猫の冬
山本薩埵
猫の冬
このお話は、ねこにゃという、一匹の猫の物語です。
ねこにゃの最初の記憶は、小さなケージの中で、人間が行き交うのを見ていたところから始まります。
そこには色々な動物がいて、常におしゃべりな鳥や、たまに鳴く犬、ずっと寡黙な亀などがいたことを、ねこにゃは覚えています。
そこから、一人の人間に連れられて、あの住処に来たような、そんな記憶がありました。
あの住処では、ねこにゃは、何不自由なく生活していて、そんな日々が続くことを、ねこにゃは、漠然と想像していました。ねこにゃは、特に深く考えることもなく、ただ、受け取れるだけの幸せを、謳歌していたのです。
そんなある日、ねこにゃは、アスファルトの上をみぃみぃ歩いて、人間を探し続けていましたが、さっきまでねこにゃと一緒にいた人間は、もういませんでした。
ねこにゃは、人間を探すことをやめて、冷たい地面に座り込みました。
ねこにゃの頭の中は、人間のことよりも、お気に入りのぬいぐるみや、ふかふかの毛布のことでいっぱいでした。
ねこにゃは、暗くなるまでずっと公園で、ご飯を待っていました。ねこにゃは、今まで感じたことのない、強い空腹感に、憤りを覚えました。けれども、いつも決まった時間にもらえるご飯は、出てくる気配がないので、ねこにゃは、みぃみぃと訴え歩き回りました。
みぃみぃ、みぃみぃ鳴いている間にも、だんだんと日は傾いていき、これまで感じたことのないほど寒さは増し、ねこにゃは強い不安を覚えました。
ねこにゃは、お気に入りのぬいぐるみを思い浮かべて、風をしのげる木陰で身を休めました。
あの住処へ戻りたい。いつも一緒にいた人間は、どこへ行ってしまったのだろう。ねこにゃがなぜあの住処へ帰ることができなくなったか気づくのに、時間はかかりませんでした。
ねこにゃは、あの人間に捨てられたのです。ねこにゃはそのことを、ずっと思わないようにしていましたが、今事実を受け入れなければ、この先どうやっても、ねこにゃの未来はないようでした。ねこにゃはとても疲れた気分で、うとうととしていましたが、気がつくと、ねこにゃは眠っていました。
翌朝、ぽぽぽぽぽっとうるさい声で、ねこにゃが目を覚ますと、カラスがハトを追いかけて、つっついているところが見えました。何をやっているのか最初はわかりませんでしたが、どうやら、カラスがハトを食べようとしていることにねこにゃは気づきました。
ねこにゃは、ショックを受けました。この公園では、ご飯が決まった時間に与えられる仕組みではなく、自分で、命を奪って、ご飯を手に入れなくてはならなかったのです。
ねこにゃは、カラスの真似をして、ハトを捕食することにしました。けれども、ねこにゃがいくらハトを追いかけても、ハトはぎりぎりのところで、バサバサと羽ばたいて飛んでいってしまい、ねこにゃは、ご飯を食べることができませんでした。
ねこにゃは、ずっと飼い猫だったから今まで知りませんでしたが、ご飯を手に入れることは、難しく、ましてや経験もないねこにゃには、もっと難しいことだったのです。
ねこにゃは、トボトボ歩いていると、1個だけ木の実が転がっているのを見つけました。
ねこにゃは、そっと匂いをかぎ、ちょっといい匂いのする、小さな木の実を食べました。
ねこにゃがいつも食べていたおやつは、もっと旨味があって、脂があって、美味しくて大好きでしたが、この質素で、小さな木の実は、自分の力で見つけ出したその木の実は、今まで食べたどんなご飯よりも美味しく感じました。
ねこにゃは、この喜びをもう一度味わおうとして、この木の実を、もう一つ探すため、地面を見ては、立ち止まってを繰り返しました。
しばらくすると、人間たちが公園をうろうろとしだしたので、ねこにゃは、草陰でそっと知っている人間を探していました。
