けぬさまね

第1話

 深夜3時を回ったころ、私が大学の課題を終え、ようやく眠れると思いながらベットに潜り込もうとすると、携帯が鳴った。

 画面を見ると、バイト先の友人のSからだった。Sとは、バイト中はよく話す仲だったが、プライベートで遊んだりすることはなく、ましてや深夜に電話かけてくるようなことは今までに一度もなかった。

 電話に出ると、Sの声はひどく震えていて、泣きながら何かに怯えているような様子だった。


「怖い。助けて。私、死ぬかもしれない」


「どういうこと?」


「私だってわからない。とにかく怖くて怖くてたまらないの」


 彼女は、とにかくずっと「怖い」「助けて」などの言葉を連呼していた。

 私は、なんとか彼女をなだめて、話を聞いた。すると、どうやらSは私の家の近くのファミレスにいて、そこの公衆電話から電話をかけているというのだ。そして、彼女は今から私に会いに来てほしいと頼んできた。深夜だったが、私はSのことが心配になり、会いに行くことにした。

 

 ファミレスに着き、Sに会うと彼女は冬なのにも関わらず、上下スウェットのみで、さらに、靴を履いていなかった。なんと、Sは一人暮らしをしている自分の部屋のベランダから、飛び出して来たと言うのだ。


 私が改めてSに話を聞くと、彼女は真っ青な顔をしながら「私、幽霊を見てしまったかもしれないの」と言った。Sは小さく呟くように、事の経緯を語りはじめた。





 深夜2時頃、Sは次の日が早朝からバイトだったため、早くに寝て、その時間には深い眠りに落ちていた。だが、Sは「ピンポーン」というインターホンの音で、目を覚ました。

 Sは「こんな時間になんの用だ」と少し苛つきつつも、重いまぶたをこすりながら布団から出て、玄関に向かった。その時、時計の針は2時10分を指していた。


 Sはまず念の為に、ドアスコープから外を覗いた。外には、一人の女が立っていた。Sはその女の姿を見て、驚愕した。その女は、髪が長く、顔の上半分が完全に隠れていた。そして、何より奇妙なのが、全身が濡れていて服を着ていなかったのだ。

 Sはドア越しで、恐る恐る女に「どうかしましたか……」と声をかけた。


 すると、Sの言葉に女はたった一言、こう返してきた。


「けぬさまね」


 その声は、何の感情もこもっていない無機質なものだった。Sは恐怖を感じながらも、「なにかお困りなんですか?」とさらに女に話しかけた。だが、女は相変わらず「けぬさまね」としか言わないのだ。

 Sはこれでは埒が明かないと思い、意を決してドアを開けることにした。Sはドアチェーンをかけ、早まる鼓動を抑えながら慎重にドアを開けた。


 その瞬間、女はドアの隙間に窶れた指を挟んできた。Sはそれを見て思わず叫び、腰を抜かして床に叩きつけられてしまった。

 気づくと、女はドアの隙間に体を押し付け、無理やりねじり込ませようとした。すると、女の体はゴムで出来た人形のように変形し、ついに部屋の中に侵入した。

 女の体からは、泥のような液体が滲み出していていて、強烈な異臭を放っていた。女はベタベタと音を鳴らしながらSに近づいてきた。そして、Sの顔を覗き込みながらこう呟いた。


「さひむさは」


 Sは恐怖で泣き叫びながらベランダの窓を開けて、そこから飛び降りた。Sの家は二階だったが、幸い植え込みの上に落ちて怪我をすることはなかった。それから必死に私の家の近くのファミレスまで走り、そこにあった公衆電話から私に助けを求めたのだった。


 その日は私の部屋にSを泊めてやった。数日後、Sはすぐにその部屋から引っ越すことにした。それからその部屋がどうなったかは誰も知らない。


 はたして、あの言葉はどういう意味だったのだろうかと、今でも時々思い出してしまう。

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けぬさまね @sketch_book

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