いつかはほどく結び目を

翠雪

いつかはほどく結び目を

「おじさまの髪って、あたしより長いですよね」


 そう口にした少女は、うなじの近くで結んだ黒髪を、今日も胸元へ垂らしている。生成りの生地で仕立てられたエプロンには、お下げの毛先が擦れていた。


—————


 微熱をたたえる陽光と、野鳥の声で目を覚ます。陸地の大半を統べるクロワ帝国といえども、その片隅の村ともなれば、都より随分と長閑である。体を起こし、ベッドに腰掛け、また落ちようとする意識をゆっくり引き上げる。麻張りのベッドは、風の通しがいい代わりに、長く寝るにはやや硬い。


 瞼の幕で視界を塞ぎ、緩慢な呼吸を繰り返しているうちに、階段を上がる音が鼓膜を震わせた。次いで、軋む廊下を歩く音。段々と近付くそれが止み、ほどなくして、外から扉が叩かれる。義眼の左目は閉じたまま、右目だけを開けて返事をすると、真鍮のドアノブが回された。


「おはようございます、おじさま。今日はとってもいい天気ですよ」


 木の器と水差し、それにタオルを携えた、宿屋の使用人である少女——齢十五歳のアスターは、微笑みと共に会釈をした。親族や同郷といった間柄でのみ名前で呼ぶという風習により、本名の「ローリエ」を避け、「おじさま」と呼ばれることにも慣れてきた。二親を早くに亡くし、私塾にすら通えていないアスターへ、文字を教える約束をしてから早一ヶ月。気質だろうか、授業の回数を重ねるほど、彼女は使用人として善く仕えようとする。本来ならば、洗顔の支度なぞ、客室に運んでまで誂える必要はない。不要な手間を自ら買って出るアスターは、昨夜の授業でも使った机を、手際よく片していく。丸く大きな目の周りに、寝不足の色は見えない。新しく知識を得ることには疲れも伴うだろうに、実に元気なものである。四十三歳の己とは比ぶべくもない、若さが成せる御技だ。


 陶器の水差しから、透明が澱みなく流れていく。波打つ清水と、少女の左目を縁取る睫毛とに、光がちらちら反射する。長い前髪のカーテンに阻まれて、右目の色は見えない。左手の小指には、寂れた宿屋の給金では買えそうにない、石付きの指輪が鎮座している。


「朝食は、レンズ豆のスープにしてみました。教会の方々がふるまっていたものを真似てみたんですが……豆をふやかしすぎて、ちょっと違うものになってます」


 お腹には溜まると思いますけど。頬を赤らめながらはにかむアスターは、空になった水差しを天板に置いた。


「火はよく通したか?」

「はい! もちろんです」

「なら、いい」


 あくびを噛み殺し、重い腰を上げる。ばらけた髪を雑によけ、前髪を後ろに撫でつける。常ならばこの辺りで部屋を辞す少女は、今日はどうしてか傍にいる。怪訝に思いながら、椀の形を両手で作り、澄んだ水で皮脂を落とす。使い古されたタオルは、時たま髭に引っかかる。顔を上げると、彼女は、まだ客室の内側にいた。


「用があるなら、聞くだけ聞く」


 眼帯を左目にあて、留め具を噛ませる。横目で見遣ったアスターは、胸元で組んだ手を開いたり閉じたりと、何やら落ち着かない様子だ。結い紐を喰み、右の前身頃へ後ろ髪を流す。


「た、大したことじゃないんですが……その。おじさまの髪って、あたしより長いですよね」


 紐で括った己の髪が、手指を離れてだらりと垂れる。肩甲骨と腰元のちょうど中間まで伸びた黒髪は、彼女の胸上で途切れるそれよりも、確かに長くはあるだろう。しかし、こまめに櫛を通していることが分かるアスターの髪とは、見栄えの良さが異なるが。


「面倒で放ってるだけだ」

「なんというか、編みやすそうだな、と思って」


 編みやすそう? 予想だにしていなかった返答を疑問符つきで復唱すると、アスターはこくりと頷いた。


「あたし、自分で三つ編みをしようとしても、なかなか上手にできなくて」


 組んだ手に力がこもり、視線が足元に落とされる。口端を結び直したアスターは、きつく瞼を閉じてから、まっすぐにこちらを見上げてきた。


「もしよければっ、おじさまの髪で、練習させていただけませんか? 晴れていますし、気分転換のお散歩がてら。少し歩いたところに、お気に入りの場所があるんです」


 一世一代の告白でもするかのような懸命さで、二回り以上も離れた子どもから、髪いじりの練習台となるよう頼まれている。忙しいわけではないが、彼女の遊びに付き合う道理も特にない。どうしたものかと頭を巡らせていると、弓なりだったアスターの眉根が、段々と下がってくる。小動物めいたその顔に、音の出ない溜め息をついた。


「……分かった。好きにしろ」

「えっ、あ、ありがとうございます!」


 にわかに顔を明るくした彼女を、階下の女将が呼びつける。母親でもなく、雑用係としてのみアスターを評価する宿の主は、いつでも険のある声で少女を使う。肩を跳ねさせたアスターは、湿ったタオルを器に浸け、水差しと共に持ち上げた。


「食事の後、またお声がけに来ますね」


 慌ただしい足音が、上がってきた時よりも速く遠のいていく。片開きのドアを閉める直前、さも嬉しそうに微笑みかけてきた少女の純朴を、独りの部屋で持て余す。裏のない好意に触れるのは、随分と久しぶりだ。ひとところに留まりすぎた弊害を、躱すすべすら記憶に薄い。つい先ほど、水面に映った自分の姿を思い出す。本当の素性を話してすらいない、怪しげな学者。彼女の父親代わりを担うには、背負った荷物が重すぎる。懐かれることが苦痛なら、離れたくなるよう傷をつければいいだけなのに、アスターの健気さに毒気が抜かれる。名前の通り、野に咲く花と近しい空気を纏う少女を、無遠慮に手折ることは憚られた。今日のところは、彼女の頼みをきくしかない。諦めの中に、柔らかな熱が紛れていることからは、そっと目を逸らした。


 崩れたレンズ豆のスープを胃に収めた後、急いで洗い物を済ませたらしいアスターが、再びドアをノックした。彼女の案内に任せていると、ひと気のない小さな花畑に到着する。近くに湧き水が流れ、木々に囲まれた涼しさもある秘密基地には、緑の匂いが立ちこめていた。あぐらをかけば、一層強まった青さが鼻腔をくすぐる。右隣に座ったアスターは、作業の邪魔にならないよう、お下げの中でもとりわけ長い一束を背中に払った。


「それでは、失礼して」


 前置きした少女は、あらかじめ結んでいた紐をほどき、光が照り返さない髪をいじり始める。もたつきながらも、これ以上なく真剣な眼差しで、毛束を交互に重ねていく。空から落ちる木漏れ日は、辺りのざわめきに合わせて揺れる。夕方になる前には、このおままごとも終わるだろう。勝手に見当を付けて、そよ風に耳を澄ませていると、どこか遠くで駒鳥が鳴いた。

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