Ⅵ
「あの日も、雨が降っていた――」
彼女は言った。
「あの日も、いつものように学校を休んで病院に行く予定だった。でも、近くの病院じゃあもう相手にしてもらえないからって、遠くの病院に行くことになった。車で行くのも大変だからって、その日は電車を使うことになったの」
――あの日は、素晴らしいほど酷い雨だった――
「雨で構内の床は水浸し。靴についた泥とか、傘から滴った雨水とかで、びちゃびちゃだった。いつも以上に滑りやすくなってたの。そんな中、あの人は病院の予約時間に間に合わせようと焦ってて、私の手を強引に引いてホームを降りようとした。エスカレーターは人がいるからって、階段を使ったの。この電車に間に合わないと、お医者さんに診てもらえなくなるよって、わけのわかんない脅しをされて、慌てて降りた。そのときね、運悪く、いや運良くなのかな、あの人は濡れた階段で滑った。ツルッて。落ちようとするとき、笑っちゃうほど間抜けな顔で、私の方を見た。彼女は私の腕を掴んだまま離さなかった。巻き添えにしようとしたの。どうせなら私も怪我させようって、そう思ったのかも。そうしたらあの人にとっても都合がいいわけだから。そのとき、いつも惰性で受け入れていたことに初めて、強い反発を覚えた。落ちてたまるかって思ったの。同時に、今がチャンスなんじゃないかって、そんな気がしたの。たった一瞬のうちに、私に美しい悪魔が舞い降りた」
ここで、終わりにしてしまえばいいんじゃないか。この人がいなくなりさえすれば。この人だけ、落ちてしまえば――私は救われる。だから、終わりにすることを選んだ。
「あの人の手を振り解いたの。強く掴まれた指を剥がし取って、勢いよく押した。あの人はバランスを崩して、頭から後ろに倒れた。身体が少しだけ宙に浮いて、それから階段をごろごろーって、転がり落ちていった。そしたら打ち所が良くってあっけなく」
彼女はからりと笑った。
「総て、雨のおかげなの。雨が私を救ってくれた。まさに恵みの雨だって思った。私をあの人から解放してくれたのだから。天は、私に恵みを与えてくれたの。あの人を殺して呪縛から解き放たれる、絶好のチャンスを――」
そうして、彼女は言った。
「だから、私は雨が好き」
いつか聞いたその台詞は、これまでとは違う重みをもって頭にのしかかる。
――だから、私は雨が好き――
*
「これでおしまい」
告白が終わり、彼女は深い息を吐いた。天気とは対照的に、彼女は晴れやかな顔をしていて、
「驚いた?」
と僕の顔を覗き込んで言った。どんな顔をしたらいいのか分からず狼狽える。あの頃のことが断片的に思い出される。白い肌。捨てていた薬。優しそうな母親。歪んだ顔。噛み合ってほしくないもの総てが、綺麗に当て嵌まって一つの形をなしていく。あの頃の僕からは見えなかったものが、明らかになった。僕が見ていたのは世界の断片に過ぎなかったのだ。僕はその事実にどう向き合えばいいのだろう。
「圭くんなら、私のことを総て受け入れてくれると思ったの」
それが人殺しの告白だとしても、なのか。僕は彼女に一体何を望まれているのだろうか。分からなかった。それに、こんな話を図書館の中でするなんて、聞かれていたらどうするんだ、と辺りを見回すが、いつの間にかちらほらと見えていた人はいなくなっていた。
「大丈夫。この階にいるのは私達だけだよ」
彼女が言う。
「さっきのことは、私たちだけの秘密」
そう言って人差し指を口に当てる。そのポーズがやけに艶かしく見え、僕は反射的に目を伏せた。僕らだけの、秘密。
――二人だけの秘密だね――
あの頃の彼女の声が耳の奥で甦る。あの頃のような興奮もまた、甦る。秘密を分かち合うことへの胸の高鳴り。恋をしていた僕は、ただそれだけのことにのぼせ上がった。それは今も変わらない。つまり僕は、彼女のことを――。ああ、どうして――。だが、この感情を抑えることは、きっともうできない。だって、僕はあの頃からずっと椎名瑞希に囚われているのだから。
ねぇ圭くん――彼女は囁いた。
「私だけを見ていて」
彼女の微笑み。
「私以外を見ないで」
その瞳に宿る、狂気。
彼女は背伸びをして僕の熱を奪った。
*
独りふらりと図書館を出た。彼女は少し読書をして帰るそうだ。僕は次の授業があったので先に抜けることにした。小雨がぽつりぽつりと降っていて、服に小さな水玉を作る。微熱に酔いながら、傘を差さずに歩いた。これくらい、へっちゃらだと思った。彼女の告白も、もうどうでもいいと思った。もう、いいじゃないか、それで。彼女が幸せなら。それが何だって――。そう嗤って水溜りを蹴り上げた。投げやりなわけじゃない。僕は総てを受け入れたのだ。そして、同時に総てを諦めた。妖しさと危うさを纏う、美しい椎名瑞希。彼女の呪縛に絡め取られ、囚われ続けてここまで来てしまったのだから。一生取り返しのつかないことに足を踏み入れたい。彼女の愛に溺れたい、そう思ってしまったのだ。
図書館を出た先にある花壇の前で、ふと立ち止まる。紫陽花の青が僕の眼を射抜いたのだ。鮮やかな狂気を纏う花。次第に花の輪郭がぼやけ、彼女の姿と重なってゆく。僕はこの美しい花に恵みを与える存在になりたい、そう思った。僕は神様にはなれない。でも僕自身が彼女の為になることなら、できる。与える、なんて烏滸がましい言い方だけれど、花が美しくあれるように、そのためならなんだってするつもりだ。その先が奈落だって、大丈夫な気がした。彼女のために、この身を捧げてもいい。擲ったってかまわない。貴女のためなら、狂える。僕は、貴女の恵みの雨になる――。
ペトリコールがひときわ強く香った。雨は当分、止みそうにない。
【了】
ペトリコール 見咲影弥 @shadow128
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