後の月

おおきたつぐみ

後の月

 私のことを好きだった女に再会するのは不思議な感覚だった。

 彼女が私に告白したことはないし、私も確かめたことはない。

 でも、早紀さきは断言していた。

 琴子はなつみのことが好きなんだよ――と。


 三月の土曜。年度末の仕事が立て込み、急な休日出勤になったため、指定された和食店には三十分ほど遅れて到着した。案内された個室では、すでに愛美あみ、楓、琴子の三人がアルコールでほんのりと顔を赤くして盛り上がっていた。

「来た来たなつみ~! お疲れ」

「遅れてごめん。愛美、今日は結羽ゆうちゃんは?」

「夫が見てくれてる。ほら、琴子だよ。あんたたち何年ぶり?」

 愛美に言われて、意識して視線を外していた琴子に目を向けた。

 数年ぶりに会う琴子は、鎖骨あたりまでの髪をふわふわと巻いてラベンダー色のニットを着ていた。綺麗になった――胸が衝かれるような思いがした。

「なつみ、久しぶり。まあ、愛美の結婚式以来に二人にも会うから、なつみだけじゃないんだけどね」

 自然に笑う琴子は、本当にたまたま会わなかっただけ、とでも言いたげだった。愛美の結婚式でも目も合わせようとしなかったし、話も挨拶程度だったくせに。

 札幌の大学に進学してそのまま就職した琴子は連絡先も交換しておらず、年に一、二度帰省はしていたようだけれど、私に連絡が来ることはなかった。

 愛美や楓とはたまにメッセージをやり取りしていたようで、今回は久しぶりにみんなで集まりたいと琴子が言ったらしく、四人でのメッセージグループが作られ、今日の飲み会が決まった。

 琴子に避けられている自覚はあったから行くかどうか迷ったけれど、楓が結婚式の招待状を手渡ししたいと言ったこと、そして早紀の言葉が蘇り、結局は琴子に会ってみたい気落ちが勝った。

