気づけば、彼女のことを目で追っていた。今日は学校に来ているだろうか、と朝の会のときに確認し、来ていたら少し胸を高鳴らせ、来ていなかったら少し落ち込んだ。

 あの日をきっかけに、彼女とよく話すようになった。ただ教室ではそこまで話をすることはなかった。あくまで僕らの関係は図書館の中だけだった。

 彼女は図書館の一番端の席によく座っていた。その隣に僕が座ってひそひそ声で話しかけるのだ。彼女はたいてい、本を読みながらそれに答えた。

 最初の方は、鬱陶しいと思われているのではないかと思った。だが、僕が先に来ているときも、彼女は何の躊躇いもなく僕の隣に座って、活字を目で追いながら僕と話をした。 彼女は本を読みながら話をするというたいそう器用なことができるみたいだった。僕が彼女と話すときは読書も止めてしまうし、宿題をする手も止まる。自分には到底できない芸当だった。

 彼女は思っていたよりもお喋りだった。教室では人形のように何も喋らないでいるのに、図書館で話すときはよく喋るのだ。その中で、椎名についてたくさんのことを知った。

 彼女は学校までお母さんに送ってもらっているらしい。迎えも車で、親の仕事帰りに寄るため、放課後は最終下校ギリギリまで図書館に残っているのだという。椎名の母はシングルマザーなのだということも教えてくれた。ひそひそ話で打ち明けられるので、まるで僕と彼女だけの秘密みたいだった。それを椎名に言ってみると、クラスで話すのは君ぐらいだから実質二人だけの秘密だね、と彼女は言った。二人だけの、秘密。その響きに、どきりとした。彼女の秘密を僕だけが知っているということに不思議な興奮を覚えたのだ。

 椎名の飲んでいた薬についても、あのことを知っているのは僕ぐらいだろう。クラスでは、彼女が大量の薬を飲んでいるということが噂されていた。実際給食の時間に彼女が錠剤を出しているところを見たことがあるし、先生も彼女に薬の確認を取っていた。彼女にどんな薬を飲んでいるのかと聞いてみると、彼女は分かんないと言って、からっと笑った。いろんな病院でいろんな薬を出されるせいで、何を飲んでいるのかもう忘れたのだという。それから衝撃的なことを言った。

「先生の前で一旦は口に含んで、給食の残りに戻して捨ててるよ」

なんでちゃんと薬を飲まないのか、と聞くと、彼女はケロッとした顔で、だって苦いんだもんと言った。病気が良くならないのはそのせいじゃないのかと思ったのだが、彼女の態度に気圧されてそれ以上追及できなかった。

 彼女のお母さんのことも知っている。一度会ったことがあるのだ。いつもは最終下校ギリギリに校舎に車が入ってくるのだが、その日は彼女の迎えがいつもより遅くて、下校時刻を過ぎてしまった。暗い中彼女を一人にするわけにもいかなかったので、正門の前で車を待っていた。

 彼女のお母さんはいつもより30分遅れてやってきた。車の窓が開いて、お母さんの顔が見えた。髪を後ろできゅっと束ねていて、露出した額に浮かぶ汗から相当急いで来たのだということが分かった。

「瑞希に何かあったらどうしようって心配だったの。一緒にいてくれてありがとうね」

彼女は柔らかい口調で言ってくれた。それが嬉しくって、僕は少し得意になった。彼女はその後も何回か僕に礼を言って、それから僕を家まで送り届けてくれた。車内では僕らは話をしなかった。彼女は窓の外を見たまま一言も声を発しなかった。僕も僕で、好きな子とそのお母さんと同じ空間にいるという状況に緊張していて、気が気でなかった。椎名のお母さんがそんな僕のことを気にかけてか、椎名の学校での様子などいろいろな質問をしてくれて、それに答えることで精一杯だった。

 翌々日椎名と話したとき、この前のお礼といっしょに椎名の母さん優しそうだったなと言うと、彼女の顔は少し歪んだ。彼女は曖昧な返答をして、ついさっきめくったページをまためくった。彼女がどうしてあんな顔をしたのか、僕には分からなかった。居心地が悪くなって、でもそこを離れたくはなかった。

 あのとき僕の心に芽生えていたのは、確かに恋だった。誰かに彼女の隣を明け渡したくなかったのだ。僕は、彼女の特別な存在でありたかった。だから、ほんのひとときさえその場所を誰かに譲るような真似をしたくなかったのだ。

 でもそんな恋も呆気なく終わりを告げた。彼女は二学期が終わる前に転校してしまったのだ。彼女は転校の半月ほど前から学校に来ておらず、例のごとく体調が悪いのだろうと思って心配していた。だから転校というのは衝撃的だった。あまりに突然のことで、お別れを言う機会もないまま、彼女はどこかに行ってしまった。理由は家庭の事情というだけで詳しくは教えてもらえなかった。転校するなら僕にくらい教えてくれてもよかったのに、結局彼女にとって僕はその程度だったのかもしれない、そう考えると余計辛くて、図書館の隅で本を読むふりをしながら少しだけ泣いた。その日初めて、本当の失恋というものを知った。小説で読んで想像していたのとは違って、あまりにあっさりしていて、それが余計悲しかった。

 かくして僕の初恋は終わった。だが、僕は彼女、椎名瑞希のことを忘れられないでいた。彼女の瞳も唇も、声も仕草も、何から何まで覚えていた。彼女の総てが、脳に焼き付いていて、決して離れなかった。小学校を卒業しても、中学高校と歳を重ねても尚、僕は椎名瑞希のことを事あるごとに思い出した。ペトリコールが香る度、彼女のことが脳裏を過るのだ。


――私好きなの、この匂い――


 彼女の声が何度も耳元で響く。

 忘れようと思った。そのために高校では彼女をつくった。彼女の名は唯。

 唯から告白されたとき、僕はチャンスだと思った。これで僕は、椎名のことを忘れられるのではないか。いつまでも未練がましく過去を引きずるわけにはいかない。第一たかが小学生のピュアな恋である。色々を知ってしまったら簡単に忘れられるに決まってる、そう思ったのだ。

 だが、できなかった。唯の何もかもが、椎名に重なる。小学生の椎名とではない。僕と同じように歳を重ねた椎名と、である。つまり僕は空想の椎名を無意識のうちに描いているのだ。どこかにいる、高校生の椎名。大人びた思考に、身体が追いついた椎名。


――だから、私は雨が好き――


ペトリコールが鼻腔を擽る。キスをしたとき唯が椎名と重なり、僕は驚いて彼女を突き飛ばした。唯とはそれが原因で別れた。

「圭くんは、私のことを見てないよね」

いつも心ここに在らずって感じ、彼女は呆れた表情でそう言って去った。

 僕は、椎名瑞希に囚われている。まるで呪縛のような初恋。所詮僕の一方通行だ。彼女は何も悪くない。だがなぜ、僕がここまで椎名瑞希に執着しているのか、僕自身分からなかった。だから、これは呪いみたいじゃないか、そう思ったのだ。


 その呪いが、この偶然を呼び寄せたのだろうか。


 ペトリコールが香り立つ六月、大学生になった僕は、再び、椎名瑞希と巡り会った。彼女は、僕が思い描いていた通りの姿をしていた。美しい彼女。その恐ろしいほどの一致に、僕は立ち眩みを覚えて――


 ああ、そうだ、僕は、目眩がして――。

 世界が暗転して――。

 

 ぴしゃり――。


 雨粒が頬を打ったような気がした。


【続】



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