最終話 はくたいの中で

「お、前……は。もう少し加減しろ……」


 指先一つ動かすのも億劫だと感じるほどの疲労感とシーツに身を預ける。清められた身体を甲斐甲斐しく世話する男はご機嫌な表情で、丹念にこちらの指先にハンドクリームを塗りこんでいた。


「ですから言ったでしょう。首輪を望むのなら付けますが、と」

「普段散々待てを覚えたとか言っていたのはどこの駄狼だ……」


 何度かした制止をことごとく無視した挙句、こちらが空になっても猶止まらなかったのだ。仰々しくため息混じりに不満をこぼせば、司狼の方も唇を尖らせる。


「煩えよ。俺からしたらアンタが死ぬ前からお預けさせられてたんだ。これくらい可愛いガキが感極まった結果だと思って受け入れてくれませんかね? じーさん」

「程度というものを知っているか?」


 一晩貪られたのみならばまだ呆れて流してやるところだが、すでに卒業式から三日が経過していた。その間食事や排せつを除いてずっと寝台に縛りつけられていた身としては文句の一つか二つくらい言っても許されるだろう。


「嫌だったか?」


 短い問いかけに声がつまる。

 ……この無体をしいた男が、一方で数年……二十年近く耐えていたのも事実だ。年老いていた頃の私は何を馬鹿なと笑えたが。


「……嫌なわけが、ないだろう。僕だって……」


 言い出した身であるが……熱を与えられるだけ与えられて終えるというのもつらいものがあった。互いの想いを知っていたからなおさら。ハンドクリームを塗ってくる指先を捉えてほんの僅か力を込めて引き寄せれば、こちらの意図を飲み込むように寝台に肘をつき、顔を寄せてくる。


「どうかなさいましたか、環さま?」

「別に。……ずいぶんと首元が寂しくなったと思っただけだ」


 首輪を再びつけたいと思うわけではない。ただ感傷がよぎるだけだ。

 けれどもあまり口にして、もう大人になったこの子を縛りたいわけでもなかった。


「いっそネックレスかチョーカーでもつけるか?」


 だから代わりに口にした軽口を聞いて、司狼は破顔して即答を返す。


「環さまが選んでくださるのでしたら喜んで」

「……当たり前のように僕が選ぶことを前提にするな」

「おや、選んでくださらないので?」


 ──正直なところ、代わりのものと口にした時点で浮かんだ装飾品の例はいくつかある。ただ、明確な形が浮かんでいたわけではなかったし。何より……狭牙を背負って立つ彼が身に着けるものを、半端な気持ちで決めるのはかつてそれを背負っていた身としての矜持が赦さなかった。


「その内興が向いたらな。……代わりに、そうだな。少し休んだら、春休みの間にしたいことがある」

「ええ、なんでしょう」


 耳をよせる司狼に、頷いてから囁く。


「……この庭に、花を植えたい」

「花、ですか?」


 呆気にとられたように目を瞬かせる司狼。意表をつけたことにわずかながら優越感が生まれて口元を歪ませた。


「ああ。日下くさかも後進を育てはじめているようだから彼の意見を聞いてもいいし……。或いは、サフィニア辺りなら母さんから育て方を教えてもらったから僕も少しは手伝えるしな」

「…………」

「……司狼?」


 固まったまま一言も言葉を発さない男の顔を見て、少しだけ不安がよぎる。

 ずっと心の片隅にあった懸念がわずかに膨らんだ。結局のところ、彼が大切なのはではないか。死した養父への感情を肥大化させただけではないかと。


「(まるで、棺の中の花束をそのまま保管しているような)」


 今の環が生まれる前、かつての環が死ぬ前と何ら変わらない光景を思い出す。

 それだけ自分が亡き後も想っていてくれたというのは……有難くもあるが、同時に複雑でもあった。


 愚かな考えだと分かっている。狭牙環わたしもまた、自分であることに変わりはないのだから。


「っ、いえ。……あの庭にあるものを植え替えるなど、考えたこともなかったので」


 少し驚きましたと、そう零してから次第にその表情が緩んでいく。


「ええ、勿論です。必要なものがあればいくらでも準備しますので、遠慮なく仰ってください」

「……いいのか?」

「以前も言ったでしょう。環さまがご自身のやりたいことをしてくださるのを喜ばない理由などありませんよ。それに」


 瞳の下、頬へと口づけを落とした環は赤橙の瞳を輝かせた。


「アンタからの嫉妬なんてめったにないレアものを逃すつもりはないさ」

「……気づいていたか」

「俺がどれだけ環と一緒にいたと思っているんだ。……アンタがじいさんだった時と同じくらい、今のアンタと過ごしてる。それでもやっぱり、俺にとって愛したいと思うのはアンタだけだ。どんな姿でもそれは変わらねぇ」


 気がつけば上半身ごと寝台に乗り上げた司狼が、こちらを包み込むように抱きしめてきた。


「猫の逸話……九つの生っていうのなら、アンタが生きるのも今が最後なんだろ。……最初が無理にしても、俺をアンタの最後の相手にしてくれよ。環」



 司狼の声は絞り出したように震えていて、湿り気が髪を濡らす。……不謹慎だと分かっているが、それがどうにも可笑しくて、思わず耐え切れず肩を揺らしてしまった。


「……っふ、ふふ。はは」

「……、……環、さま?」


 いやすまないと、笑いを何とかこらえながらも謝罪を紡ぐ。司狼自身は本気なのだろうが。


「ロウフに蹂躙されて数代は奴への報復に躍起になって、それが終わるころには精神的に老成しきっていたというのに、愛だの恋だのに現を抜かせる余裕があるわけないだろう。……全く」


 こういうところは、もしかしたら似た者同士かもしれないな。

 狼と猫、全然違う種だとしても。ずれたところに気を回しすぎるのは。


「お前がはじめてだよ、司狼。ここまで振り回されるのはな」

「…………ッ! ……環さま」




 厚顔で、貪欲で、けれども臆病でいじらしい。

 そんな狼の仔が何よりも望んでいる言葉を告げるべく、環は口を開いた。


「────……愛しているぞ、司狼」

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狼はかつての親猫を喰らいたい 仏座ななくさ @Nanakusa_Hotoke

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