 ――琴子はなつみのことが好きなんだよ。


 ずっと私を避けていたのが嘘のように、琴子は私を見て親しげに微笑んでいる。

「なつみは変わらないね。相変わらず爽やかで可愛い。まだテニスやってるの?」

「うん、趣味程度だけどね。琴子は……大人っぽくなったね」

「そりゃ大人だよね。だってもう私たち二十七だよ」

 楓が大笑いする。

「せっかくこうやって集まれたのに、早紀には連絡が取れなくて残念だったね」

「そうだね。今、早紀は東京?」

 琴子が私を見ながら聞いたのがわかったが、私は目を伏せて、さあ知らない、と首を横に振った。

「九州とか海外とかの噂もあったけれど、わかんないんだよね」

「早紀の実家も引っ越しちゃったから、私が結婚式の招待状を出した時も宛先不明で返って来ちゃったし」

「早紀には渡せないのが残念だけど、みんなは来てね!」

 そう言いながら楓が光沢があるしっかりした紙で作られた封筒を私たちに順に渡した。裏には、見知らぬ男性の名前の下に楓の名前が印字されている。

「五月九日なんだけど、琴子も来れそう?」

「うん、楓の花嫁姿が見たいし」

「あー、早紀もここにいたらなあ。卒業してから五人で集まったことないよね」

 愛美が寂しそうに呟く。

「高校の時はあんなになつみと早紀は仲良かったのに……何かあったの?」

 琴子の質問がやけに耳についた。

 私と早紀がどんな関係だったか知っているはずなのに、よく言う。


 仲良く、なんてものじゃない。

 初めてのキスもセックスも、人を愛するということも、全て早紀と経験した。

 あんなに愛していたのに――いや、愛していたからこそ、私は早紀が怖くなって逃げるように連絡を絶った。


 私は首をかしげながら琴子を見やる。

「うーん、早紀が東京に進学してだんだん疎遠になった感じ?」

「まあ、思春期だったしいろいろあるよね。そういえば早紀と同じ大学の人が最近うちの部に異動してきたから、ダメ元で聞いてみるか」

 愛美がそう言いながらスマホを操作した。


 それから一時間ほどして、ラストオーダーの時間になった。

「この後どうする? 私はもう結羽の寝かしつけがあるから帰るけど」

「私もこれから啓太くんと披露宴の席とか決めるから、ここで帰るわ」

 愛美と楓のやりとりを見つつ、スマホを触っている琴子の様子を窺った。

「じゃあ琴子、この後二人でどう?」

 内心の緊張を悟られないよう、私は笑顔を作った。琴子は全くの予想外だったような顔をして驚いている。

「ほら、琴子とは久しぶりすぎて、まだまだ話し足りないし」

 ダメ押しで言うと、琴子はスマホをバッグにしまい、頷いた。

「うん、私ももっとなつみと話したい。行こう」


 愛美と楓に見送られ、私たちは更に繁華街の中心地へ向かって歩いた。

「この先にカクテルとパフェが美味しいバーがあるの」

「いいね」

「時間大丈夫だった? ほら、さっきスマホで誰かに連絡してたみたいだったし」

「ああ、彼女に連絡していたの。今日は実家に帰るだけだから大丈夫」

 さらりと琴子がそう言ったのでなんだか動揺してしまう。

「いるんだ、彼女」

「うん。まだ付き合い始めて三ヶ月くらいだけど。なつみは?」

「私は今ひとり」

 以前付き合っていた子と行ったバーはビルの二階にひっそりとあり、知る人ぞ知るという風情なのに、パフェ目当ての女子たちでほぼ埋まっている。運良く空いていた隅の二人がけの席に座り、私はモヒート、琴子はカンパリオレンジを注文した。

「ごめんね、彼女にもうちょっと飲んでいくって一応連絡しておくわ」

 言いながら琴子はスマホに指を走らせる。

 薄暗い店内で、画面の青白い光が琴子の細い顎をぼうっと浮かび上がらせた。

「ずいぶんマメだね」

「高校時代の友達と会うって言ってるんだけど、結果を聞きたがってたから」

「結果って? ただの友達なのに、何か彼女が気になることでもあるの?」

 わざとそう聞くと、琴子はちらりと私を見た。

「……付き合う前に高校時代の思い出について話していたから、かな」

「思い出ってどんな?」

「いろいろ」

「ふうん。私と二人で飲んでるって知ったらやきもち妬く?」

「そうかもね。でもわかってくれると思う」

「ねえ、彼女ってどんな人?」

 カクテルが運ばれてきて、私たちはグラスを少し持ち上げて目線を交わした。

 ストローでフレッシュミントをかき混ぜてから飲むと、爽やかな香りが鼻に抜けた後に炭酸がしゅわしゅわと喉を洗うように落ちていく。

「会社の後輩。一つ下で、すごく頼りになる子」

「どっちから付き合おうって言ったの?」

「彼女から」

「いいなあ。やきもちまで妬かれて、愛されてるね」

 琴子はカクテルのせいなのか、照れているのか、赤い顔をして素直に頷いた。

 胸が疼くのはなぜなのか。


「――ねえ、琴子って私のこと好きだった?」

 琴子は言葉を失ったようにグラスを見つめたまま固まった。

「……突然どうしたの?」

 琴子は私が気づいていないと思っていたのだろう。

 そのさまよう視線を見て、私は彼女が自分のことを好きだったのだと確信した。

「早紀がそう言っていたから。もう一緒に帰れないってわざわざ琴子に言ったのも、早紀に言われたからだよ」


 教室で琴子たちがきゃっきゃと騒いでいるのを少し離れたところから微笑んで見つめていた早紀。

 引っ込み思案でクラスやグループの中心にはなれず、だからといって一人でいるのも寂しい私にとって、早紀は話しやすい相手だった。

 早紀は朝は一人でジョギングし、放課後になったらすぐにバスケ部の練習に行っていた。昼休みに自主練習をしていることもあった。

「なんで早紀はそんなにがんばるの?」

「だって私は背もそんなに高くないし、体格もよくないからその分努力しなきゃ」

「偉いなあ。私ももっと体力つけてテニスがんばりたいから、一緒に走ってもいい?」

「もちろん」

 朝に待ち合わせて二人で走るようになり、私は早紀にどんどん惹かれていった。

 