もしかしたら、捨てたことを後悔して、人間が迎えにくるかもしれない。その望みはまだ消えていませんでした。
右から左へと知らない人がいき、左から右へとまた知らない人が歩いていくので、ねこにゃは、右から左、左から右へと首を動かしていました。
ねこにゃは、また一つ事実を受け入れるほかありませんでした。人間は、もう来ないのです。ねこにゃには、もう興味がなくなっていて、捨ててしまって、それで終わりなのです。
ねこにゃは、考えれば考えるほど、とてもお腹が空いたので、また木陰でうとうとしはじめました。
ねこにゃには、この木陰が、昨日と同じ木の下かどうかすら分かりませんでした。
ねこにゃは、ここに来る前の日々を思い出しました。好きなおもちゃに、好きなぬいぐるみに、好きな毛布に、好きなおやつに、ねこにゃが人間から受けた愛は、本物でした。だからこそ、ねこにゃは、自分がどうして捨てられたのか、全く分かりませんでした。
次の日の朝も、ねこにゃは、みぃみぃ、みぃみぃと、木の実を探し続けました。
するとねこにゃは、広場の真ん中に、やっと一つの木の実を見つけました。
その時、みぃみぃ、みぃみぃと、もう一匹の猫が、広場の反対側から、木の実をめがけて、やってきたのです。
その猫を、にゃんこにゃといいます。
ねこにゃとにゃんこにゃは、木の実を挟んで対峙し、みぃみぃ、みぃみぃと牽制し合いました。
長い事、二匹は、木の実を前に牽制し合ってましたが、疲れてしまって、とうとう二匹は、その場で眠ってしまいました。
二匹の猫が目を覚ますと、木の実はもうなくなっていましたが、ねこにゃとにゃんこにゃは、一番大切なものを手に入れました。
それは「友達」でした。
ねこにゃが歩くと、にゃんこにゃがついてくるので、ねこにゃはにゃんこにゃと一緒にいることにしました。
ねこにゃとにゃんこにゃは、公園を出て、ご飯を探す決意をしました。ねこにゃとにゃんこにゃは、一緒なら、どんな所へでも行けると思ったからです。
もう、ねこにゃとにゃんこにゃは、冷たいアスファルトに怯えることはなくなり、二匹は、どんどんと歩いて行きました。
ねこにゃとにゃんこにゃは、門をくぐり、どこかの庭にやってきました。
その庭で、にゃんこにゃは、ミミズを見つけると、半分だけを食べて、残り半分をねこにゃにあげました。
にゃんこにゃは、お腹が空くことよりも、友達を失うことのほうが、怖いことだと知っていたのです。
二匹は、みぃみぃと喜んで、この先にある、どこへでも行ける未来を、思い描きました。どこへ行っても、喜びも、苦しみも、二匹で分け合っていく未来を思い描きました。
二匹は、この喜びをもう一度味わいたいと思い、再びご飯を探すのでした。
隣の庭に行っても、また隣の庭に行っても、なかなかご飯は見つかりませんでしたが、二匹は諦めることなくどんどんと進んでいきました。
ねこにゃとにゃんこにゃは、低木のトンネルを抜けると、大きな犬にで出会いました。
二匹を見るなり、大きな犬は大きな声で吠えて、ねこにゃとにゃんこにゃを驚かしました。
それでも、ねこにゃとにゃんこにゃは、大きな声に怖くなっても、我先に逃げることは、ありませんでした。
ねこにゃとにゃんこにゃは、大きな犬が吠えるのをやめるまで、そこにいました。二匹は、互いに勇気を与えあったのです。
ねこにゃとにゃんこにゃは、勇気の先にある未来を思い描きました。ねこにゃとにゃんこにゃの通る道を、邪魔するものは、もうないかのように、全ては二匹の捨て猫のためにあるかのように感じました。
その日の終わりに、ねこにゃとにゃんこにゃは、川の堤防で、向こうに沈んでゆく夕日を見ました。
二匹の猫はぴったりとくっつき、一つになった影法師が、後ろに、後ろに長く伸びていきました。
