 顔が小さいのにお髭は長いねって! 可愛いお髭だねって……! いっぱい、ほ、褒めたお髭だったからぁ……!」


 ガラスを叩いた手がだらんと下がり、泣きはらした目で僕をガラス越し睨んだ。


「いなくならないでよ」

「……いなくなるよ」

「どうして」

「僕だけじゃない、香苗さんの周りにいる人は、そのほとんどが途中でいなくなるよ」

「だからっ、どうして!」

「香苗さんが、必要としていないからだろ」

「ちがう!」

「違わないよ、香苗さん」


 あなたが怖いのは『喪失』じゃなくて『空席』だ。

 それから僕らは無言だった。

 帰りのタクシーで家に帰る前に、近くのコンビニで降ろしてもらった。嗚咽を漏らしながら骨壺を抱きしめる彼女に、僕は最後まで謝罪をしなかった。


 降りたコンビニで、僕はスマートフォンのなかに入っている「ハナちゃん」のデータを刷ってから、家に帰った。


 僕は自身の部屋のなかのあらゆる場所に友だちの飼い猫の写真を貼った。


 僕は彼女のようになりたかったのだろうと思う。


 壁に一枚、一枚と張り付けていくなかでこれは尊敬ではなくて嫉妬なのだと思った。

 僕らの人生は、いつも他者への不信でできていた。だからこそ、僕は彼女の孤高が美しいと思っていた。


 部屋のなかに「ハナちゃん」を招いた。そうすることによって、何か失ったものを取り戻せるような気がした。


 借りてきた猫のようにとはよく言ったもので、僕の部屋に訪れた点在する「ハナちゃん」は、静かに壁沿いに歩いていた。


 しかし去来する虚しさばかりが胸を重くした。当然だ、香苗さんにとっての一番が、僕にとっての一番になるはずもない。


 駄々をこねて買ってもらった玩具に、後味の悪さを感じる子どものような気持ちで、僕はリビングの窓からベランダに出た。


 あのカラーコンタクトの青色が、僕と同じ方向を見ているだなんて、そんな思い上がりを抱きはしない。その薄桃色の指先が、もう僕の手と絡まることはないけれど。それでいいと思った。


 彼女もまた、これから先の人生を、空席にしたまま歩むことになるだろうから。


 すると、向こう側の道路に黒い猫が見えた。


 それは幽霊の類ではなかった。一瞬だけ、僕と目が合った黒猫は確かな足取りで遠ざかっていく。おそらくその猫は香苗さんの飼っていた猫とは何の関係もない猫であった。


もしかすると、僕もそうなのかもしれない

 

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スキャナー・ネコ 久々原仁介 @nekutai

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