 秋の日射しが差し込む放課後の教室。

 私は琴子を呼び出した。私の背後には早紀がいた。

 それまで私は部活がある日は同じテニス部の琴子と一緒に帰っていたけれど、夏休みに早紀に告白した時、こう言われたのだ。

「じゃあ、琴子にちゃんと私と付き合うことと、もう一緒に帰れないって言ってね」

「そこまではっきり言わなきゃダメ?」

 入学してすぐに早紀、琴子、愛美、楓と同じ掃除の班になったことをきっかけに五人のグループが出来て、私たちは放課後までいつも一緒に過ごしていた。

 五人の関係を壊したくなくて戸惑いつつそう言うと、早紀は「何もわかってないんだ」と呟いた。

「琴子はなつみのことが好きなんだよ。だから経験もないくせにテニス部にも入ったんじゃん。ちゃんと琴子を振ることができるなら、なつみと付き合う」

 ――告白されてもいないのに振るなんて。

 でも、すでに狂おしいほど早紀に恋していた私にとって、彼女の言葉は絶対だった。その時から私は早紀のいいなりになったのかもしれない。

 早紀が見ている前で私は琴子に、言われたとおりの言葉を告げた。


「そうだったんだ……」

 少し苦笑して琴子はグラスに口をつけた。

 濃いオレンジ色のアルコールが琴子の形のいい唇に吸い込まれていく。

「うん、なつみのこと好きだったよ。やだな、早紀にはお見通しだったんだ」

「だから私と早紀が付き合った後、テニス部を辞めたの?」

「そう」

「卒業した後、私を避けていたのも私に失恋したから?」

 琴子は顔を両手で覆った。

「答え合わせやめてよ、死ぬほど恥ずかしいんですけど……」

 私は思わず笑いながらもう一つ付け加えた。

「今日私に会おうって思ったのは、可愛い彼女が出来て自信がついたから?」

「そんなんじゃないけど……もうやめてったら」

 耳まで赤くなったところを見ると図星なのだろう。

 私は満足してモヒートを飲んだ。


「じゃあこっちも聞かせてもらうけど。早紀と何があったの?」

「特に何があったってわけじゃないんだけどね」

 嫌いになったわけでもない。別の人を好きになったのでもない。

 でも、私はだんだんと早紀が怖くなっていった。

 早紀はそれまで私が持っていたものを自ら手放させることで、自分への愛を試すようなところがあった。


「お互いに初めて付き合ったから、夢中になっちゃったんだよね。一年生の時はまだなんとかなってたけれど、二年生になってだんだん私も早紀も成績が下がっていって。受験に向けてがんばりなさいって言われて夏休みに夏期講習も申し込んだのに、親に嘘ついて二人で東京まで遊びに行って、バレて、すごく叱られたの」

「なつみも早紀も物静かだったのに、結構思い切ったことしてたんだね」

 ほとんど親に反抗したこともなかった私に、早紀は私を好きならたった一日くらい一緒に東京に行けるはずとけしかけ、私たちはお互いの家に泊まると嘘をついて、長距離バスで東京へ向かった。

 話していると、ずっと考えないようにしていたあの頃の日々がありありと蘇ってくる。

 グラスが空になり、私はソルティ・ドッグを頼んだ。

「うん、親たちはまさか私たちが恋人関係だとは思ってなかったけれど、早紀が私に悪い影響を与えるからもう付き合うなって言ってね。早紀の親にも、二度と娘に近づかせるな、今度何かあったら学校に訴えるって言ってた」

「学校に言われてたら大変なことになっていたよね」

「うん。部活にも身が入らなくてテニスも勝てなくなっていたし、親はずっとおかしいと思っていたみたい。それからは私は部活の後はほぼ毎日塾に行って、なんとか成績も持ち直して大学に受かったの」

「早紀が東京に志望を変えたのもそれが原因?」

「うん、そう」

 

 早紀はそれまで私と同じ地元の国立大を志望していたけれど、二年の二学期から突然東京の私大に志望を変えた。

 早紀は一人っ子で経済的にも余裕があったから、早紀の両親は娘の関心を私から他に向けようとして東京に行かせることにしたのだろう。

 好きになったのは私だったけれど、早紀はどんどん私にのめり込んでいった。親に止められても、早紀は私に執着した。

 それまでのように互いの家で会えなくなり、放課後は部活と塾でほとんど二人の時間がなくなった私たちは、誰もいない校舎の隅でキスを交わしたり、鍵をかけた部室で慌ただしく触れあったりした。