その晩、ねこにゃとにゃんこにゃは、同じ夢を見ました。猫の神様が、ねこにゃの手と、にゃんこにゃの手を、七色の糸で結びました。ねこにゃとにゃんこにゃは、みぃみぃと喜びました。空には虹がかかり、二匹を祝福しましたが、猫の神様は泣いていました。
ねこにゃが目を覚ますと、にゃんこにゃは隣にいませんでした。にゃんこにゃは、川の近くで、朝日が水面にきらめくのを眺めていました。
ねこにゃは、にゃんこにゃの隣へと歩いていき、しばらく、ねこにゃとにゃんこにゃは、川を水が流れていくのを、眺めているのでした。
ねこにゃとにゃんこにゃは、強い喜びと、強い苦しみとの間に挟まれていました。ねこにゃも、にゃんこにゃも、もうお腹が空かないのです。
二匹は、最高の友達を手に入れました。これは、飼い猫が、何年長く生きても、絶対に手に入れることのできない宝物でした。
ねこにゃとにゃんこにゃは、覚悟を決めたのです。これからは、二匹で、他の何にも縛られることなく、自由に生きることにしました。これは、猫の神様がくれた翼でした。地図の知らないねこにゃとにゃんこにゃは、これから、どこへでも行くのです。
ねこにゃとにゃんこにゃは、川沿いを走りだし、冷たい風が二匹を打っても、二匹は止まることを知りませんでした。
二匹が行く先には、色々なものがありました。まず二匹は、建物の陰で、老いた犬に会いました。
老いた犬は、もう目が開かないし、立ち上がることもできないのですが、二匹の匂いに出会うと、少し微笑みました。ねこにゃとにゃんこにゃは、老いた犬の背中にそっと触れました。
老いた犬は、長らく微笑んでいましたが、ある時から真顔になって、そっけなく二匹を次の場所へと向かわせました。ねこにゃとにゃんこにゃは、それが本心でないことを知っていてもなお、従うことにしました。
二匹は建物の間を更に奥まで行くと、ゴミ捨て場に着きました。そこにはたくさんのゴミが透明なゴミ袋に入れられ、積み上げられていましたが、にゃんこにゃは、捨てられたゴミの前に行き、みぃみぃと鳴くのでした。
そこには、にゃんこにゃのお気に入りのおもちゃが、全部捨てられていましたので、にゃんこにゃは、袋を引っ掻いて、おもちゃを取り出しましたが、そのおもちゃを手にしても、にゃんこにゃの平穏な日常は、戻って来ませんでした。
ねこにゃはにゃんこにゃに寄り添い、一緒に次へ行くよう訴えかけたので、二匹は、過去を捨てて、次へと向かっていくのでした。ゴミ捨て場には散らかったおもちゃが残りましたが、二匹が振り返ってそれを見ることはありませんでした。
二匹は、アスファルトの道路を横断すると、二匹がたどり着いたのは、小さな林に囲まれた、小さな神社でした。風が吹くと、さらさらと木々が音を立てるので、ねこにゃもにゃんこにゃも、リラックスして、眠ってしまいました。
その夜、みぃみぃと声がして二匹が目を覚ますと、そこには猫の群れがあり、群れからボス猫が出てきて、二匹を優しく出迎えました。ねこにゃは、友達はにゃんこにゃだけだと思っていたのですが、たくさん友達ができたと思い、みぃみぃと喜んで交流しました。
しかしその後、ねこにゃは、にゃんこにゃが見当たらないことに気がつき、猫の群れをいくら探してもにゃんこにゃがいないので、ねこにゃはみぃみぃと走りだしました。
ねこにゃは、にゃんこにゃとはぐれてから初めて、気がつきました。それは、大勢の猫たちとは友達になれたとしても、友達はにゃんこにゃ一匹であるべきで、その他大勢と長く関わることは、一番大切な友達を失うということだったのです。
ねこにゃは、木の陰に一匹の猫を見つけ、急いで近づくと、その猫がにゃんこにゃであることがわかりました。
ねこにゃがにゃんこにゃのそばに座ると、にゃんこにゃは上を見上げるよう促しました。
