デッサン(1h30m)

紫鳥コウ

デッサン(1h30m)

 かごから身を乗り出す蛇のように、バケツとホースが布置されていて、びんに巻き付こうとしている。この三点を正確にデッサンするのが、今日の課題だった。四人一組でモチーフを囲む。光の加減は四者四様だ。海村うみむらさんと僕とでは、影の落ち方が全然違う。

「おい横山よこやま。海村さんはモチーフじゃないぞ」

 たまたま後ろを通った那須野なすのが耳元でささやいてきた。いつの間にか、空き瓶の斜め上のところに海村さんの顔を描いていた。消すのがもったいなくて、眼鏡に前髪のかかっているところを直し、輪郭りんかくを整えていく。

 バケツは立体的にならなかったし、ホースが形作る複雑な影も、電灯に照らされて白光りする瓶の表面も、なんらうまく表現できず、右上には、急いで消した海村さんの面影おもかげがごくうっすらと残っている。

 このままでは、デッサンの単位は危ないかもしれない。


 なぜ、アートクラスを選んだのかといえば、ぼんやりと芸術家になりたいと思ったからだ。芸大か美大へ進学をするのか、どのように生計を立てていくのか、なにより、どんな絵を描きたいのか……そんなことは考えていなかった。

 高校生にもなって、ただ「かっこいい」という理由からコース選択をしたのは間違いだった。三年生になったいま、四大の文学部を目指して必死に受験勉強をしている。

 しかしアートクラスは、受験に必要な科目が、絵画やデッサンの授業に置き換わっており、ほとんど独学で頑張らなければならず、しかも、卒業製作を提出しなければ留年してしまうのだ。

 図書室は六時に閉まるので、門限までの残り一時間は、教室で勉強をしている。参考書をめくり問題集を解き、分からないところを先生にきに行く。ひとり寂しく家路いえじについて、深夜まで勉強をして……早朝から図書室で自習をする。

 勉強、勉強、勉強……たまに卒業製作、という高校生活のなかで、唯一の楽しみなのは、デッサンの授業のときに一緒になる、デザインクラスの海村さんの姿をおがむことだけだ。

 クラスも違う。選択している授業もかぶっているのは「デッサン」だけ。だからだろうか。海村さんの良いところばかりが目に入り、たまらなく好きになってしまうのは。そして、想像の余地がたくさんあるからこそ、妄想がふくらんでいくのかもしれない。

(直角三角形に内接する円の半径……ええと、どうやるんだっけ)

 これはもう、一浪が確定するかもしれない。塾に通わせてもらって、普通科のひとたちと同じスタートラインに立たないと、ムリなんじゃないか。

「それはね、こうやって解くんだと思うよ」

 突然、上から吹き込んできた女の子の声に、ビクッとなった。おそるおそる顔をあげると、そこには――海村さんがいた。

「お疲れ様」

 えっと……なんでいらっしゃるのですか。ここはアートクラスの教室なのですが。デザインクラスは下の階のはずでは。というか、ほとんど接点のない僕なんかに何の用があるんですか。

 そういう疑問が、ミキサーに入れられて、かき混ぜられはじめたところで、海村さんはくすくすと笑って、「これ、天道てんどう先生が渡してくれって」と一枚のプリントを差しだしてきた。どうやら、メッセンジャーの役割らしい。

 プリントを受けとると、それはデッサンの補習をしらせるものであり、夏休みに五日間、美術室に拘束されることになるらしい。

「横山くんって、四大に進むの?」

「うん、そのつもり……です」

 まったくと言っていいほど話さない、プラス憧れのひとということで、タメ口をたしなめて、敬語を使うようにいてくる、もうひとつの理性が働いた。

「アートクラスだから、いろいろ苦労しない? 授業も美術寄りだし」

 海村さんは、バンバンタメ口で話しかけてくる。なんでこんなに親しそうな感じを出しているのだろう。

「そうなんですよ。でも、どうしても学びたいことがあって」

 それは、ウソだ。学びたいことなんてない。あるのは、取りあえず大学に行こうという漠然とした理由だけだ。いままで、なんの意志もなく、適当に生きてきている。

「そっか」

 海村さんは眼鏡を外して、レンズをくのかと思いきや……僕の口をふさいできた。その厚い唇で、情熱的に。決してすぐには放してくれなかった。味わうように、唇を押しつけてくる。

「ご褒美」

 呆然ぼうぜんとしている僕に構わず、海村さんは教室を出て行ってしまった。これ以降、卒業式の日まで、彼女と話すことは一度もなかった。もう、あのキスは、夢なのではないかと思っている。


 卒業式の日。僕の下駄箱げたばこに手紙が入っていた。まだ夢の中なのかと思った。後ろに書かれていた名前を見て、通学路において、現実では有り得ないことが起こっていなかったかを精査した。ほおを叩いた。どうやら、夢ではないらしい。

 海村さんは、僕のことが好きだったのだと言った。デッサンの授業では、こっそり僕のことを描いていたという。いつ、どうして……そうした問いかけには、わからないとしか返されなかった。

「好きになったんじゃないよ。好きになってしまってたの。だから、どういうタイミングかなんて分からない。でもね、横山くんにお付き合いとかしている時間はないってことは知ってたから、我慢するしかなかった。我慢しているときも、好きだった」

 校舎裏。思いっきり海村さんを抱きしめてしまった。別々の進路。もう会うことはできないと知りすぎていたから。

 僕が外した眼鏡を、海村さんは受けとって、もう誰に見られてもいいからと、激しくキスをした。涙が流れていた。どちらのものなのかは分からなかった。いや、どちらも泣いているのかもしれない。


 なにかを学ぶときは、入門書から手をつける。だけど、一冊ではなくいくつか読んで、いろんな視点を得ることが大事だ。中身を見てから買いたいと思って、電車を乗り継ぎ、大型書店へと向かった。その途中、小さな画廊がろうを見つけた。

 横目で見ると、そこにいたのは、間違いなく彼女だった。掲げられていたのは、彼女の名前だった。

 不思議と、それに驚くことができなかった。ここで出会えたというのは偶然だ。しかし、美術の方面で大成していても、何もおかしくはない。

 小さい絵なら買うことができるかもしれない。ポケットに入っている財布さいふをさわる。

 しかしもう一度、歩き出す。ようやく、熱中したいと思うものが見つかった。いまから死に物狂いで勉強をして、大学院に入りたい。そしてその先は……と、僕の目の前には、具体的な未来が描かれている。

 冬のよく晴れた日は、雪が降ったときより寒く感じられる。なるべく日向ひなたを踏むようにして、書店を目指していく。



 〈了〉

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デッサン(1h30m) 紫鳥コウ @Smilitary

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