第3話
夜明け前の薄暗い空の下、伊吹と雪花は恐怖で震えながらも、互いに寄り添い、この場所から逃れる決意を固めた。
「雪花、大丈夫?」
伊吹は雪花の肩に手を回し、優しく声をかけた。
「うん……でも、早くここから出ないと……」
雪花の小さな声は、不安と恐怖で震えていた。二人は急いで必要なものをかき集め、玄関へと向かった。しかし、ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に、二人は言葉を失った。
「嘘……嘘だと言ってよ、伊吹……」
雪花の瞳には、絶望の涙が浮かんでいた。彼女たちの車は、まるで何者かに襲われたかのように、無残な姿に変わり果てていた。パンクしたタイヤ、粉々に割れたフロントガラス……
「一体誰が……なんでこんなことを……」
大切な愛車を破壊された伊吹は拳を握りしめ、怒りを抑えきれない様子だった。しかし、今は怒っている場合ではない。
「とりあえず、ここから離れよう。電波が入るところまで行けば……」
伊吹はそう言いながら、携帯電話を取り出した。しかし、一本も電波は立っていない。
「うそ……電波も入らないなんて……」
雪花の顔から血の気が引いた。
「落ち着いて、雪花。大丈夫、きっと……」
伊吹は雪花の震える手を強く握りしめた。しかし、二人の心には、深い絶望と孤独感が広がっていた。二人きりで、この見知らぬ山奥で、一体どうすればいいのか。その答えを二人は持っていなかった。
「どうしよう、伊吹……」
雪花の小さな手が、伊吹の服をぎゅっと掴んだ。その力強さに、伊吹は我に返った。
「落ち着いて、雪花。大丈夫。」
伊吹は雪花の肩を抱き寄せ、優しく髪を撫でた。
「大丈夫。今、私たちには二つの選択肢があると思うの」
伊吹は雪花の目を見つめ、強いまなざしで語りかけた。
「ここで助けを待つのか、それとも歩いて人里まで行くのかの二つ。どっちを選ぶ?」
選択肢は二つ。しかし、どちらも容易ではない。ここで助けを待てば、いつ助けが来るかもわからない。食料も限られている。そして、昨晩の「やつ」がまた来るかもしれない。
一方、歩いて人里まで行くとなれば、結構な距離を歩くことになる。普段から山歩きに慣れてる伊吹ならともかく、インドア派で靴も山歩きに不向きな雪花が心配だった。それに、危険な野生動物と遭遇する可能性もある。携帯電話も繋がらないこの状況では、道に迷えば命取りになりかねない。
二人は選択を迫られていた。恐怖と不安が渦巻く中で、二人は互いの手を握りしめ、決断の時を待った。
ログハウスの窓から差し込む朝日が、二人の顔に影を落とす。伊吹と雪花は、残されたわずかな食料と水をリュックサックに詰め込み、固く手を握り合った。互いの瞳には、不安と決意が入り混じっていた。
「行こう、雪花」
伊吹の声は、少し震えていた。それでも、その目は力強く、雪花を安心させるには十分だった。雪花は小さく頷き、伊吹の手を握り返した。二人は、深呼吸を一つして、ログハウスを後にした。
玄関のドアを閉める音は、まるで永遠の別れを告げるかのように重く響いた。振り返ると、無残な姿に変わり果てた車が、まるで警告のようにそこに佇んでいた。
二人は、県道へ続く細い山道を歩き始めた。木々の間から差し込む日光が、二人の行く手を照らす。鳥のさえずりが、不気味な静けさを打ち破り、二人の心をわずかに和ませた。
「伊吹、大丈夫?」
雪花の問いかけに、伊吹は笑顔で答えた。
「大丈夫だよ、雪花。一緒なら、きっと乗り越えられる」
伊吹の言葉に、雪花は安心したように微笑んだ。二人は、互いの手を握りしめ、一歩一歩、山道を進んでいった。
足元には、落ち葉や小枝が積もり、歩くたびにカサカサと音を立てる。周囲の木々からは、時折、小動物が顔を出す。 その度に、二人は警戒心を高め、互いに身を寄せ合った。
不安は尽きなかった。食料は限られているし、水もいつまでもつかわからない。携帯電話も繋がらず、助けを求めることもできない。それでも、二人は互いの存在を信じ、前へと進んだ。
ログハウスに入る山道の入り口に立った二人は、深く息を吸い込んだ。目の前に広がるのは、木々が鬱蒼と生い茂る、薄暗い山道と、舗装された県道。
「山道は危ないかもしれない。車道の方が安全だと思う」
伊吹の言葉に、雪花は静かに頷いた。二人は、険しい山道ではなく、緩やかに続く舗装された車道へと足を向けた。陽光が差し込む開けた道は、山道に比べて安心感を与えた。
「伊吹、ありがとう。いつも冷静で頼りになるね」
雪花の言葉に、伊吹は少し照れくさそうに笑った。
「そんなことないよ。雪花だって、いつも私を支えてくれてるじゃない」
二人は手を繋ぎ、ゆっくりと歩き始めた。車道は長く、先が見えない。それでも、二人は互いの存在を確かめ合いながら、一歩ずつ前に進んでいった。時折、風が二人の髪を撫で、木々の葉がさらさらと音を立てる。自然の音だけが、二人の鼓動と足音を優しく包み込んだ。
「雪花、疲れたら言ってね。少し休もうか?」
伊吹の優しい言葉に、雪花は心から感謝した。
