Ⅴ
どんな違和感も、どんな疑念も、総てこの雨が流し去ってくれるんじゃないかと期待していた。
だが、そういうわけにはいかないらしい。雨脚が強くなるにつれ、うっすら抱いた違和感は強固なものとなり、燻っていた疑念は一層濃くなる。それを一切合切明らかにしてしまう勇気はなかった。僕も、僕の世界を、信じてきたものを守りたかったから。でも、その信じたかった人が総てを明らかにするなら、したいと望むなら、僕はそれを受け入れる覚悟をするだろう。その先のことは、分からないけれど。
僕らは大学の図書館にやってきた。花壇に咲く単色の紫陽花たちを横目で見ながら、自動ドアの方へと向かった。学生証をかざすとゲートが開く。
「空きコマはたいてい四階で本読んでるの」
館内に入ると彼女は声を潜めて言う。その声があの頃と同じで、つい頬が緩む。
「僕がよく使うのは二階かな」
「それじゃあ本当にすれ違ってたのかも」
そう言って彼女は目を細めた。
今日は四階へ行くことになった。彼女の後を追い、本棚の中を通り抜ける。本特有の香ばしい匂いが鼻を掠める。この匂いがたまらなく好きだ。四階は文芸の本がメインで置かれていて、日本作家から海外作家まで幅広いレパートリーがある。
「昔はタイトルで選んでたんだよね」
彼女はそう呟き、一冊手に取ってパラパラとめくる。
「懐かしいー。これ昔読んでた」
そう言って僕に表紙を見せるが、覚えはない。彼女は僕の微妙な反応に顔をしかめる。それから他の棚からもう一冊取り出す。
「じゃあこれは?」
知らないタイトルだ。
「これも?」
また首を横に振る。
「全然趣味合わないじゃん」
彼女は諦めたみたいで首をすくめてみせた。。
「そもそも僕ら、読む本の系統が違った気がする」
ほんとだ、と彼女は笑う。彼女はもっぱらミステリー。僕はジャンルで分けるならヒューマンドラマ系。シリアスとほっこりというまったく逆のものが好みだった。そういえば、あの頃本については特に話した覚えがなかった。ただ彼女の読む本の表紙を見て、物騒だなと心のなかで思うくらいだった。
「なんで僕ら、仲良くなれたんだろう」
好きなジャンルがまったく違うという本好きが仲良くなるのに致命的な溝を埋めるだけの何かが、果たして僕らの間にあっただろうか。そこで彼女が口を開いた。
「あそこに、君と私の二人しかいなかったからだよ。ただそれだけ」
充分な理由でしょと彼女は笑った。確かに、と僕も笑う。
雨の日。図書館の隅っこ。蛍光灯の明かりの下。二人だけの、小さな世界。世界の、終わり――。
ねぇ、と僕は彼女に呼びかけた。
「君はどうして、いなくなったの」
何も告げずに、彼女は突然姿を消した。僕らの世界は何の予兆もなく、突然終わった。どうして、君はいなくなったのか。別れの一言もなかったことを責めたいわけじゃない。ただ純粋に理由を知りたかった。彼女は驚いたような顔をして僕を見た。それから、少し表情を翳らせて言った。
「お母さんが死んじゃったから」
衝撃の事実に言葉を失う。まさかそんな事が起きていたなんて。単なる好奇心で無遠慮に聞いたことを申し訳なく思った。ごめん、と言うと、彼女は謝ることじゃないよ、と笑った。
「私の方こそ、いろいろあってバタバタしちゃって、お別れする時間も作れなかった。君のことだから、きっと心配してくれてるんだろうなぁって思ってた。ごめんね」
今度は逆に彼女が謝るので、
「君こそ、謝ることじゃないよ」
と慌てて言った。確か彼女の親はシングルマザーだったはずだ。そんな母親が亡くなって彼女はさぞや辛かっただろう。だが、悲しむ時間も充分になく、引き取られる先が決まって家を引っ越すことになってしまった。彼女の心境を考えただけで胸が痛くなった。
そのときふと思った。彼女のお母さんはどうして亡くなったのだろう。僕は一度、お母さんと会ったことがあるのだ。彼女が転校した時期を考えると、それから三ヶ月も経たずに亡くなったことになる。あのとき見た彼女の母親は元気そうだったのに。何かがぞもりと胸のうちで蠢く。
「お母さんは、どうして……?」
聞くべきではないと思ったが、気になった。
「覚えてる?」
彼女は口を開いた。
「あの頃、私は病弱で、しょっちゅう病院に通ってたでしょ」
でもね、と彼女は続ける。
「本当に病気だったのはね、私じゃないんだよ。あの人のほうだったの」
そうか、彼女の母親は表面上はわからないような病を患っていたのか。その病のせいで……。一瞬納得しかけたが、待て、と立ち止まる。何かがおかしい。
病気だったのは、私じゃない――?
それは、一体どういう……。混乱する僕を尻目に、彼女は一歩奥へと進む。本棚の突き当たりには硝子窓があった。窓には横殴りの雨が打ち付けている。雨は硝子に叩きつけられ、弾け散る。彼女はしばしその様子に魅入られたかのようにうっとりと眺めていた。それから華麗に振り返って、今度は僕の瞳を捕らえた。無機質な蛍光灯が彼女の美しい顔を白く照らし出す。彼女は微笑んでいた。その微笑みとはかけ離れた、酷く冷たい声で、彼女は言った。
「だからね、私があの人を殺したの」
【続】
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