スキャナー・ネコ
久々原仁介
上巻
友達の猫が死んだ。
連絡をもらったとき、僕は間借りしたアパートのエアコンをつけるかどうか迷っていた。電気代ばかりが上がる、そんな大学三年目の長い夏休みだった。
誤解のないように言うと、僕とその猫が友達だったわけではない。つまりは友達の飼い猫だった。
僕にとっては、限りなく他人に近い存在に違いない。猫なのだから、他人というよりかは他猫というべきかもしれない。
だからといって、縁もゆかりもないかと言われると、それも違うかもしれない。猫は猫でも、僕の数少ない友達が飼っている猫だった。
そのとき「香苗さんからメッセージが届きました」と、スマートフォンが震えた。
僕は少し着る服を考えて、鍵と財布だけを持って家を出ることにした。細かいことはバスに揺られながら考えようと思った。友達の猫が死んだらしい午前中の空模様は、カラカラとしていて、黒いズボンに黒いワイシャツを選んだことをすでに後悔していた。
最寄りのバス停留所へ歩いていると、彼女から届いていたメッセージを開いた。それは氷を買ってきてほしいという内容だった。
彼女の家に近いところにコンビニがあっただろうかと思いながらバスを待った。バスを待ってる間にYouTubeのショート動画をいくつか観たけれど、友達の猫が死んだのに、こんな態度でいいのかだろうかと考えた。それはひどく義務的な思考だった。友達の猫が死んだことより、その悲しみを彼女と分かち合うことができるかの方が不安だった。
そうこうしているうちにバスが来たから、乗ってみる。
そういえば。
香苗さんが泣いているところ。
僕は見たことないな。
田舎のバスには段差がある。三つもある。バリアフリー社会への冒涜である。それでも段差を一段登れば、不思議と言葉も出てくる。
「……しゅぱつぃう、すぃんこぅう」
発音の癖がつよい運転手の背後に座る。
運転手のおじさんは一度、覗くように後ろの僕を見て「なんでこいつ背後に座るんだ」って怪訝な顔をした。けれど、しょうがない。短い旅路ではあるけれど、一人では心許ないのだ。どうかおじさんよ、背中を貸しておくれ。
どこか渋々とバスが動き出す。乗らなくてもいいかもしれないなとか、違う路線に乘ってしまったなとか、そういうトラブルが起きればいいのにと静かに考えていた。
バスに乗っている間、当たり前だけど僕は段々と香苗さんの家に近づいていく。その日はまるで何かの魔法にかかったかのように、バスは信号に引っかからなかった。一定の速度で、ぬるぬると加速していく。このままの速度で加速し続けて、いつか僕は飼い猫が死んだ彼女のもとへ辿り着いてしまうだろう。
一般的に、友達の猫が死んでしまったとき、僕はどう声をかけることが正解なんだろう。
やはり僕は、泣けるほど香苗さんの飼い猫について知らない。だから申し訳ないけれど、火葬場で一緒に泣いてあげることは難しいだろうなと考える。薄情だ。しかし心は薄氷だ。冷たい人間だと香苗さんから責められることを恐れている自分がいる。決して彼女が人格的に破綻しているわけではないし、そんな口汚く罵られるなんてことはないだろう。それでも僕のカラダなんとなく彼女に会うことに拒否反応を示している。いったい僕は何を恐れているのだろう。
そもそも、僕は香苗さんが猫を飼っていたことを彼女自身から聞いていたただろうか? 大学生の一人暮らしに猫と同居というのは少々珍しいような気がする。
僕は彼女の生活に猫がいることをなんとなく察してはいた。洋服にくっついた動物の毛。大学の帰り道に買っていたペットフード。そういうフィルターを通して、僕は香苗さんが猫を飼っていたことを知っていた。
しかし香苗さんの口から猫のことについて話を聞いたことはなかった。秘密にしていたわけではなく、どこか意図的に香苗さんは猫のことを話していなかった。
車内アナウンスで、バス停に近くなってきていることを知る。僕は少し迷って降車ボタンを押した。緩やかな減速のうち、バスは止まる。慣性の法則にしたがい、カラダが揺れる。
重い腰を上げてお金を払い、バスから降りる。
すると停留所のベンチには白いワンピースを着た女性が立っていた。
香苗さん。と、名前を呼んでいた。
けれど僕は降りた先から一歩も動けなかった。
抱えるように持っていたかごの中には、黒色の猫が横たわっているのが見えていた。
今から僕は、そんな友達の飼い猫の火葬に付き添わないといけない。
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