夏に置いてきた写真

本居鶺鴒

たった一つの失くしもの。

 たった一枚の写真を残して全部消した。


 スマートフォンに残っていた写真も、SNSに投稿した写真も簡単に消せる。

 今では少し後悔している。




 彼とは高校生の時に、数か月間付き合っていただけ。成績がいいとか、顔がいいとか、高校生らしい好きな理由は今でもいくつも言える。


 普段はクールな雰囲気なのに、友達とはしゃいでいる時は整った顔が少し醜くなるほどにくしゃくしゃに笑うところが好き。


 高校生の時には大人っぽいと思って気に入っていたそんな文句も、やはり子供じみていると思う程には大人になった。

 あれから十年以上たった。今では三十歳になる。



 東京に全部置いてきた。家具も人間関係も、冷蔵庫の生ものも鬱の診断書も。


 私は東京の専門学校を出た。お菓子作りの学校で、技術は身に着けた。代わりに社会のことをよく分からないままに就職して、あまり良くない会社に何年も奉仕することになる。

 退職願と退職届の違いは、最後まで分からなかった。調べたらすぐ分かるはずだ。それすら出来ないほどに余裕がなかった。

 新幹線といくらかの電車賃だけを持って、青森の実家まで帰ったのは先月のことだ。


「わぁあ! つめたい!!」


 わざとらしくはしゃぎながら海を蹴った。

 海水浴場は狭い範囲を堤防に囲まれていて、人工的に植えられた不自然な南国風のヤシの木が散らばって立つ。それから家族連れが楽しそうにバーベキューをしている。


 いかにも幸せそうな人を見て辛くなった時期がある。そのあとに、何とも思わなくなった。今はまた、少し辛くなる。


 バッグに突っ込んで持って来た写真を取り出す。高校の卒業以来放置されていた実家の部屋。帰省してもほとんどとんぼ返りだったから、視界に入っていても意識することは無かった。高校の時に彼と撮った写真。一枚だけ家のプリンタで印刷して、飾っていたらしい。すっかり忘れてしまっていた。彼はいろんな意味で過去の人だ。



 昔付き合っていた。付き合ったきかっけも、分かれた理由も分からない。ただ確かなことは、彼が高校在学中に亡くなったということだけ。








 同級生が亡くなることを、インパクトがあると表現するのは不謹慎だろう。それでも不謹慎を承知で……彼の死はインパクトがあった。

 ドラマみたいだった。


 高校三年生の夏の日、海水浴中に溺れていた女の子を助けて代わりに死んだのだ。彼の葬式で、彼の母親は、その女の子の家族が来た時に立ち上がった。女の子の母親は委縮しながらも、まっすぐに彼の母を見た。あれが、どういった感情を内包していたものなのか、大人になった今でも分からない。

 彼の母は、震える手をわたわたと動かして、何もしていないのに激しくなった呼吸を落ち着けてまた座る。私は、殴って欲しかった。殴れと叫びたかった。


 女の子の母親は、深く頭を下げていた。



 そんなことを思い出して、途端に私のやろうとしていることが赦されないことのように思えてくる。


 私の持つ中で、唯一残された彼の写真を海に流す。

 彼を二度殺すようなものじゃないか。

 しばらく考えながら海沿いを歩く。海水浴場を出ると、砂浜はブロックに変わる。それが砂浜に戻るころ、また彼の写真を海に流したいと思うようになってきた。


 スマートフォンに残る彼の写真をすべて消したことを後悔している。彼が死んだと聞いて、すぐに全部消したのだ。彼が死んだとき、私はまだ好きだった。なんで分かれたのか思い出せないけれど、私がまだ好きだったことだけは確かだ。そうでなければ写真を全部消したりしない。

 きっと、今でも好きなんだと思う。


 最初にいた砂浜の所まで戻ると、家族連れはまた別の家族連れの人たちと楽しそうに騒いでいた。私よりずっと若い夫婦が楽しそうに、幼稚園児くらいの男の子に肉を取り分けている。

 私があんなふうになることは無い気がした。今から結婚して、子供を産んだとしても、常に夏の影が私に付きまとうから。



 写真は海に浮かんだ。波が来て、砂浜に取り残される。もっと遠くに、手裏剣みたいに投げ飛ばすべきだと思いながらも、いつか運んでくれるかもしれないと繰り返し海に浮かべる。

 四度目には、彼の写真は遠くに運ばれていった。まだ見える位置にあるが、波が揺れ動くたびに少しずつ離れていく。次第に波に揉まれて見えなくなった。二度と、彼の顔が確かな形で私の前に現れることは無い。卒業アルバムにも載っていないから。きっと探せば、学校生活を映した写真の中にいるのだろうが、探すことはきっとない。


 彼の肉体も写真も、永遠に私の夏の中に取り残される。二度とこない夏。いろんなものをその場に残してきた私が、これからも持っていける、たった一つの失くしもの。後悔の夏の中に、たった一つ置いた。

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夏に置いてきた写真 本居鶺鴒 @motoorisekirei

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