ねこにゃが上を見ると、この木は、木の実の木で、たくさんの木の実がなっていましたが、一つとして、ねこにゃとにゃんこにゃが届くものはありませんでした。
あれだけ強い喜びと勇気を感じていたねこにゃとにゃんこにゃでしたが、今は、大勢の猫や、たくさんの木の実に会って、自分たちは一体何が特別なのかわからなくなり、二匹は自信をすっかり失ってしまいました。
ねこにゃとにゃんこにゃは、朝が来るまで星を眺めて、考えていました。この夜空の星の中にも、猫がたくさん住んでいて、それぞれが、それぞれの友達を見つけて、自分たちは特別だと思っているのだろう。猫が人間に捨てられるなんて、ありふれたことで、この苦しみは、ありふれたものなのだろう。捨てられた猫は、皆このように、いくら集っても覆らない孤独の中に死んでいくのだろう。
もう、この憂鬱は、どうすることもできないかのように、二匹を覆い、二匹は夜の寒さに震えていました。
翌日、昨日とは一転して、空を雲が覆い、鈍い光が天からさしこんでいたので、ねこにゃとにゃんこにゃは、空を見上げ、もくもくとした雲が流れていくのを見ていました。
ねこにゃとにゃんこにゃは、足を止めたっきり、動くことはありませんでした。しかし、空から、白い粒がたくさん降ってきて、ねこにゃとにゃんこにゃは、不思議な粒に首をかしげました。
その白い粒が、あまりにも冷たかったため、ねこにゃとにゃんこにゃは、再び歩き出しました。
どれだけ平凡な生命でも、特別だったと思えるその日が来るまで、戦わなくてはならないのです。ねこにゃとにゃんこにゃは、その命を特別と成すための時間が、多くは残されてないことを、冷たい雪の粒たちから知りました。
ねこにゃとにゃんこにゃは、互いに見つめあい、必ず、最後まで一緒にいると誓いました。ねこにゃとにゃんこにゃは、雪の降る中、どことも知らずに、走りだしました。
雪は降り続け、冷たい雪はどんどん地面を覆っていきました。ねこにゃとにゃんこにゃは、あまりの寒さに、もうへとへとでした。
ねこにゃとにゃんこにゃは、互いに体をぎゅうぎゅう押しあいながら、雪の中を歩いていきました。ここは、ねこにゃとにゃんこにゃが出会った公園でしたが、二匹は、雪のせいで、そのことに気が付きませんでした。
広場の真ん中に、木の実が落ちていました。ねこにゃとにゃんこにゃは、木の実へと向かいましたが、途中で、にゃんこにゃが、座り込んで、動かなくなってしまいました。
ねこにゃは、にゃんこにゃを温めるため、体を何度も擦りました。目の前にある木の実を食べれば、ねこにゃはこの雪も生き残れると知っていましたが、にゃんこにゃを温めることをやめませんでした。
ねこにゃはだんだんゆっくりになり、ねこにゃとにゃんこにゃは、二匹寄り添ったまま、動かなくなりました。
二匹の生命は、これをもって、特別となりました。どこにでもいる二匹の捨て猫が、出会って、芽生えた友情は、奪い合ったり、群れたり、欺いたりする者には決して手に入れることのできない、特別な宝物だったのです。
雪が二匹を埋めてしまったときには、二匹の魂は、もうここにはありませんでした。
ねこにゃとにゃんこにゃは、猫だけが行く天国にいました。二匹は、もう飢えることも、寒さに怯えることも、なくなりました。
ねこにゃとにゃんこにゃは、この天国でも、一緒にいることを決めました。二匹は、もうおもちゃもぬいぐるみもいりません。ねこにゃとにゃんこにゃが、天国で欲しがったのは、たった一つの木の実でした。
ねこにゃとにゃんこにゃは、やっと、一つの木の実を、二匹で分け合って食べることができました。二匹は、それからずっと、一緒に、この天国で暮らしました。
猫の冬 山本薩埵 @ym_mt
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