thinking of you

月夜野ナゴリ

第1話 thinking of you

 まさかこんな日が来るとは想像もしていなかったし、まだ信じられない。あんなに小さくて泣き虫だった娘が、オリンピックで優勝するだなんて、一体誰が想像できただろう。

 女子200m個人メドレー。一人でバタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、自由形の順番で泳ぎ、娘は世界一の速さで泳ぎ切った。

 テレビ画面の向こう側では、娘である夏海がプールにぷかぷか浮かびながら、真夏の太陽のように眩しい笑顔でガッツポーズを繰り返している。

 競泳の実況アナウンサーが大きな声で「高林夏海!金メダルー!!激闘を制し、ナンバーワンを掴み取ったー!!」と叫んでいるが、父親である私は病室のテレビの前で震えながら黙って妻と抱きしめ合っていた。別に病室だから静かにしていたわけではない。個室であるのだし。ただ、驚きのあまり何一つ言葉にできないだけなのだ。

 少しずつ頭が冷静になってくると、周りの病室からも「おー!金メダルだ!」、「すごいぞ!」というような声が聞こえてきた。

 本来ならば、私も会場に行って応援するはずだったのだが、1週間ほど前に仕事現場で脚を骨折してしまい、入院するはめになってしまったのだ。私がひどく落ち込んでいたために、妻も会場へ行くのを諦めこうして病室で一緒に生中継を見ていたのだ。

 画面の向こうでは夏海がインタビューを受けている。

「―――決勝だし、とにかく思いっきり楽しんで自分らしく泳ぎました!今まで応援して支えてくれた人たちに金メダルを持って帰ることができて嬉しいです!」

 夏海が涙ながらに答えている様子を見て、まだ水泳を始めたばかりの頃の幼い娘の姿を思い出した。



 夏海が水泳を始めたのは3歳の頃だった。心配性な私は、娘が小学生になったときに水泳の授業で溺れたりしないかが心配で、妻に相談して水泳教室に入れることにした。

「夏海、今日はパパと一緒にプールに行ってみよう!」

「プール?やったー!パパと一緒?」

「そうだよ、パパも行くよ」

 そんな会話をしながら、地元の水泳教室を訪ねた。どんな水着がいいのかわからなかったため、とりあえずウサギの絵が描いてあるピンクの水着を持って行ったことを覚えている。

 通い始めたばかりの頃は私から離れることを嫌がって泣くため、私は二階にある観覧席ではなく、プールサイドまで着いて行って娘の様子を見ていたものだ。私から離れては泣いて、誰かに水をかけられては泣いて、プールサイドで滑っては泣いて、帰ると言ったら泣いて、とにかく泣き虫でいつも泣いてばかりいた。

 しかし、水泳教室に行くのは楽しいらしく、毎週日曜日の午後に「プールだよ」と声をかけると、嬉しそうに「プール、プール」とはしゃぎながら玄関で小さな靴を履いていた。

 プールの帰りには車の中で寝てしまうことがほとんどで、車から降ろすときに抱っこをすると、まだ濡れた髪からプールの匂いがしていた。

 気づけば夏海は私がプールサイドにいなくても平気になり、友達に水をかけられたくらいでは泣かなくなり、少しずつバシャバシャと泳げるようになっていった。

 プールに行ったのは何も水泳教室だけではなく、夏には近所のプールや川に遊びに行って、私も一緒になって泳いでみたりした。

夏海がバタ足の練習をするために両手を持っていた頃は束の間、夏海はあっという間に一人で泳げるようになり、「パパ、遅いー」などと言われながら私は半分溺れかけて娘の後を追って泳ぐようになっていた。

そして、夏海が中学生になった頃、大会があるというので応援に行くと、その日の夜に「恥ずかしいからもう応援に来ないで」と言われた。この頃から夏海と会話をすることが減っていき、私はおおいに落ち込んでいたが、夏海にしてみればそういうところも「ウザい」感じだったらしい。

妻は「まぁ、そういう時期だから仕方ないよ。夏海もパパのこと嫌いなわけじゃないから」と励ましてくれたが、やはり辛いものがあった。

夏海が高校生になる頃には様々な大会で優勝することが増えてきて、私はメガネと野球帽とマスクをつけて、こっそりと応援に行ったりしていた。妻は「パパ、バレバレじゃない?」と心配してくれたが、私は夏海にバレていなかった自信がある。

そして、夏海が大学生となり学生寮での生活が始まってからは、夏海の顔を見ることも減ってしまっていた。

大学生になってからも大きな大会で優勝したりすると、妻には写真付きでメールが届いていたが、私のケータイが鳴ることはなかった。

 ある日、いつものように妻のケータイに夏海から写真付きでメールが届いた。写真に写る夏海の胸には金メダルが輝いていたが、それ以上に私が気になったのは隣に並んで写る謎の青年だった。

「ママ、これ誰かな? もしかして夏海の彼氏なんてことは…」

「あれ? パパに言ってなかったっけ? 夏海、彼氏ができたんだって」

「え…」

「ごめんごめん。すっかりパパに伝え忘れてた」

 妻は笑いながら謝っているが、私はショックだった。娘に素敵な彼氏ができたのなら父親としては喜ばしいことであるのは頭ではわかっているのだが、水泳で金メダルを取った喜びを分かち合うのはとっくの昔に私ではなくなっていたのだということが、今頃になって胸に突き刺さった。

 それから数年後、夏海はオリンピックの代表選手に選ばれ、ついに今日金メダルを獲得した。そして、今日も娘の一番そばにいるのはあの彼氏なのだ。私が骨折なんかしたばっかりに…。



 昔のことに思いを巡らせている間に、夏海のインタビューは終わろうとしていた。

「それでは最後に、この喜びを誰に一番伝えたいですか?」

 インタビュアーが夏海にマイクを向けた。夏海がカメラをまっすぐ見つめた瞬間、夏海が私を見たような気がしてドキリとした。

 妻が私の手を繋いで「ほら、パパ」と呟いた。

 画面の向こうで夏海が口を開いた。

「はい。やはり子どもの頃から応援してくれた両親に…、特に父に伝えたいです」

 夏海からの予想外の言葉に一瞬頭が真っ白になった。

「父がいなければ今日の私はなかったと思います。幼い頃からいつも煩わしいくらいに一生懸命応援してくれて、こっそり隠れて応援に来てくれたりして、誰よりも私を支えてくれました」

 気づけば涙が後から後から溢れ出てきて、画面が見えなくなっていた。

はしゃぎながら小さな靴を履く姿が、水をかけられて泣いている姿が、「パパ、遅いー」と言いながら振り返る姿が、抱っこしたときにまだ濡れた髪から香るプールの匂いが、そんな小さな思い出が一気に泡のように浮かんできた。

「私が水泳を好きになれたのは父のおかげです。父はドジなので今日はここには来れなくなってしまいましたが、きっと今頃テレビの前で泣いてると思います。パパー!ありがとう!」

 夏海は泣きながら、そして笑いながらカメラに手を振ってインタビューを終えた。

 私が大人気なくおいおい泣いていると、妻も泣きながら「良かったね、パパ」と言って、もう一度共に抱きしめ合った。

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