淵の底

月夜野ナゴリ

第1話 淵の底

 これは私の父が中学生の頃に体験した不気味なお話です。

 当時、私の父は山間部の集落で両親と数人の兄弟とともに暮らしていました。現代とは違ってまだ家にテレビもない時代であったため、学校が終わると近所の子どもたちとともに川や山、畑なんかで遊んでいました。特に夏場は山の谷間を流れている川で遊ぶことが楽しみだったそうで、いつもみんなで遊ぶ場所には深い淵がありました。

 その淵は深さが3メートル以上もあり、川のそばにある大岩から飛び込んだりして遊んでいました。

ある日、父が学校帰りに川のそばを通ると、集落の人たちが淵のあたりに集まっていたそうです。

「何してんの?」

 父が近所のおじさんに尋ねると、おじさんが振り返り「保次さんがな、昨日から帰ってねぇっていうから…」と答えました。

 保次さんというのは同じ集落で暮らしているおじいさんで、夫婦二人暮らしをしていました。

 前日の昼頃、保次さんが淵のあたりで釣りをしているところを数人の人が目撃していたそうですが、夕方になり父を含めた数人の子どもが淵を訪れたときには保次さんの姿は見えなかったそうです。

 交番の警察官も一緒になって周辺を捜索しましたが、結局保次さんは見つかりませんでした。

 保次さんが行方不明になって数日後、父は近所の友達と一緒に淵に遊びに行きました。

父はいつものようにシャツを脱いで大岩から淵へ飛び込んで、そのまま淵の底を目指して潜水しました。よく晴れた日だったそうですが、淵のあたりは木の陰で薄暗くなっており、当然3メートルもある淵の底も暗くなっていました。

 父が潜水していくと、淵の底にはいつもはない岩のようなものが見えました。薄暗くてはっきり見えないため、岩に向かってさらに潜っていきましたが、そこで父はパニックになって危うく溺れかけたそうです。

父が淵の底で見たものは岩などではなかったのです。そこにあったのは…、いえ、そこにいたのは保次さんだったそうです。薄暗い淵の底に座って、父の方を見上げてニヤニヤと笑っていたそうです。

 父は慌てて川から上がり集落の大人たちに保次さんのことを話すと、すぐに大人たちがもう一度淵の中を探してくれたそうですが、保次さんは見つからなかったそうです。

 結局、今日に至るまで保次さんは見つかっていません。

 ちなみに、関係ないとは思いますが、昔からその淵には河童が出るという噂があるようです。そんなこととは知らずに、私も幼い頃には祖父母の家を訪ねた際に、何度かその淵で遊んだことがありました。淵の底に保次さんの姿も河童の姿も見えませんでしたが、薄暗い淵の底はいつも不気味でした。

 今でもその淵は残っています。

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淵の底 月夜野ナゴリ @kunimiaone

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