第45話 *終業時間

 車に乗り込めば扉が閉ざされる。

 相変わらず僕を抱えたままの司狼に、抗議をするように胸元を軽く押した。


「ほら、乗ったのだから降ろせ。しろ……っ、」


 薄く開いた口に躊躇いなく口づけた男は、そのまま肉厚な舌を差し込んでくる。舌を引く前に絡めとり、先端を甘噛みする感触が背筋を震わせる。腰から背中にかけてゆっくりと撫で上げる手つきが一層熱を煽り、目尻に涙を浮かべたまませめてもの抵抗に胸元を強く叩いた。


「っは……、……いきなり、がっつくな」

「すみません。つい……耐え切れず」


 眉を下げて謝罪をする司狼の瞳は、申し訳ないとは思っていないように環には見えた。隙をみせればすぐに再び食らいつきそうな光を宿しながら、指先は熱を煽るように耳元をやわく揉んでくる。


「まったく……、家にたどり着くまで三十分程度だろう。それくらい、」

「程度、ではありません」


 熱を帯びた吐息をこぼす男は、痛いほどに強く環を抱きしめてくる。


「ようやくアンタを丸ごと喰えるお許しが出たんだ。一分でも待ち遠しいと思うのは当たり前だろ?」

「っ……、言い方が悪い」


 腰に回った手も離れる様子はないし、これは到着まではこの姿勢でいることを覚悟した方がよさそうだ。抱きかかえられた姿勢で首元を見る。そこには首輪ステイリングも獣石も存在しない。

 視線に気がついたのだろう司狼の唇が、額に鼻先にと降ってくる。感触に瞳を閉じればくすくすと笑い声が聞こえてきた。


「この後が心配だと言うのでしたら、環さまの御手で首輪を嵌めなおしてくださっても構いませんよ?」

「またその話か」


 数年前に首輪を外して以来幾度も告げられている言葉。自ら縛られることを望むような響きに環は肩をすくめた。


「そもそも成人している相手に首輪をかけること自体が珍しいんだ。お前の場合はすでに首輪を外した件についても報じられていただろう」

「ああ。ここで俺が首輪をつけたら束縛癖の恋人がいるって噂になるかもな」


 楽しそうな響きで耳元から首筋へと口づけが降りてくる。……確信犯か、この男。

 軽く鼻先を指ではじけば、小さな呻き声と共に顔が離れていった。


「あいにく猫は気ままなものでね。縛るだけならともかく縛られるのはごめんだ」


 愛し子であり恋人だとしても、思い通りに動かされるのは趣味ではない。苦い顔をして見せたと言うのに、当の司狼は幾度かの瞬きの後すら目を丸くしている。


「……、……環さま」

「何だ、その顔は」


 見上げついでに睨みつけても堪えるどころか、耐えきれないように頬を緩ませていく始末。


「俺は、アンタに首輪を嵌めたいなんざ言ってないのに、それを前提で話してくれるんだな」

「……、……」


 その言葉に自分の発言を思い返す。そう。首輪を嵌めるだけならば……。


「…………忘れろ」


 当たり前のように、はめるのならば相互でと疑わなかった自分に顔から火が出そうだった。通常親が子に首輪をつけることはあってもその逆はない。相互と言うことはすなわち。


「無理を仰らないでください。照れ屋な環さまが見せてくださった隙を愛でない道理などないでしょう」

「屁理屈を捏ねるな。口を閉ざせ。というかまず降ろせ」


 幻尾げんおが生えていたら今頃逆立てていただろう。八重歯をむき出しに威嚇するが、すました笑みを浮かべた司狼はところでと口を開いた。


「つまり、環さまは今の私に首輪をはめるつもりはないということでよろしいのでしょうか?」

「……先ほどまでの会話をひっくり返すほど狭量になった覚えはないからな」


 一度宣言した考えを、揚げ足を取られた程度で翻すほど愚かになった覚えはない。口を曲げながらも首を縦に振る仕草をすれば、司狼の瞳が細められた。


「そうですか。……──あとで後悔しても、止まれないから覚悟しろよ」

「は、」




 彼の言葉と共に再び降り注ぐ口付けは、先ほど以上に性急にこちらを貪ってくる。


 半開きだった口を割り開いた唇は歯列の並びを確かめるように舐めあげて、顎の裏を、喉奥近くまで入り込む感触に生理的な涙が滲む。呼吸すら飲み干しながら口腔を蹂躙する様は。まさしく捕食されるようだった。


「ぁ……っ、ふ……」


 胸を叩けばあっさりと離される口は、けれどもいく度か荒く咳き込み息を吸い込んだらすぐに再び口づけられる。耳朶を熱を煽るように捏ねられて、愛撫を覚えている身体の体温が上がるのを感じた。舌を押しつぶしては絡め、吸い上げる。普段からキスを好む司狼だが、今日は輪をかけて執拗だ。

 飲み込みきれない唾液が口からあふれたのを親指の腹で拭ったのを合図に、数分とも思えた口づけは終わった。完全に砕けてしまった腰を撫で上げてくるのに、変な声をあげそうになる。


「っん……、お、ま……司狼!」

「環さまは、すっかり俺の手を覚えてくれたようですね」


 男冥利に尽きますと美しい笑顔を浮かべるのだから腹立たしい。けれども文句を言えば妙な声音に途中で変わるかもしれない。口を閉ざすことを選んだ僕を煽るように、触れる手は腰から臀部へと撫で下がり、双丘を揉みしだく。加えて親指が幻尾げんおが普段生える辺りを押して刺激するものだから、出来る抗議といえば力の入らない手で胸元に爪を立てるくらいのものだ。


 こちらの訴えなど知らぬ顔をして、司狼は幻ではない人の耳へと齧りついてきた。唇で耳の外側を甘噛みしてから、耳奥へと舌を這わせてくる。


「ぅ、あ、ばか。っ止めろ……、ひっ」

「ん、……ぅ、」


 わざと唾液で湿らせて水音を立てて耳を犯すのだからたまらない。左右ばらばらの動きで内腿を割り開くように刺激していくのに、尾が直接揉みしだかれているような錯覚すら覚える。

 軽い振動と共に窓の景色に映る光景が止まるのを眺める余裕などない。


「着きましたね。──さあ、行きましょう。環さま」


 完全に腰が砕け、背中を伸ばすことすらロクに出来なくなっている僕を抱き上げながら、司狼は上唇を舐めた。



 ◇ ◆ ◇



 車の止まる音がする。運転をしていた穂積は背もたれに体を預けた。

 運転席と後ろは特殊なガラスで隔てられており、後部座席の様子は見えない。普段ならば到着を告げるため扉を開けるのも穂積の役目だが、今日はそれが不要だとあらかじめ今の主人から仰せつかっていた。


「いやぁ、若いってのはすごいねぇ」


 しみじみとした笑い声をひっそりと零す運転手は屋敷の中でも最も多く、二人を見守る機会を得ていた。やんちゃ盛りの狼が随分とまあ成長したものだ。そう揶揄すれば年寄りの冷や水となってしまうだろう。今日は車を戻したらそのまま休暇の予定だから、使用人仲間と飲みに行こう。

 その時に、存分に二人の笑い話と祝いの盃を開けようじゃないか。


 すっかり立つことも出来ない様子で抱えられた前の主人と、それを世界で一番大切な宝のように抱える今の主人を見送りながら、穂積はサイドレバーを引いた。

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