彼女のことを、忘れたことはない。

 あの頃、一番近くにいて、そして一番遠くに離れてしまった人。

 忘れるはずがない。忘れたくても、忘れられなかったのだから。


 記憶は七年前に遡る。


 小学生のときだ。週に一回作文の時間があった。朝読書の時間を使った取り組みだったため、読書好きの僕としてはこの時間が憎くてたまらなかった。

 内容は簡単なもので、先生から与えられたお題に則して好きなように書くというものだ。

 あの日も、ちょうど今頃の時季だったと思う。梅雨真っ只中で、じめじめした日が続いていた。その日のお題は『晴れか雨、どちらが好きですか。理由とともに書きなさい』といった具合であった。僕は当然のことのように雨を選んだ。

 なぜ雨が好きかというと昼休みに本を読むことができるからだ。うちの学校では昼休みは基本外で体を動かすことになっていた。僕は外遊びをする友達もいなかったし、体を動かすこと自体が得意ではなかった。だから外に出たとて、ずっと遊具の方でぶらぶらして時間を潰すしかなかった。低学年の子たちから怪訝な目で見られ、その恥辱に唇を噛んだものだ。だが、雨の日はそんな惨めな思いをしなくて済む。昼休みは図書館や教室で本を読むことができた。連続的な雨音は心地よくて、本の世界にのめり込む手助けをしてくれる。その時間は僕にとっては、何ものにも代えがたい至福のひとときだった――ということを馬鹿正直に作文に書いたのだ。

 作文は先生に提出した後、掲示板の後ろに貼られることになっていた。その課題も例のごとく翌週皆のものが貼り出されていたのだが、何気なくその掲示を見て僕は驚いた。僕以外の皆が晴れを選んでいたのだ。

 外に出ると気持ちいいから。雨の日はドッジができないから。濡れるのが好きじゃないから。じめじめした空気が苦手だから。

 理由は様々だが、そんなにも雨が嫌われているのかと思うと少し悲しくなった。そんなときだ。クラスのガキ大将的立ち位置の男子がその掲示の一つを指さした。

「見ろよ、こいつ、雨が好きだってさ」

ドキッとした。僕のことだ。慌てて掲示から離れて席に戻った。そいつの近くにわらわらと人が集まり始める。僕は本を読むふりをしながら彼らの会話に聞き耳を立てていた。彼らになんと言われるのか少し興味があったのだ。だが、次々に発せられた言葉は散々なものであった。

「大人ぶってんだ」

「とんだ変わり者だな」

「そういうのをかっこいいと思ってそう」

続いて聞こえた彼らの下品な笑い声に、僕はとても傷ついた。今にして思えば多少気取っていたところもあったと思う。半分は図星だった。でも半分は本当のことだった。それを一緒にして貶され嘲笑われたのが悔しかった。話の内容が全然頭に入っていないのに、平静を装って本のページをめくったあの惨めさを、僕は覚えている。

 彼女と出会ったのは、その日の放課後のことだった。

 図書室に残って一人本を読んでいた時、僕の後ろから声がした。

「まだ続くらしいよ、梅雨」

それが僕にかけられたものだと気づくのに、少し時間がかかった。顔を上げ、夕方にしては暗すぎる窓の外を見て、それから恐る恐る振り返った。人違いかもというのは杞憂で、声の主は明らかに僕の方を見ていた。

「あと三日は今日みたいな天気だって」

彼女は続けてそう言った。そうなんだ、と適当な相槌を打つ。彼女のことは知っていた。同じクラスの椎名しいな瑞希みずき。蛍光灯に照らされた彼女の肌は具合が悪そうなほど白かった。

 実際彼女は病弱だった。学校に来ることができるのは週に一日か二日で、朝の会の点呼では彼女の返事があることの方が稀だった。 小耳に挟んだ話によると、彼女はいろんな病気を持っているらしく、しゅっちゅう病院に通っているらしい。クラスでも彼女のことはレアキャラ認定されている。ここにいるということはどうやら今日は学校に来ていたみたいだった。

「雨、好きなんでしょ、君」

彼女から発せられた言葉に僕は心臓が縮み上がった。彼女もあの作文を読んだのだろうか。先刻からかわれたことが否応なしに思い出される。もしや彼女も彼らみたいに僕をからかうつもりなのかと構えた。だが、彼女の口から出たのは、意外な言葉だった。

「私も好きだよ、雨」

特に今日みたいな雨、と彼女は言う。

「このくらいの雨脚だと匂わない?少し埃っぽくって、それでいてなんだか懐かしい、不思議な匂い。私好きなの、この匂い」

そう言って、僕の真正面の椅子に座った。彼女は机の上で手を組んで僕の方を真っ直ぐ見る。僕はどうしても彼女を直視することができなくって、彼女の手元を見遣る。彼女の腕は、やせっぽっちの僕でも折れてしまいそうなくらい細くて、棒切れみたいだった。

「鼻先を掠めると、あぁ雨だぁって。アスファルトに染み渡る雨とか草木を伝う雨とかを見て、世界が潤ってゆくのを実感するの。それからね、私も手を差し出すの。私も濡れる。雨が私を伝う。そのときにね、あぁ私も、この自然の一部なんだって、天の恵みを受けてる、天に生かされているんだって、確かめられるから」


――だから、私は雨が好き――


彼女はそう言った。なんだかやけに大人びてるというか、少々哲学めいた考えに、どう返答していいのか分からず、僕は黙ってしまった。すると、彼女は僕が返しに困っていることに気づいたのか、とにかく、と早口で話を締めようとした。

「私は君の気持ち、よく分かるよ。作文のとき休んでなかったら、私も雨が好きだって、そう書いてたと思う」

雨の日の読書も好きだし、と付け加える。どうやら僕を励ましてくれているみたいだった。クラスの奴らが僕のことをからかっているのを、彼女もまた聞いていたのだろうか。謎のフォローをされて気恥ずかしかったが、同時に嬉しかった。ありがとう、そう言うと彼女は照れくさそうに、別に、と言った。彼女のはにかんだ顔はとても可愛らしかった。彼女はこんな表情もするのだと、僕はその時初めて知った。初めて見た、少女らしい顔だった。僕がこれまで椎名に抱いていたイメージと彼女の実態は大きくかけ離れていた。無口で、感情を表に出さない、学校に来たとしても誰ともかかわらずにいつの間にか消えているような、ミステリアスな存在。冷めた瞳に真っ白な肌、勝手に冷淡な印象を抱いていた。そんな、とっつきにくい彼女のイメージは静かに解けていった。親しみすら覚えたのだ。これまで経験したことのない、不思議な感覚だった。それから――純粋に、彼女のことを綺麗だと思った。

 それが、彼女――椎名瑞希との初めての会話だった。そして僕の初恋とやらの始まりでもあった。



【続】



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