第4話

 薄明かりのログハウス。伊吹と雪花は、身を寄せ合いソファに横たわっていた。昨日今日の恐怖と疲労が、二人の心を蝕んでいた。

「伊吹、私が先に見張るね。昨日はあんまり寝れなかったでしょ?」

 雪花は、伊吹の髪を優しく撫でながら、心配そうに語りかけた。伊吹は、雪花の優しさに甘えるように、小さく頷いた。

「ごめんね、雪花。ありがとう」

 二人は、最低限の荷物を持ち2階に移動する。

 伊吹は、雪花の頬に軽くキスをすると、目を閉じた。すぐに、規則正しい寝息が聞こえ始めた。雪花は、伊吹の寝顔を見つめながら、そっと微笑んだ。

「おやすみ、伊吹」

 雪花は、毛布を伊吹にかけてあげると、静かに立ち上がった。窓の外には、夜の帳が静かに降りていた。暗闇の中に浮かぶ木々のシルエットが、不気味な雰囲気を醸し出していた。

 雪花は、深く息を吸い込み、窓辺へと歩み寄った。手にした懐中電灯の光が、部屋の中を照らし出す。窓の外を警戒しながら、雪花は、伊吹の寝顔へと視線を戻した。

「私だって伊吹を守るんだから。安心して眠ってね」

 雪花の瞳には、伊吹を守るという強い決意が宿っていた。


 静寂が支配するログハウス。雪花の意識は、いつしか微睡みの中に落ちていた。しかし、次の瞬間、かすかな物音がその静寂を破った。それは、床板がきしむ音にも似た、鈍く低い音。

「っ!」

 雪花は、反射的に息を呑んだ。心臓が激しく鼓動し、全身に鳥肌が立った。恐怖が、再び彼女を襲う。伊吹を起こすべきか、それとも一人で確認すべきか。一瞬の葛藤の後、雪花は決意を固めた。

 彼女は、静かに立ち上がり、二階の吹き抜けへと向かった。身を乗り出し、リビングを見下ろす。薄明かりの中、家具や調度品が不気味な影を落とし、静寂を増幅させている。息を殺し、耳を澄ます。しかし、物音は聞こえない。

「気のせい?」

 そう思いかけた瞬間、再び音が聞こえた。今度は、より近く、より鮮明に。それは、確かにリビングから聞こえてくる音だった。


 薄闇に包まれたリビングの中、異様なシルエットが浮かび上がる。それは、人間の背丈をはるかに超える、巨大な鬼のような生き物だった。全身を覆う黒く粗い毛、頭に生えた二本の禍々しい角、そして、闇夜に爛々と輝く赤い目。

 それは、人間とはかけ離れた異形の存在でありながら、奇妙なほど人間的な動きをしていた。荒々しい手つきで棚を漁り、引き出しを乱暴に開け閉めする。まるで、この家の主であるかのように振る舞っていた。

 雪花の心臓は、恐怖で凍りつきそうだった。息をするのも忘れ、ただただその異形の存在を見つめることしかできなかった。鬼の目は、獲物を探すかのように部屋中をくまなく見回し、やがて、雪花のいる吹き抜けへと向けられた。

 一瞬、目が合った気がした。

 しかし、鬼は吹き抜けから目を離すと、再びのリビングの物色を始めた。


 吹き抜けにはとてもいられず、寝室に戻ると、寝室のドアを背に、雪花は全身を硬直させた。恐怖で声も出せない。開いた口から悲鳴が漏れそうになるのを、必死に手で押さえた。鬼に見つかったら、どうなるか。想像するだけで、全身が震え、脂汗が噴き出す。

 心臓の鼓動が耳元で轟く。息をするのも苦しい。鬼の足音、物色する音、何かを壊す音。一つ一つの音が、雪花の恐怖を増幅させる。

「お願い、気づかないで……」

 雪花は心の中で祈った。息を殺し、壁に身を寄せ、鬼が立ち去るのをじっと待った。恐怖と不安で、時間は永遠のように長く感じられた。


 鬼の足音が遠ざかり、静寂が戻った。雪花は震える手でそっとドアを開け、吹き抜けからリビングを覗き込む。鬼の姿はもうない。

「伊吹、起きて!」

 雪花はベッドに駆け寄り、伊吹を揺り起こした。

「見たの、鬼みたいなのがいたの! もうここにはいられない、早く逃げよう!」

 伊吹は飛び起き、雪花の怯えた表情を見て状況を理解した。二人は言葉もなく、最低限の荷物だけを掴み、玄関へと急いだ。

「こっち!」

 伊吹は雪花の小さな手を引き、闇の中へと走り出した。心拍数が上がり、息が荒くなる。後ろから追いかけてくる気配はないが、恐怖感が全身を支配する。

「大丈夫、雪花。私が守るから」

 伊吹は震える雪花の肩を抱き寄せ、力強く言った。しかし、この真夜中の逃走が正しい選択なのか、二人にはわからなかった。それでも、あの恐ろしい鬼と再び対峙する恐怖に比べれば、どんな危険も取る価値があると思えた。

 闇の中、二人の足音だけが響く。一刻も早く、この場所から、あの恐怖から、逃れたい。ただそれだけを願い、二人は走り続けた。


 月明かりも届かない深い森の中、伊吹と雪花は闇雲に走り続けた。恐怖が二人の背中を押し、足を前に進ませる。息が切れ、肺が悲鳴を上げる。しかし、立ち止まることは許されない。

