第6話

 電車はエンジン音を響かせながら、夜の山間をゆっくりと走り始めた。車窓に映る景色は、漆黒の闇に包まれていた。時折、遠くの民家の灯りが、寂しげに瞬くのが見えるだけだった。

 伊吹は、隣で眠たそうに目をこする雪花を見た。

「眠い?」

 伊吹の優しい声に、雪花は小さく頷いた。恐怖と緊張で張り詰めていた心が、ようやく安堵感に包まれ始めたのだろう。

「肩を貸すよ」

 伊吹は自分の肩を雪花に差し出した。雪花は遠慮がちに伊吹の肩に頭を預けた。伊吹の温かさが、雪花の心を優しく包み込んだ。

 電車の揺れと、伊吹の温もりに包まれて、雪花はまもなく眠りに落ちた。伊吹は、雪花の寝顔を見つめながら、そっと髪を撫でた。安堵と愛情が、伊吹の心を満たしていく。

「もう大丈夫だよ」

 伊吹は心の中で呟いた。これからどうなるかは分からない。ただ、今はこのままでいたいと思った。

 電車は暗闇の中を走り続けた。車窓に映る景色は、二人のこれからを暗示しているかのようだった。暗闇の先には、きっと光が待っている。そう信じて、二人は静かな眠りについた。


 伊吹の視界の端に、一瞬、黒い影がよぎった。目を凝らすと、暗闇の中を疾走する異様な姿が浮かび上がった。

「あれは……まさか、鬼!?」

 伊吹の心臓が凍りついた。信じられない光景だった。鬼は、まるで獲物を追う獣のように、猛スピードで電車を追いかけてくる。その目は、獲物を見つけた喜びに爛々と輝いていた。

「嘘でしょ……!」

 伊吹は血の気が引くのを感じながらも、雪花の肩を揺さぶった。

「雪花、起きて! 鬼だ!」

 伊吹の叫び声で、雪花も目を覚ました。車窓に映る鬼の姿を見て、雪花の顔からも血の気が引いた。

「逃げなきゃ!」

 伊吹は雪花の腕を掴み、車掌室へと駆け込んだ。

「車掌さん! もっと早く! お願いです!」

 伊吹は必死に懇願したが、車掌はハンドルを握りしめ、青ざめた顔で首を横に振った。

「これが精一杯だ! これ以上スピードは出せない!」

 車掌の絶望的な声が、車内に響き渡った。鬼は、少しずつ、しかし確実に、距離を詰めてくる。その姿は、まるで死神のようだった。

 伊吹と雪花は、恐怖で震えながら、互いの手を握りしめた。逃れる術はない。鬼は、もう間もなく、二人に追いつく。車内には、絶望的な空気が漂っていた。


 轟音と共に、鬼が車両に飛びかかった。その衝撃で、電車は大きく傾き、轟音を立てて脱線した。伊吹と雪花は、座席から放り出され、無情にも床に叩きつけられた。激しい痛みが全身を襲い、意識が朦朧としていく。

 しかし、次の瞬間、二人は恐怖に突き動かされるようにして意識を取り戻した。車内は、悲鳴のような金属音と軋む音で満ちていた。窓ガラスは粉々に砕け散り、車体は不気味な角度で横転していた。

「い、伊吹……」

 雪花の弱々しい声が聞こえた。伊吹は急いで雪花の元へ駆け寄り、その体を抱き起こした。

「大丈夫? 怪我はない?」

 雪花はゆっくりと首を横に振った。幸い、二人とも大きな怪我はなかったようだ。

 伊吹は雪花の腕を掴み、脱出口へと向かった。鬼の姿は見えないが、この場所に留まるのは危険だ。二人は、割れた窓ガラスを乗り越え、闇の中へと飛び出した。

 夜の山は、漆黒の闇に包まれていた。月明かりもなく、方向すら分からない。しかし、二人は立ち止まることなく、闇の中を走り続けた。鬼の恐ろしい形相が脳裏に焼き付いて離れない。一刻も早く、この場所から逃げ出さなければ。

