目を覚ますと、四方を薄緑のカーテンに囲まれたベッドの上にいた。上体を起こし恐る恐るカーテンを開くと、女性の姿があった。椎名ではないと分かり安堵する。彼女は僕に気づいた。

「あの、ここは」

保健センターですよ、と彼女は言った。ああ僕はそういえば目眩がして、あそこで……というところまで思い出し、僕はこの状況を理解した。

「貧血でしょうね」

と彼女は言った。

「朝ご飯、ちゃんと食べてないでしょう。一人暮らしだと抜きがちですけどね、食べておかないと」

と心当たりのあることを聞き、耳が痛くなる。そこで、椎名のことを思い出した。彼女がここまで連れてきてくれたのだろうか。

「お連れさんなら、まだ恐らく廊下にいらっしゃいますよ」

彼女の言葉に、どきりとする。お連れさん、というのは、椎名のことだ。椎名が、いる。僕はゆっくりとドアに手をかけて、引く。椎名は、廊下のベンチに座っていた。スマホを見ていた彼女は、気配に気づいたのか顔を上げる。

「圭くん!」

僕の名前を呼んだ。

「椎名、なのか?」

「逆に聞きたいんだけど、椎名じゃなかったら他に誰がいるの?」

彼女は少し不機嫌そうに言った。

「びっくりしたんだから。突然倒れちゃって。たまたま近くに医務室があったからよかったけど」

彼女の勢いの良い口調に驚きながらも、ありがとう、とひとまず礼を言う。それから、久しぶり、と続ける。

「なんか他人行儀だね」

と彼女は面食らったような顔をした。

「君がフランクすぎるんだよ。何年も会ってない人への接し方じゃない、っていうか、そんな感じの喋り方だったっけ」

この際思ってることを言ってやった。ひどーい、と彼女は嘘くさい言い方をする。話し方が年相応になったみたいだった。それから、昔より断然健康そうだった。肌は相変わらず白いが血色はよくて、なぜかホッとした。呪いだとかなんだとか、さっきまで恐れていたことが総て馬鹿みたいに思えてくる。

「あれから、七年経つんだね」

彼女がしみじみと言った。

「ねぇ」

どうして、僕だってすぐに気づいたの――何もかも誤魔化してしまえるうちに聞いておきたかった。彼女はあの頃みたいに笑って言った。

「忘れるわけないじゃん」


 *

 一時を過ぎると食堂のピークは過ぎて、人はまばらになっていた。僕の正面には彼女が座っている。流れで一緒に昼食を取ることになったのだ。彼女はビビンバとサラダを頼んでいた。僕はうどんとサラダ、普段はサラダなんか取らない。

「それにしても、圭くんも同じ大学だったなんて驚いた」

彼女はビビンバを器用に混ぜながら言う。

「僕もだよ。キャンパス一緒だったんだね。学部違うから全然接点なかったけど」

もしかしたらこれまでもどこかですれ違ってたりして、と冗談めかして言った。彼女はふふっと微笑んで、ビビンバを口に運んだ。僕もうどんを啜る。下手な真似をしないよう、慎重を期す。

「この大学ってことは、下宿?」

彼女が聞いてきたので、僕はうどんを噛み切る前にこくりと頷く。やっぱりそっか、そうなるよね、と彼女はひとりで納得する。それから

「じゃあ今度遊びに行っちゃおっかな」

と唐突に言ったので、うどんを鼻から出しそうになった。むせる僕を尻目に、彼女は

「独り暮らしってどんな感じなのか、興味あるし」

と言ってビビンバをつつく。とても女子を、それも僕にとって特別な存在である彼女を招くことができるような部屋じゃない。というか、異性を部屋に招くというのは、それはもう、そういう関係だぞ、などと突っ込みたくなるのを抑え、僕は平静を装い、彼女に聞く。

「椎名は実家、この辺なの」

彼女の言葉からして、実家通いなのではないかと思った。

「うん、まぁそんなとこ。おじさんちがこの近くにあるの。そこから電車で」

予想通り。私も独り暮らししたいなーと彼女は背もたれにもたれかかってぼやいた。そんな彼女に先輩ぶって大変さを説く。

「楽しいのは最初のうちだけだよ、飯も洗濯も全部自分でやらないといけないんだから。今に親がいる生活が恋しくなるさ」

そのとき、一瞬、彼女の顔が歪んだ。ぐにゃりと。どこか見覚えのある表情だった。だが、それも本当に一瞬のことで彼女はすぐに、えぇそんなにー、と嘘くさいリアクションを取った。

 一体どうしたというのだ、胸がざわつく。なぜか、嫌な予感がする。あの顔に僕は酷く既視感を覚えた。それがどこでだったかはよく思い出せない。ただ、何かよくないシグナルであるということだけははっきりしていた。僕は、彼女の何に触れようとしているのだ。それが分からないから、気持ち悪い。得体のしれないものが体の内側を這いずり回っているような感覚に囚われる。彼女のごく自然な振る舞いから時折垣間見える不穏を、僕は見逃さなかった。彼女はサラダに手をつける。しゃくしゃくという咀嚼音が、やけに静かになった食堂に響く。アスファルトを打つ雨音さえもかき消すような――単調で変化のない音が、僕の耳を支配する。まるで、そう、彼女だけがいる世界になったみたいで――。


「どうしたの」

ふいに彼女が咀嚼を止めた。雨音と喧騒が世界に戻る。

「いや、なんでもないよ」

微笑みを取り繕い、手元のサラダに手を伸ばした。なんでもないはずがない。だが、なんでもないふりをする。僕もサラダを口に運んだ。野菜が心做しか青臭く感じられた。

 食事を終えて外に出たところで、彼女が振り返った。

「これから何か、予定ある?」

三限は空きコマだった。

「特に、何も」

じゃあさ、と言って彼女は僕の傘を覗き込んだ。

「図書館行かない?」

どきりとした。雨の日の図書館、それは僕らにとって特別な響きを持っていた。あの頃、僕らだけの世界があった場所だ。

「私はあれから変わってないよ」

今でも、好き――彼女はそう言った。何が、とは言わなかった。ただ、理解した。僕もだよ、と彼女の横に出て言う。

「僕も、あれから、なにひとつ変わらない」



【続】



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