恋のタスクがこなせない

やなぎ怜

恋のタスクがこなせない

 リーネは重く深いため息をついた。


 目の前にある鏡台の、ひろい鏡を見やれば、リーネの長い髪へ丁寧にブラシを入れているネクリと目が合った。


「そんなにため息をついていると――」

「――『幸せが逃げちゃう』って?」

「わかってるじゃないですか」


 鏡越しにネクリは微笑んで言う。


「ため息もつきたくなるの」

「また上手く『恋』ができなかったんですね」

「そう!」


 リーネは輪廻種と呼ばれる種族だ。


 輪廻種は、長い眠りにつくことでその魂を異世界へと飛ばし、肉体を得てその異世界に生れ落ちることができる、という能力を持つ種族である。


 輪廻種の役目は異世界を観測し、観察し続けること。


 輪廻種として生まれたリーネも例にもれず、これまでに幾度となく異世界へと一時的な転生を果たしてきた。


 異世界へと転生した輪廻種は、総じて短命だ。その短い生涯のあいだに、さまざまなことを経験することが異世界観察においては肝要であった。


 恋愛や、結婚もそうだ。


 異世界の恋愛観や結婚観を知ることは重要な観察事項のひとつ――。


 リーネは、輪廻種たちを統率する「先生」にそう耳にたこができるほど言われてきた。


「『恋』って、どうすればできるの?」


 ……けれども、リーネはこれまでに何度も異世界転生を果たしながらも、一度として恋をしたことはなかった。


 一度や二度の失敗でリーネはめげるような性格ではなかったが、ことごとく恋ができずに異世界観察を終えることを繰り返しているうちに、すっかり自信を失ってしまっていた。


 「同級生」たちはおおむね、異世界での恋愛を楽しんでいる。


 恋をして、結婚して、子供を産む……。短命でも、ライフステージの変遷をそれなりにひと通り体験して、立派に異世界観察を終えている。


 だれも口に出しはしないが、リーネは自分のことを落ちこぼれだと思っていた。


 一応、こちらの世界に恋人や伴侶と呼べる存在がいれば、異世界観察における恋愛などのタスクは免除される。


 けれどもリーネにはまだ恋人や伴侶と呼べるような存在はいないし、そうなって欲しいと思う相手すらいない。


 だからため息が止まらないのだ。


 今回の異世界転生も、リーネからすると上手く行ったとは言い難い。


 リーネに思いを寄せてくれる男性は現れたが、結局リーネはその思いに応えることはできなかった。


 こちらの世界において、タスクを免除してもらうための嘘をつくこともできなければ、異世界で自分の気持ちに嘘をつくこともできない。


「『恋』は落ちるものだと言いますね」

「気がついたら落ちてるものだよってよく言われるけど……」

「もちろん例外もありますよ」


 リーネの髪を整えてくれているネクリは、輪廻種が眠りにつき、異世界観察を行っているあいだ、その肉体を魔法で管理する役についている魔法使いだ。


 ネクリはリーネより少し年上だったが、いつだって丁寧な言葉をかかさない紳士的な人物であった。


 「恋」のタスクがこなせないリーネを嘲笑うことは当然しないどころか、こうして落ち込むリーネに気遣いを見せてくれるのだから、根っからの善人なのだなとリーネは思っていた。


