不器用な恋

槙野 光

不器用な恋

 夏。放課後の高校。校舎の三階にある空き教室の窓からひっそりと顔を出し、両手の親指と人差し指で作った四角い枠の中に、制服を着た凪を映し出す。

 後輩に混じってサッカーをする凪がボールを蹴り上げるとゴールネットが揺れ、歓声が上がる。

「ナイッシュー」

 後輩とハイタッチをする凪が無邪気に笑う。

 凪の笑顔は、人懐っこい猫に少し似ている。けれど凪は猫じゃなくて人間で、それが現実だし別に凪に猫になって欲しいわけじゃない。でも猫じゃない凪に触れるのは怖くて、凪に嫌われたらと考えただけで心臓が縮む。そんなことになったら、きっと、俺は二度と立ち直れない。


 心の中でシャッターを切って、指で作ったレンズを解く。

 記憶の中を埋めていく透明な写真。現像されないままのそれに、いつだって、鮮烈に心を持っていかれてしまう。けれど、凪に気持ちを打ち明ける勇気はなくて、この気持ちが消えたら凪の隣にずっといられるんだろうかと時折そんなことを考える。でも誰も正解を教えてくれなくて、だから俺はひとり彷徨うしかなくて。

「あっやべ」

 ぼうっと凪の姿を見ていると、片手で庇を作る凪と目があった。咄嗟にしゃがみ込んで壁に隠れたけど絶対にバレた。

 立ち上がって慌てて逃げようとすると、

「春! 絶対にそこにいてよ!」

 開けた窓から凪の声が真っ直ぐに飛び込んできて、壁を背に座り込んで項垂れた。

「……動けるわけねえじゃん」


 吾妻 凪は、幼馴染だ。家が近所で小中高も同じで、いつだって一緒に過ごしてきた。家族よりも濃い時間を過ごしている凪との関係を型に嵌めることはしたくなくて、けれど、気持ちはゆっくりと変わっていった。

 中学二年生になり、所謂成長期というやつで背が伸びた凪は急に女子にモテだした。凪が女子に呼び出される度に苛々して、相手にしない凪にほっとして、でも、常に不安を抱えるようになった。

 その気持ちがどこから湧き上がってくるのか初めの内は分からなかった。でも、その年の夏休み。いつものように凪の部屋に上がり込むと凪がベッドの上で横になっていた。近づくと、開けた窓から入り込んだ微風が凪の前髪を揺らし、凪の薄い唇の合間から吐息が漏れた。

 瞬間、鼓動がひとつ跳ねて、凪のまつ毛が微かに震えを帯びて、瞼がゆっくりと持ち上がる。

「……おはよ、春」

 凪のあどけない笑顔。その時、ああ、凪が好きなんだって自覚した。その気持ちは胸の中にすとんと落ちて、全身に甘い痺れを広げていった。けれど、この関係を壊す勇気はなかった。それなのに凪が、

「春、僕に何か言うことはない?」

 なんて唐突に言ってくるから。言葉に詰まった俺は怖くて凪から逃げ出した。けれど遠目でもいいから凪を見ていたくて、偶然見つけた三階の空き教室に足を踏み入れて、結局、凪にバレた。

 凪が辿り着く前に、逃げればいい。

 分かっているけれど、動けなかった。だって、凪の声が今にも泣きそうでなんだかとても必死に聞こえたから、だから俺は――

「春!」

 甲高い音を立てながら、ドアが開いた。


 目に飛び込んできた凪は肩で息をしていて、俺を見た瞬間、心底安心したように吐息を漏らし笑みを浮かべた。 

「良かったいた」

「……凪」

 凪に気持ちがバレたくなくて、凪から逃げ続けた。そうすればこれからも凪と一緒にいられると思った。けれどもしかしてそれは、俺の独りよがりだった? 

「凪、おれ」

 勝手でごめん。そう続けようとしたけれど、凪が俺の言葉を奪う。

「ごめん春。春を試すようなことをした。春とずっと一緒にいたかったから、春を試した。……まさか避けられるなんて思わなかったから焦ったけど、春の性格を考えなかった僕が馬鹿だった……」

 苦笑を浮かべる凪に当惑していると、凪が一歩ずつゆっくりと近づいてきた。

 後ずさろうにも背中には壁しかなくて、近寄ってくる凪を俺は緊張しながら待ち構えることしかできなかった。

 凪は俺の前まで来ると片膝をついて、俺の緊張を解すように気持ちごと、俺の身体を両腕で抱きしめた。


「春、僕はもう春を待つのはやめることにする。だから春も、覚悟を決めてよ」

 

 耳殻を掠める声は力強くて真っ直ぐで、そして、


「好きだよ、春」


 腕を解いた凪が俺に向かって淡い笑みを浮かべた。


「僕とずっと一緒にいてよ」


 瞬間、胸の奥が熱くなって凪の顔が涙で歪んだ。


「……春も、僕のこと好きでしょ?」


 喉の奥が熱くなって何も言えずにいると、凪が不安そうに顔を曇らせるから、俺は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま勢いよく凪に抱きついた。ぎゅうぎゅうと凪を抱きしめると、凪の指先が俺の後頭部を優しく撫でてくれた。

 勘違いかもしれないけれど凪のその指は微かに揺らいでいるような、そんな気がした。



 両手の指で切り取った凪の姿。ひとりきりで映した透明な写真はこの夏に置いていく。けれど、消えるわけじゃない。今度は凪と一緒に新しい景色を瞳に映し出して、そして染めていく。


 この新しい世界を、カラフルに。

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不器用な恋 槙野 光 @makino_hikari

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