ペトリコール

見咲影弥

 ペトリコールが鼻先を掠め、六月を実感した。遠慮ばかりに開いた窓の隙間から入ってきたのだろう。雨が吹き降りするといやなので、そっと窓を閉める。

 じっとりとした空気の講義室には、教授のだるそうな声がマイクを通して響き渡っている。窓際に座る僕は、正面のスライドから目を逸らして、曇天をぼんやり眺めながら時が過ぎるのを待っていた。

 大学に入ってはや二ヶ月。入学当初漲っていたエネルギーはとっくに尽きて、惰性で講義に足を運ぶ日々を過ごしている。

 大学生活は正直期待外れもいいところだ。なんとなくで入った学部の専門科目は全然興味が湧かない。サークルは新歓だけ行ってそれっきり顔を出していないし、バイトだって単純作業ばかりであっという間に飽きた。受験さえ乗り切れば花の大学生活が待っているぞなどという言葉を真に受けてがむしゃらに勉強していた自分がなんだか哀れに思えてくる。飽き性な性格にも無論非はあるのだが、期待させた高校の先生にも少しくらい文句を言わせてほしい。何が花の大学生活だ、笑わせるな、と。

 とまぁそんな不満を燻らせながらも、僕はなんとかやっていた。皆が授業を切るということを覚え始め、出席者が減る中、僕はどの講義にも欠かさず出た。別に真面目だからというわけではなくってただ不器用だっただけだ。上手に羽目を外すことができそうになく、いざやってしまえば道を外してしまいかねない、そんな気がしたのだ。もう少し融通がきけばいいのにと自分で思うことも多々あるのだが、僕はそういうことが昔から苦手だった。敷かれたレールに乗っていたほうが安全だからというビビりな性格のまま、大人になった。つまらない人間だ、僕は。そんな自分が、僕は嫌いだ。そして、そんなことないよという言葉を薄っすらと期待している醜悪な自分も、嫌いだ。視界に入った紫陽花がやけに美しく咲いていて、なんだか憎らしくなって腹いせに睨みつけた。

 お経のような授業が終わって教室を出ると、雨の匂いはいっそう強くなった。この匂いのことをペトリコールと呼ぶのだと知ったのは恥ずかしながらつい最近になってのことだ。埃っぽくって、どこか懐かしさを覚えるようなこの匂いは嫌いじゃなかった。傘を差して軒から出た。頭上で雨が弾ける音がする。ああそういえば――と僕は思い出す。この時季になると、毎度のように。アスファルトに染みてゆく雨、何年経ってもそれは乾くことがなく――彼女も、この匂いを好きだった――僕はまた、古い記憶を喚び起こすのだ。

 そのときだった。


けいくん?」


名前を呼ばれた。声の方に振り向く。そこには、一人の女性が立っていた。紫陽花の色をした傘の下で、彼女は花笑む。記憶の中の少女と目の前の彼女とが重なる。僕は、彼女を知っていた。あれから七年経ち、僕は子どもから大人になった。同じように彼女もどこかで、僕の知らないところで、大人になっていたのだ。それでも変わらないものが確かにあって、僕はそれに気づいてしまった。

 雨音が世界から僕らを切り離した。その瞬間、僕らは二人きりになる。僕は慄然とした、思い描いた通りの、彼女の姿に――。

 

 雑音が消えた。

 傘が、手を離れる。

 雨が、頬を殴る。


 ――二人だけの秘密だね――


 世界が、暗転する。




【続】



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