「知らなかった。いろいろあったんだね」

 すまなそうな顔をする琴子に向かって、私はにやりと笑って見せた。

「琴子だって萌子先輩と付き合ったりして忙しそうだったもの。私に関心なくしていたんでしょう」

「そんなこと――教室ではいつもなつみと早紀は仲良くしていたし、私だって青春したかったんだよ」


 また耳まで赤くする琴子が可愛かった。

 ふと思う。――琴子はどんな顔をして年下の彼女を抱き、あるいは抱かれるのだろう。琴子が乱れる様を見てみたいし、琴子に乱されたいとも思った。

 私が誘ったら、琴子は乗ってくるだろうか。

 もう彼女がいるとしても、何年も私を避け続けたほど、私への何らかの思いが残っていたのだ。

 今の私を見て、何も感じていないのだろうか。


「でもそんなに好きだったのにどうして早紀と別れたの? やっぱり遠距離になったから?」

 琴子に聞かれ、はっと我に返る。

 自分を占めようとしていた邪な考えに一人で笑ってしまった。

「どうしたの?」

 琴子が不思議そうな顔をしながら、手を挙げてさくらんぼパフェを注文した。

「早紀は私にも一緒に東京に行って欲しかったみたい。でもうち、弟も妹もいたから私だけにそんなにお金かけられなかったし、結婚までは実家にいるもんだって言われていたから、東京に行きたいなんてとても言えなかったの。そうしたら早紀は、私のこと本当に好きじゃないんだって、よく責めるようになって……」


 卒業式の日、私以外の四人はすでに進路が決定していた。早紀は東京、琴子は札幌の私大、楓と愛美は地元の私大へ。国立大の合格発表はまだだったから私だけナーバスになっていて、四人のようには卒業の寂しさに浸ることはできなかった。

 五人でさんざん記念撮影をして別れた後、早紀は私を連れて校舎の外れの階段下に行った。

「ここで数え切れないくらいキスしたね」

と言いながら早紀は私に唇を寄せた。

「なつみの合格発表、私も一緒に行く」

「え、いいよ、もし不合格だったら恥ずかしいし……」

「だから一緒に行きたいの。だめだったら私が慰めてあげる」

 でも本当は、早紀は私が不合格であることを望んでいたのではないか。

 そしてもう一度東京に誘うつもりだったのではないか。

 結局一緒に行った合格発表で私の番号を見つけた時、早紀は呆然としていたし、私はそんな早紀を気にして思いきり喜ぶことができなかった。

 でも、その時私の心には、早紀と離れる寂しさよりも、新たな世界への希望が広がっていた。

 そして四月になり、大学生になって新しい世界に飛び込んだ私は、東京から何度も来るメッセージに返信したりしなかったりしながら、ある日携帯番号を変えて早紀と連絡を絶ったのだった。


「私は早紀から逃げたくなっちゃったの。自分から好きになったくせにね」

「そういう気持ちもわからないでもない」

「琴子も私から逃げたから?」

「まあね」

 琴子は苦笑しながら赤いさくらんぼを口に運んだ。

 私たちの間に、何か新しい関係性が生まれかけているのを感じた。

 まだ幼かったから持て余し、見ないふりをして閉じ込めてきたものを、何年も経て再会した今だからようやくつかめたような――温かな友情のような何かを。


「その後、なつみはいい恋してきた?」

「ううん……何人か付き合ったけれど、長続きする恋愛はできなかったな。なんだかいつも早紀と比べちゃう感じで。初めての恋人だったからかな?」

 今までこんなことを話せた相手はいなかった。身を乗り出して琴子の顔を見ると、琴子も遠い目をしてため息をついた。

「ちゃんと好きになったのも、振られたのもなつみが初めてだったから私も引きずったのかも。まあ正確に言うと、私は選ばれない人間なんだなって思っちゃって」

「え、そうなの?」

 琴子は物憂げに頷いた。

「テニス部も一緒だったし、私は五人の中では一番なつみと仲がいいって勝手に自信があったんだ。でもなつみは早紀を見ていた。それから、なんとなく自分が好きになってもだめなことが続いて、私って好きな人から選んでもらえないんだって自信を失ってた」

 なんだか申し訳ない気持ちになって私が黙ると、琴子は慌てたように付け加えた。

「でもね、今付き合っている恵麻が……もともとすごく気が合う後輩でよく遊んでいたんだけれど、実は何年も私を好きでいてくれたみたいで。先輩のほうが私を眼中に入れてくれなかったって言われちゃった」