「大丈夫、雪花! もう少し!」

 伊吹は、転びそうになる雪花の手を強く握りしめる。木の根や石につまづき、何度も転びそうになる。それでも、二人は決して立ち止まらなかった。

「伊吹、足が……痛い……」

 雪花の弱々しい声が、伊吹の心を締め付ける。それでも、立ち止まるわけにはいかない。

「もう少しだけ、雪花。もう少しだけ頑張ろう」

 伊吹は、雪花の肩を支えながら、必死に前へと進んだ。二人の足音と荒い呼吸だけが、静寂を破る。暗闇の中、二人の姿は、まるで逃げる獲物のように見えた。

 傷だらけになりながらも、二人は走り続けた。


 夜明け前の薄明かりの中、二人はついに車道に出た。疲労困憊の体を引きずり、舗装された道路にへたり込む。

「伊吹……もう歩けない……」

 雪花の弱々しい声が、夜風に消えていく。伊吹も、限界を感じていた。恐怖と疲労で、意識が朦朧としてくる。

 その時、遠くからヘッドライトの光が近づいてきた。二人は最後の力を振り絞り、必死に手を振った。

「助けて!」

 雪花の叫び声が、静寂を破った。車は二人の前で止まり、運転席から中年の男性が降りてきた。男性は、二人の傷だらけの姿を見て、驚いた表情を浮かべた。

「どうしたんだ? こんな時間に……」

 伊吹は、鬼に襲われたこと、ログハウスから逃げ出したこと、そして助けを求めていることを、息を切らしながら説明した。男性は、真剣な表情で話を聞き、静かに頷いた。

「わかった。乗れ。近くの街まで送って行くよ」

 男性の言葉に、二人は安堵の涙を流した。車に乗り込み、男性の優しい笑顔に包まれながら、二人は深い眠りに落ちていった。


 車の揺れが心地よく、伊吹と雪花は身を寄せ合って眠っていた。伊吹の腕の中で、雪花の寝息は穏やかだ。伊吹は、雪花の髪に顔を埋め、幸せを噛み締めていた。

「何だあれは!」

 男性の叫び声と急ブレーキの音で、二人は目を覚ました。フロントガラスの向こうには、あの鬼が不気味な笑みを浮かべ、立ちはだかっていた。

「きゃああああ!」

 雪花は叫び声を上げ、伊吹に抱きついた。車は激しく横転し、二人は車内で激しく投げ出された。

「雪花!」

 伊吹は、雪花の身を案じて名前を叫んだが、意識は闇の中へと落ちていった。


 朝日に照らされて、二人はゆっくりと意識を取り戻した。視界がはっきりするにつれ、見慣れない天井が目に入った。横転した車の天井だ。

「痛っ……」

 呻く声に、伊吹は隣を見ると、そこには雪花がいた。伊吹は反射的に雪花を抱き寄せた。

「雪花、大丈夫!? 怪我はない?」

 伊吹の切実な声に、雪花もゆっくりと伊吹を抱き返した。

「伊吹……よかった、生きてた……」

 雪花の声は震えていた。安堵と恐怖が入り混じった感情が、その瞳に浮かんでいた。伊吹は雪花の顔を覗き込み、その細い肩を優しく撫でた。

「怖かったね。私も、雪花が隣にいてくれてよかった」

 雪花は伊吹の胸に顔を埋めた。伊吹の温かさと鼓動を感じながら、雪花の心は少しずつ落ち着きを取り戻していった。しかし、二人を包む静寂は、この状況がまだ安全ではないことを物語っていた。

「運転手さん……?」

 雪花の小さな声が、車内に虚しく響いた。二人は顔を見合わせ、暗黙の了解で車外に出ることにした。


 ギシリ。

 錆びついたドアが悲鳴を上げるように開いた。伊吹は意を決して車外へ出た。朝の光が差し込む山道は、一見すると穏やかで、鳥のさえずりが聞こえてくるほどだった。しかし、その静けさの中に、不気味な違和感があった。

 伊吹に続いて雪花も車から降りた。二人は無言で顔を見合わせ、視線を足元へと落とした。そこには、まるで何か重いもの……例えば人を引きずったような跡が、土を削り、草をなぎ倒すように続いていた。

「これは……」

 伊吹の声は、恐怖でかすれていた。雪花の顔は、血の気が引いたように青白く、その瞳は引きずった跡の先を見つめていた。まるで、その先に何か恐ろしいものが待ち受けているかのように。

 二人は、この状況を理解しようとしていた。これは、昨夜、二人を襲った鬼の仕業なのか?あの恐ろしい形相、人間とは思えない力……思い出しただけで、背筋が凍るようだった。

 しかし、それを確かめる勇気はなかった。引きずった跡の先には、深い森が広がっている。その暗闇の中に、一体何が潜んでいるのか、想像するだけで足がすくんだ。

 伊吹は震える手で雪花の腕を掴んだ。雪花もまた、伊吹の手にしがみついた。二人は、恐怖を共有することで、かろうじて正気を保っていた。

「逃げよう……」

 伊吹は絞り出すように言った。雪花は力なく頷いた。二人は、引きずった跡とは反対の方向へと、走り出した。朝の光が、二人の背中を無情にも照らし出していた。

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