「ありがとう、伊吹。でも、もう少し頑張れそうだよ」
二人は、励まし合いながら、長い道のりを歩み続けた。道の先には、どんな未来が待っているのか。不安は尽きなかったが、それでも、二人は互いの手を離さなかった。
舗装された道は、どこまでも続いているようだった。陽光が容赦なく照りつけ、10月も半ばだというのに、二人は額に汗を浮かべながらも、手を繋いで歩き続けた。しかし、伊吹の心には、拭いきれない不安が広がっていた。
「あれ? おかしいよ、雪花。もう4時間も歩いているのに、全然着かない」
伊吹の声に、雪花の足が止まった。不安そうな表情で、伊吹を見つめる。
「そう言えば、おかしいわね。こんなに歩くなんて聞いてないわ……」
雪花は、伊吹の言葉を反芻するように呟いた。地図も持たずに出てきた二人は、距離感や方向感覚が曖昧だった。
「まさか、道に迷った?」
伊吹の言葉に、雪花の顔が青ざめた。道に迷ったという事実は、二人の不安を一気に増幅させた。見慣れない景色、迫りくる夕暮れ。周囲は静寂に包まれ、鳥のさえずりさえも聞こえない。
「伊吹、どうしよう……」
雪花の瞳には、涙が浮かんでいた。伊吹は、雪花の震える手を優しく握りしめた。
「大丈夫、雪花。きっと大丈夫。落ち着いて、一緒に考えよう」
伊吹は、雪花の目を見つめ、力強く言った。二人の視線が交差し、不安と恐怖が入り混じった感情が、互いの瞳に映し出される。それでも、二人は互いの手を離さなかった。それは、不安な状況下でも、決して一人ではないという、確かな証だった。
太陽は容赦なく西の地平線へと沈みはじめ、辺りは刻一刻と闇に包まれようとしていた。木々の影が長く伸び、不気味な雰囲気を醸し出す。伊吹と雪花は、道端の岩に腰を下ろし、不安げに空を見上げていた。
「どうしよう、伊吹。もう暗くなるよ」
雪花の震える声が、伊吹の心を締め付ける。彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。伊吹は、雪花の肩を抱き寄せ、優しく髪を撫でた。
「大丈夫、雪花。きっと大丈夫」
口ではそう言いながらも、伊吹の心は揺れていた。このまま進むべきか、それとも引き返すべきか。どちらも、危険と隣り合わせだった。
「伊吹、怖いよ。お家に帰りたい……」
雪花の言葉には、ただの弱音だけではない切迫感があった。もともと体力のない雪花は、半ば無理をしてついて来ていた。疲れ切っていることは、言葉の弱々しさからも伝わってきた。伊吹はそんな彼女を見て、守りたいと改めて感じた。
伊吹は立ち上がり、雪花の荷物を持ってあげた。今できる、せめてもの優しさはそれだと考えていた。
二人は、来た道を引き返すことにした。夕闇の中、二人の影が長く伸びる。辺りは静寂に包まれ、時折、風の音が木々を揺らす。
「伊吹、ありがとう。いつも私を守ってくれて」
雪花の言葉に、伊吹は微笑んだ。
「当たり前だよ、雪花。私は、雪花のことが大切だから」
二人は手を繋ぎ、ゆっくりと歩き始めた。不安は尽きなかったが、それでも、二人は互いの存在を頼りに、暗闇の中を進んでいった。
「伊吹、もしも、私たちが遭難しちゃったら……」
雪花の言葉が途切れた。
「そんなこと、絶対にないよ。私は、雪花を絶対に守るから」
伊吹は、雪花の冷たい手を握りしめ、力強く言った。二人の心は、暗闇の中で強く結びついていた。
夕闇の中、二人は来た道を引き返し始めた。足取りは重く、不安が胸を締め付けた。しかし、不思議なことに、景色はあっという間に見覚えのあるものへと変わっていった。
「あれ、伊吹? この木、さっきも見たような……」
雪花の言葉に、伊吹もハッとした。確かに、この特徴的な形の岩、あの曲がった木。すべてが、ほんの数時間前に見た景色だった。
そして、二人の目の前に、ログハウスの明かりが浮かび上がった。
「もう着いたの?」
雪花の驚きと安堵の声が、夜の静寂に響いた。行きは4時間もかかった道のり。それが、帰りはわずか1時間ほどで到着してしまったのだ。
二人は顔を見合わせ、言葉もなくログハウスの中へと入った。慌ててたせいでつけっぱなしで行った暖炉の火はまだ燃えており、部屋はほんのりと温かかった。まるで、二人が出て行った時と何も変わっていないかのように。
「夢だったのかな……」
雪花は、ソファに腰を下ろし、呟いた。伊吹も、雪花の隣に座り、彼女の肩を抱き寄せた。
「わからないけど、とりあえず、無事に帰って来られてよかった……」
伊吹は、雪花の髪を優しく撫でた。恐怖と安堵が入り混じった複雑な感情が、二人の心を満たしていた。
「伊吹……」
雪花は、伊吹の胸に顔を埋めた。伊吹は、雪花の髪に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。雪花の香りが、伊吹を落ち着かせる。二人の鼓動が、静かな夜の闇に溶けていく。
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