あの夏の日

幸まる

Dear

灼けた施設の門を入ると、どこからか蝉の声が聞こえた。

まだ梅雨明けもしていないのに、こう暑いと蝉も慌てて活動し始めたのか。



玄関の自動ドアを入ると、心地よい冷気が肌を撫でる。

やや微温ぬるいのは、入居者の体調を配慮してだろう。

ここは介護老人保健施設。

体温調整が難しい年配の方々には、冷え過ぎはよろしくないのだ。


入口横の受付で、面会予約をしていたことを告げると、介護士さんが出てきて二階へ案内してくれた。


面会は一時間程度。

コロナ禍で全く会えなかった時のことを思えば、時間を区切られても、こうして直接会えるのは有り難いことだ。




エレベーターを降りると、談話室でテレビを見ている十数人の入居者達の姿が見えた。

誰もが一様に画面の方に身体を向けているが、その視線はまちまちだ。

テレビを観たい人ばかりではないのだろうが、部屋に籠もりきりにならないように、テレビのある談話室に集まる時間なのだろう。



祖母の姿は、すぐに見つかった。

後列で、旅番組が流れているのを観ていた。


「おばあちゃん」


私が側に寄って声を掛けると、祖母は顔を少しだけこちらに向けて、ニコリと笑った。


「これはこれは。ようおいでなさったな」


愛想の良い声と言葉だが、それはいつ誰が来ても向けられるもの。

山で生きてきたおおらかで優しい祖母は、いつでもこうして面会者を歓迎してくれるのだ。


「笹井さん、お孫さんが面会に来てくださったわよ。良かったわね」


案内してくれた介護士さんが、祖母の耳元でそう告げる。

「孫…」と祖母の視線が揺れてから、私の顔をようやく見上げた。


視線が合わさる。

その瞳の奥で、今、祖母の記憶がひっくり返されていることが分かった。


「おばあちゃん、私、分かる?」

「……さっちゃん、さっちゃんやろ?」

「うん、そうだよ。久しぶりだね」

「よう来たなぁ」


私が肯定して笑うと、祖母は嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑って、手を握った。



私の名前は美希みきだ。

“さっちゃん”は、姉、咲希さきの呼び名だ。

でもいい。

近いところを、自力で思い出せたのだから。


祖母は認知症があって、色々なことを徐々に忘れていっている。

日によって思い出せることもあれば、全く思い出せないこともあるようだが、元々の気質の為か、常に柔らかい雰囲気で、怒ることもなく、ニコニコ笑っていた。


しかし、ぼんやりとして、視線が定まらないことも増えた。


車椅子で部屋に移動して二人で会話を楽しむ間も、ろれつが回らず、突然視線が定まらずにぼんやりすることがあった。

そして、視線が戻れば、その前に話していたことは全て忘れてしまうのだ。



覚悟はしておかなければならない歳だと、父からは聞いている。

確かに、面会に来る度、祖母は儚さを増した。




私は、鞄からミニアルバムを取り出した。

写真は十数枚しか入らないが、嵩張らないので持ち運びには便利だった。


祖母の前で開く。

それは、十年以上も前にお盆に親戚が集まった時のスナップ写真で、皆の笑顔が詰まっていた。


「おばあちゃん、覚えてる? 裏の畑。こっちは竹林。これは、前庭で流し素麺した時だよ」


瞬間。

祖母の濁ってぼんやりした瞳に、スウと光が戻った。

キラキラと輝く瞳が、写真を追う。

目尻のシワが深くなり、しっかりと指を差して、強く頷く。


「覚えとるよ、みっちゃん。この年は皆で流し素麺したなぁ。何日か前に青年会の人が、この辺りで竹を切り出したんでな、何本か分けてくれて、おじさんが縦に竹を割ってなぁ……」


鮮やかな思い出が、言葉に乗って、祖母の口から溢れ出てくる。


「おばあちゃんのスイカ、美味しかったよね。毎年楽しみにしてたんだ」

「ほうやなぁ、井戸の水で冷やしておいたら、みんなよう食べてくれて……」


皆で食べたご馳走の味。

弾ける笑い声と、走り回る子供の足音。


祖母の口から、淀みなく語られる、あの頃の風景。


池の鯉の餌やり。

夕暮れの花火。

夜中の天体観測。


集まった親族の笑顔と、また次の約束。


「今年も、みんな来てくれるとええなぁ……」

「……うん。そうだね」


写真を撫でる祖母の指を見つめ、私は肉の削げた腕をそっとさすった。





面会時間が終わり、私は祖母の車椅子を押して談話室に戻った。


「おばあちゃん、また会いに来るね」

「また来てなぁ、みっちゃん。きっとなぁ……」


祖母の手に握力はもうほとんどないが、帰り際のこの瞬間だけは、いつも私の手を強く握る。


「うん。必ず来るからね」


名残惜しそうにする祖母に手を振って、私は廊下を歩く。

見えなくなるまで手を振る祖母の記憶は、どこまで保つだろうか。


次に会いに来た時も、祖母はきっと私を“さっちゃん”と呼ぶだろう。

それでもいい。

その時はまた、一緒に写真を見て、あの日に帰ろう。



―――だから、まだまだ生きていて。




施設の入口を出た途端、来た時よりも温度の上がった外気と蝉の声が、私と祖母の世界を遮断した。

私は、負けるもんかと熱気を吸い込み、大きく一歩踏み出した。




《 終 》


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あの夏の日 幸まる @karamitu

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