「――ねえ、ネクリにとっての『恋』ってどんな感じ?」

「落ちるというよりは――じわじわと沼に嵌っていくような感じですね」

「え? その言い方は……ネクリ、好きなひと、いるんだ?」

「いますよ」


 さらりとネクリから告げられた事実に、リーネは少し衝撃を受けた。


「そっか。そうだよね。みんな普通に『恋』してるもんね」

「他人に恋愛感情を抱けない人間だって当然いますけどね」

「でもネクリは『恋』してるんだ」

「そうですね」

「……どんなひとか、聞いてもいい?」

「いいですよ」


 ネクリの好きなひととは、いったいどんな人間なのか、リーネは自身の「恋」の参考にしたいという気持ちももちろんあったが、第一にあるのは好奇心だった。


「なにごとにも一生懸命で、がんばり屋な、まじめで素敵なひとです」

「なにかきっかけってあったの? 『恋』してるなって、どういうときに思ったの?」

「……そうですね。僕の作ったケーキを頬張っている姿を見て、とても幸せだなと思ったことが、きっかけと言えばきっかけでしょうか」

「ネクリが作るお菓子は美味しいもんね。……そっかあ」


 きっとリーネが眠っているあいだに交流があるのだろう。


 リーネはそう思い、そしてそれ以上ネクリが恋している相手について、無遠慮に根掘り葉掘り聞くのはなんとなくはばかられ、あえて話の矛先を変えた。


「ねえ、今日はブラウニー作ってくれた?」

「作っていますよ。いつも通り、リーネさんが報告を終えたら食べましょう。濃いコーヒーに、ホイップクリームをのせたブラウニーを用意して待っていますね」

「やった」


 ふとリーネは、ネクリも恋する相手にはこのように優しいのだろうなと考えた。


 手作りのお菓子を用意して、お茶やコーヒーを入れて、それから柔らかな笑顔をたたえて迎えてくれるのだろう。


 リーネはネクリが恋する相手と幸せそうにしている場面を思い描き、うらやましさを覚えた。


 同時に、さみしさのようなものがリーネの胸に去来する。


 ネクリがリーネの世話をするのは、リーネが異世界転生をするのと同じく、そういう役目であるからだ。


 たとえネクリの恋が実り、恋人ができたとてネクリがリーネの世話役を辞めるということはないだろうが……なんとなく、さみしい気はする。


 その感情は、大好きな母親を下のきょうだいに取られたような感覚に近いような、そうでもないような……。


 リーネは、その「さみしさ」の種類を上手く言い表せる語彙を持っていなかったが、なんとなく「さみしい」のはたしかで。


 ネクリの恋について思いを馳せていたので、観察結果の報告に赴いた先で受けた「先生」のお小言は、リーネの右耳から入り左耳へと見事に抜けて行ったのだった。



 *



 彼の第一印象は、「ネクリに似ているな」だった。


 彼はいつも柔らかな微笑みを絶やさず、この異世界に転生を果たしたリーネより少し年上で、優しかった。


 顔立ちが、というよりはまとう空気がリーネの記憶を刺激し、ネクリを想起させたのだ。


 彼はリーネの婚約者候補として引きあわされたが、しかし彼にはすでに思い人がいた。そんなところも、ネクリにそっくりだとリーネは感じ入った。


 リーネは、早いうちから彼とは恋愛関係にはなれないと理解しながらも、家のしがらみもあって、彼とは何度も会った。


 この世界の魔法体系や、古代文字について教わっているとき、彼の横顔を見ればリーネはネクリの姿を幻視するようだった。


 でも、彼はネクリではないし、ネクリになり得るはずもなかった。


 リーネはそれを理解しながらも、彼と接してはネクリを思い出し、思い出しては彼はネクリではないのだと――どこかで落胆していた。


 彼の所作、言葉遣い、態度。ひとつひとつがネクリを思い出させたが、そのひとつひとつが彼はネクリではないのだと、決定的にリーネに訴えかけてくる。


 リーネは結局、彼とは「恋」をしなかったし、彼には「恋」をしなかった。


 「ぼくの心にはあのひとがいるんです」――と、彼から告げられたときに、リーネも気づいたのだ。


 彼の心の中に、彼の思い人がいるように――リーネの心の中には、ネクリがいるのだということを。


 彼と会うたびに、リーネは無意識のうちに、彼の中にネクリを探していた。


 けれども当然、彼はネクリではない。探しても、見つかるはずがない。


 代わりにリーネは、自分の心の内側でネクリを見つけた。


「わたしも、好きなひとがいるの」


 声に出してハッキリと言ってしまえば、その感情はいつの間にか「恋」の形になっていた。


 結局、彼とはそれきりになり、今回のリーネはまたしてもだれとも恋愛に落ちず、結婚もせずに早逝することになった。


 輪廻種と異世界とは一期一会の関係だ。


 いつもは、短いながらも親しんだ世界と、家族や友人知人との別れに少しはさみしさを覚えるリーネだったが、今回は同時に早く目覚めたいという気持ちも伴っていた。


 目覚めて、ネクリに会いたい。


 ネクリに会ったとき――彼を、その瞳の中に映したとき、自分の心の内側で起こるかもしれない出来事に、リーネは少しの期待と不安を抱いて、異世界での生を終えた。


「ネクリ、わたしも『恋』ができたんだ」


 目覚めての第一声は、それだった。


「それは……おめでとうございます」


 ネクリはヘアブラシを片手に持ったまま動きを止め、一瞬だけわずかに目を見開いたあと、そう言った。


「どんな方と『恋』をしたのか、聞いても?」

「お菓子作りがとても上手なひと。そのひとの作るブラウニーがいちばん好きで、そのひともいちばん好きだって、気づいたの」

「……ああ、その方もお菓子作りをするんですね」

「うん。ネクリのことなんだけどね」

「――え」


 リーネは、なんでもない風を装って、わざとあっさりとした口調で言ってのける。


 けれでもその色白い頬は完全に朱に染まっていた。声音も明らかに上ずっていた。


「ネクリの作ってくれるブラウニーがいちばん好きで、いっしょに食卓を囲めることも好きで、わたしの髪を整えているときのまなざしも好きで……とにかく、ネクリのことがぜんぶ好きだって気づいたの」

「それは……なんだか、とても熱烈ですね」


 リーネの頬が赤いように、ネクリの顔もほのかに朱色が差していた。


 いつもはまっすぐにリーネを見つめているその視線は、今は彼女からは外れている。


「でも……ネクリには好きなひとがいるんだよね」

「……はい」

「でもわたし……『恋』がわかってよかったよ。これは、実らない『恋』だったけれど――」

「あれは……リーネさんのことです」

「え?」


 今度は、リーネがネクリの突拍子なく聞こえた言葉におどろく番だった。


 ネクリの顔は、いよいよ首から耳までほんのりと赤く染め上げられている。


「以前、お話したのはリーネさんのことです」

「ええ?」

「『一生懸命で、がんばり屋で、まじめで素敵なひと』……僕から見たリーネさんは、そんなひとなんです」


 顔を真っ赤にしたふたりとも、言葉が途切れて沈黙が落ちた。


 その沈黙は居心地が悪かった。気恥ずかしくって、じれったくて――しびれるほどに、甘すぎて。


「『先生』にご報告しなければなりませんね。『恋人ができたのでタスクは免除してください』……と」


 ネクリの言葉に、リーネは「うん」とうなずいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

恋のタスクがこなせない やなぎ怜 @8nagi_0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