第5話

 山道の勾配に足を取られながらも、伊吹と雪花は必死に歩を進めた。陽は傾き始め、辺りは少しずつ茜色に染まりつつあった。不安と疲労が二人の心を蝕もうとしていた時、視界が開け、小さな一軒家が姿を現した。

「あ、あれは……」

 雪花の指差す先には、瓦屋根の古びた民家があった。

「誰かいますかー!」

 伊吹は最後の力を振り絞り、大声で叫んだ。

「はーい、どなたですかー?」

 中から、土の匂いがする声が響いた。しばらくすると、年の頃は60過ぎであろう、農作業着を着た男が出てきた。

「おや、こんな山奥に若い娘さんが二人……どうかしましたか?」

 男の優しい声に、二人は安堵の表情を浮かべた。伊吹はこれまでの出来事を、鬼に襲われたこと、山道に続く不気味な跡のこと、そして逃げ惑いながらここまで辿り着いたことなどを、包み隠さず話した。


 男の顔色は、みるみるうちに土気色へと変貌した。手が震え始め、その瞳は恐怖に染まっていた。

「お前さんたち、まさか……あいつに目をつけられたんか……」

 男の声は、まるで地の底から響いてくるようだった。伊吹と雪花は、男の豹変ぶりに言葉を失い、ただ怯えたように顔を見合わせた。

「……あいつ?」

 伊吹が恐る恐る尋ねると、男は首を横に振り、顔を歪めた。

「知らなくていい。とにかく、ここにはいられない。早く出ていけ!」

 男は、二人に向かって怒鳴り声を上げた。その迫力に、伊吹と雪花は思わず後ずさった。

「……ですが、外は暗いですし、どこに行けば……」

 雪花の言葉は、男の耳には届かなかった。

「いいから、早く出ていけ! あいつに見つかったら、俺まで……」

 男は言葉の続きを飲み込み、二人を家から力づくで押し出した。戸口に叩き出された二人は、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 バタン。

 重い音を立てて、家の戸が閉ざされた。あたりは、先ほどまでとは打って変わって、不気味な静けさに包まれた。


 男の非情な態度に、伊吹の怒りが爆発した。

「一体どういうことですか! 私たち、命からがら逃げてきたんです!助けてください!」

 伊吹は拳を握りしめ、男に向かって叫んだ。しかし、男は怯えたように後ずさり、家の戸を固く閉ざした。

「開けてください! お願いです!」

 伊吹は戸を叩き、叫び続けたが、男は一向に応じなかった。隣で、雪花はただただ呆然と立ち尽くし、大粒の涙を流していた。

「なんで…どうして……」

 雪花の言葉は、夜の闇に消え、虚しく響いた。伊吹は雪花の肩を抱き寄せ、慰める言葉を探したが、何も出てこなかった。恐怖と怒り、そして絶望が、二人の心を埋め尽くしていた。

「もう、誰も信じられない……」

 雪花のすすり泣く声が、伊吹の胸に突き刺さった。伊吹は、この残酷な現実に歯を食いしばり、雪花を守ることを誓った。


 伊吹は震える雪花の肩をそっと抱き寄せた。冷え切った頬に伝わる温かさに、雪花は小さく息を吐いた。

「大丈夫、私が守るから」

 伊吹の力強い声に、雪花は顔を上げ、伊吹の瞳を見つめた。そこに映る強い決意に、雪花は再び立ち上がる勇気をもらった。

 二人は再び、山道を歩き始めた。傾き始めた日が、足元を黒く染める。その道のりは長く険しかった。しかし、二人は互いの手を強く握りしめ、決して離さなかった。伊吹の手の温かさが、雪花の凍える心を溶かしていくようだった。

「伊吹、ありがとう」

 雪花の小さな声が、木々の静寂に溶け込んだ。

「礼なんていいよ。一緒に、この山を抜け出そう」

 伊吹は雪花の頭を優しく撫でた。その温かさに、雪花は涙をこらえきれなかった。しかし、それは悲しみの涙ではなく、感謝と希望の涙だった。

 二人は、言葉はなくとも、心はしっかりと繋がっていた。この困難を乗り越え、再び幸せな日々を取り戻すことを信じて、二人は一歩ずつ、山を下り続けた。


 山道の闇が薄れ、視界が開けると、ぽつんと小さな集落が現れた。古びた木造の駅舎と、一本の線路が、寒村の寂しさを際立たせていた。

「あれは……駅?」

 雪花のつぶやきを聞き、伊吹は最後の力を振り絞り、駅へと走り出した。雪花も伊吹の手を握り、必死に後を追った。

 駅舎の時計は、終電まであと数分を刻んでいた。

「間に合った……」

 伊吹は息を切らしながら、雪花の肩を抱き寄せた。安堵と疲労が一気に押し寄せ、二人はその場にへたり込んだ。

「よかった……」

 雪花の頬を伝う涙は、恐怖と安堵、そして伊吹への感謝の気持ちで溢れていた。

「もう大丈夫だよ」

 伊吹は雪花の頭を優しく撫で、強く抱きしめた。

 二人はベンチに並んで座り、静かに電車を待った。遠くから聞こえる虫の声と、時折吹く風が、二人の心を落ち着かせた。暗闇の中、手を繋ぎ合う二人の姿は、まるで小さな灯火のようだった。この静かな時間が、二人にとって、どれほどの癒しとなったことだろう。


 轟々と音を立てて、暗闇の中から一台の電車が現れた。ヘッドライトの光が、二人の顔を一瞬照らし出す。それは、古びたディーゼル車両で、車体には無数の傷や汚れが目立った。

 電車が停車すると、軋む音を立ててドアが開いた。車内は無人だった。二人は一番後ろの車両に乗り込み、端っこの席に並んで座った。

 伊吹はそっと雪花の肩を抱き寄せた。

「怖かったね」

 伊吹の優しい言葉に、雪花は小さく頷いた。

「うん……」

 車窓には、通り過ぎる寒村の風景がぼんやりと映っていた。家々の明かりは少なく、闇に包まれた山々が不気味にそびえ立っていた。

 二人は黙って窓の外を眺めていた。言葉はなくても、互いの存在を感じ、心の安らぎを得ていた。恐怖と不安はまだ消え去ってはいなかったが、二人の間には、友情以上のものが芽生えかけていた。

 やがて、電車はゆっくりと動き出した。ガタゴトと揺れる車内で、二人は寄り添いながら、不安とわずかな希望を抱きつつ、夜の闇の中へと進んでいった。

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