終章

第44話 期日

「えっ、そこまで色々あって結局まだお預けさせてんの!? うわ……」

「何が言いたいのか素直に言ったらどうだい? 蓮」


 窓の外を見上げれば青空に桜の花が舞う光景。胸元に花飾りをつけた二人は下級生たちに見送られながら廊下を歩いていた。


「いやだってさ、仮とはいえ付き合いはじめてもう五年経つんだろ? その間一度も? ヤってねぇの!?」

「下級生も聞いてるところで妙な話をしない」

「お前が言い出したんじゃね!?」

「聞いたのはそっちだろ」


 大仰な仕草で肩をいからせる黒髪のツンツン頭の青年を見て、柔らかな茶色の髪をした青年は噴き出した。

 切れ長の金の瞳と茶色の癖がわずかにある髪は血統書付きの猫めいた印象で、中学の時よりはいくらか伸びた身長はけれどもまだ小柄の域をでない。


 身長が低くても人気なんだから顔がいいって得だよな。

 高校卒業のタイミング、これが最後の機会だと同級生や後輩からの情熱的な目線が向けられる。……男女くまなくなのはご愛嬌だ。

 相変わらず兎の越具を耳にはめた人々の意識がこちらに向けられている感覚はあるが、今更慣れたものだ。互いに周囲を気にすることなく会話を続けた。


「でもそしたら今日をもって解禁ってことだろ? ……よし、一週間は連絡しないからそのつもりでよろしく」

「いや、別にこの後落ち合う連絡も何もしてないのに何の気を回してるのさ」

「人生九回目だってのに何も分かってねぇよなぁ……」


 蓮が唇を突き出したところで、校門の方から黄色い悲鳴が聞こえてくる。窓際を歩いていた蓮が視線だけを向けて、自身の予想が正しいことを悟った。


「ほら、早く下に行こうぜ。馬に蹴られるならまだ生き延びる方法はありそうだけど、狼に噛まれたら俺も無事じゃすまなさそうだしさ」

「だから何を……」


 口を開きかけた環も、下から聞こえてきた甲高い会話を耳にしたのだろう。それまで薄く浮かべていた苦笑が歪み、呆れたように溜め息を吐く。


「環のかーちゃんには言っとこうか?」

「いいよ。……車の中で連絡する」


 言うや否や駆け出した環の後ろ姿が階段の向こうに消えるまで見送った蓮は、深々とため息を吐き出した。


「……連絡しとくか〜、環の母ちゃんなら理解ありそうだし大丈夫だとは思うけど」


 お預けをずっと喰らわせて飢えきった狼相手にそんな余裕があるわけないんだよなぁ。この数年間浴びるほどの嫉妬を受け続けた第三者だからこそ、冷静な判断で端末を起動させた。



 ◇ ◆ ◇



 環が昇降口まで辿り着いた頃には学生たちが校門付近であふれかえっていた。

 下級生たちは彼に見惚れながら立ち止まり、正気をそのまま吸い取られたように歩き出している。同級の卒業生はあの美丈夫が誰に声をかけるのか、仄かな期待を胸に秘めたように離れたところでこれみよがしに雑談をしていた。


「な、なぁ環!」


 靴を取り出しかけたところでこちらを呼ぶ声に手が止まる。声をかけてきたのは別のクラスの同級生だ。上気した頬を隠さぬままにこちらへと歩み寄ってきた。


「この後予定はあるのか? も、もし良ければ一緒に帰らないか。カラオケとか寄ってさ!」

「いや、この後は……」


 約束はないが、人を待たせているから。

 そう言おうとする前に目の前の同級生の顔が青ざめる。

 あ、と口を開きかけたところで肩に乗った手が体を後ろへと引いた。


「環さま」


 その方はどなたでしょうか? と。

 やわらかくも低く横隔膜を震わせる声が聞こえてくる。


 抱き寄せられた姿勢そのままに見上げれば、美しい笑み。赤とオレンジが混ざり合った瞳は煌々と輝いている。


「司狼……仕事はどうした」

「環さまの一大行事ですよ。調整したに決まっているでしょう」


 腕を僕の腹部の前で組んでわざわざ目の前の男と距離を取らせようとする周到さに思わず笑いが零れる。本当に、何年たっても彼のこういうところは変わらない。


「せめて連絡くらいしろと言っているだろう。……すまないな。待ち人が来たからこれで失礼するよ」

「え、あ……」


 すっかり委縮してしまった同級生には可哀想なことをしてしまったけれど、彼の望み通りに出来るわけでもなし。待たせたねと後ろを振り返ろうとすれば、それよりも先に彼の腕がこちらを抱き上げる。


「ッ、おい。僕をいくつだと思っているんだ……一人で歩けるが?」


 周囲から衆目の視線が一斉に突き刺さる。今日を限りでこの校舎を後にするとはいえ、横抱きの子ども扱いをされる姿を最後に見せるのは羞恥がよぎる。


「年齢は関係ねえよ。アンタが俺の恋人って見せつけるために決まってんだろ」

「な……、」


 そのまま唇に落とされた口づけに、猫の聴覚でなくとも明らかに聞こえるほどの歓声が遠くから聞こえてくる。


「おっ……前、は。……恥ずかしいやつだな……」


 そんな風に育てた覚えはないぞと、私は思わず悪態をこぼしそうになったのを飲み込む。これは一秒でも長くこの場を立ち去った方が傷は浅くなりそうだ。熱くなった頬を隠すように視線を自らの胸元に落としながら、早く車に戻るように命令した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る