 恐怖と焦燥感に駆られながら、二人は闇の中を彷徨い続けた。どこへ向かえばいいのか、出口はどこにあるのか。何も分からない。ただ、ひたすらに、闇の中を走り続けた。


 息も絶え絶えに、二人は闇の中を走り続けた。恐怖で肺が張り裂けそうになり、足は悲鳴を上げていた。何度も転びそうになったが、その度に互いの手を握りしめ、何とか立ち上がった。

 背後には、鬼の怒り狂う咆哮が響いていた。その声は、まるで獲物を逃した猛獣のようで、二人の心を凍りつかせた。立ち止まれば、確実に捕まってしまう。二人は恐怖に突き動かされるように、ただひたすらに前へと進んだ。

 どれくらい走っただろうか。伊吹は、月明かりに照らされた小さな洞窟を見つけた。

「あそこに!」

 伊吹は雪花の腕を引き、洞窟へと飛び込んだ。洞窟は狭く、大人がやっと入れるほどの大きさだったが、二人は身を寄せ合い、息を殺した。鬼の足音は、次第に近づいてくる。心臓が破裂しそうなほど、鼓動が高鳴った。


 鬼の巨大な手が、洞窟の入り口を覆い尽くした。その指先は、まるで獲物を捕らえようとする獣の爪のように、鋭く曲がりくねっていた。伊吹と雪花は、身を寄せ合い、息を殺した。鬼の荒い息遣いが、二人の顔に生暖かい風を吹きかけた。

「もうだめ……」

 雪花の小さな声が、伊吹の耳に届いた。伊吹は雪花の震える手を握りしめ、祈るような気持ちで目を閉じた。しかし、鬼の手は一向に引く気配を見せない。

 夜が更け、寒さが二人の体を襲った。洞窟の奥から冷たい風が吹き込み、二人の体は凍えるように冷たくなった。恐怖と寒さで、二人の体は小刻みに震えていた。

「伊吹……」

 雪花の弱々しい声が、再び伊吹の耳に届いた。伊吹は雪花の体を抱きしめ、温めようとした。しかし、二人の体温は下がる一方だった。

 時間がゆっくりと流れ、夜明けが近づいてきた。しかし、二人の心には希望の光は見えなかった。絶望が、二人の心を蝕んでいく。

「もう、無理……」

 雪花の言葉に、伊吹は何も返すことができなかった。二人は、ただ静かに、最期の時を待った。互いの体温だけが、二人の最後の繋がりだった。

 夜明け前の薄明かりが、洞窟の入り口を照らし始めた。しかし、その光は、二人にとって希望の光ではなく、絶望の光だった。鬼はまだ、洞窟の前で待ち続けていた。


 夜明け前の薄明かりが、洞窟の奥まで届き始めた。いつの間にか鬼の気配は消え、辺りは静寂に包まれている。伊吹と雪花は、恐る恐る洞窟の外の様子を伺った。鬼の姿はなく、鳥のさえずりが聞こえてくる。

「もう、大丈夫みたい」

 伊吹の声に、雪花は力なく頷いた。二人はゆっくりと洞窟を出て、夜明けの山道を下り始めた。足元はふらつき、体は鉛のように重かったが、それでも二人は歩みを止めなかった。

 数時間後、二人は賑やかな街に出た。携帯電話の電波が復活し、安堵の涙が溢れた。二人はすぐに近くの警察署に向かい、昨夜からの出来事を詳細に説明した。

「鬼? 脱線した電車? それは大変だ」

 警察官は驚きながらも、真剣な表情で二人の話を聞いた。そして、すぐに捜索隊を編成し、鬼が潜んでいると思われる山へと向かった。

 しかし、捜索は難航した。鬼の姿はどこにも見当たらず、残されたのは、脱線した無人の電車と、横転した車、そして行方不明の運転手という不可解な痕跡だけだった。

 警察は、この事件を「異常な獣による事故」として処理し、捜査を打ち切った。しかし、伊吹と雪花は、あの恐ろしい鬼の存在を忘れることはできなかった。

 二人は日常に戻ったが、あの鬼が何だったのか、なぜ二人を追いかけてきたのか、今も分からないままだ。あの恐ろしい体験は、二人の心に深い傷を残した。しかし、同時に、二人の繋がりをより強くした。二人はこれからも、あの夜の恐怖を忘れることはないだろう。そして、お互いの大切さも忘れることはないだろう。

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ふたりの少女と禁断の森 アールグレイ @gemini555

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