「彼女が琴子を選んだってわけね。可愛い彼女じゃない」

 琴子は笑みをこぼして頷いた。

 ああ、本当に琴子は彼女のことが好きなんだ。そして愛されて幸せなんだ。

 だからこんなに綺麗になったんだ。

 でもまだ私の胸のどこかにある疼きが、それを素直に琴子に伝えさせなかった。


「うん。恵麻が、帰省するならなつみさんに会ってきたらって言ったの」

「初恋の決着をつけてこいってこと?」

「そういうことを言いたかったんだろうね。――ねえ、〈片月見〉って知ってる?」

「知らない」

「恵麻が古典で習ったって教えてくれたんだけれど。仲秋の名月の次の十三夜を〈のちの月〉って言うんだって。仲秋の名月と後の月は同じ場所で見ないと〈片月見〉と言って、縁起が悪いとされたみたい」

「後の月……」

 その美しく密やかな響きを私は反芻した。

「琴子さんは初恋の後の月を見てないんじゃないかって。だからちゃんと終わらせられなかったんじゃないかって言われたの」


 降り積もっていった思い。言えなかった言葉。心に波紋のように浮かんだ後悔。


 早紀、ごめんね。

 あなたほど私を愛してくれた人はいなかったのに、あなたの思いの強さから私は逃げてしまったね。

 早紀から自由になりたかったのに、一人になった私は空っぽになったようだった。

 あれほど激しい恋を最初にしてしまったから、もう私は誰とも深い恋愛ができなくなってしまったのかな。

 逃げたつもりで、私はまだあなたとの思い出に囚われている。 

 早紀はもう、私のことは忘れた?


「――私も片月見になっているかも知れない」

 そう言うと、琴子は無言で微笑んだ。


 気づけばもう二時間ほど経過して、終電の時間が近づいていた。

 会計を済ませ、私たちは駅に向かった。

 火照った頬に夜風が心地いい。見上げれば、春の夜空に朧月がぽっかりと浮かんでいた。

「綺麗な月だね。秋ではないけれど、これが私の後の月かな」

 横を歩く琴子がそう呟く。

「琴子は私と会ってすっきりした?」

「うん、会ってよかった。記憶の中のなつみより大人のなつみはすごく話しやすくて、なんだか腹を割って話せた気がするよ」

「うん、私も――」

 私は息を吸って思い切って言った。

「琴子、とっても綺麗になったよ。今幸せだからだと思う。こんなにいい女を好きにならなかったのが勿体なかったって思うぐらい。恵麻さんを大切にね」

 琴子はぽかんとした後、あははっと明るく笑った。

「嬉しい言葉だけれど、恵麻に言ったらやきもち妬くなあ」

「そういう惚気が余計なんだって」

「あはは、ごめん。……なつみも、早紀とまた話せたらいいね」

「そうだね。でも、早紀の連絡先すら知らないし、どうしようもないけれど」

「わからないよ。探していれば、ふいに繋がるかも知れないじゃない」


 その時、お互いのスマホが振動した。

 顔を見合わせ、立ち止まって画面を確認すると、愛美からグループへのメッセージが表示されていた。

〈なんと、奇跡的に私の会社の人から何人か経由して早紀と繋がりました!〉

 琴子と私は同時に「えっ」と声を上げた。

〈早紀、今は名古屋にいるんだって。みんなのこと懐かしんでる。もしみんながよければこのグループにも招待しようと思うけれど、どうかな?〉

〈やるじゃん愛美! 私は賛成〉

 愛美の提案に楓がすぐに反応した。

「どうする? なつみ」

 スマホを持ったまま、琴子は私に問いかけた。

 動悸が速くなる。ついさっきまで早紀を懐かしく思い、また会えたらと願ったくせに、いざとなったら再び怖じ気づいてしまう。

「……早紀は私を許さないと思う」

「二人ともまだ高校生だったんだもの。もうお互い大人になったんだから、なつみがどんな気持ちでいたかを話せば、早紀はきっと理解してくれるよ」

「そうかな……」

「なつみも早紀と会って、ちゃんと初恋の後の月を見たらいいよ。それがなつみのためにも、早紀のためにもなると思う」

 琴子の力強い言葉を聞いても、私はスマホを抱き締めるように持ったまま逡巡していた。 

「それとも、なつみはこれからも逃げ続けるの?」

 ――結局、私は逃げられなかったのだ。早紀からも、あの鮮烈な初恋の記憶からも、早紀を切り捨てたという自分の罪悪感からも。

「……私、早紀と話したい」

 絞り出すようにそう言うと、琴子は微笑んで画面に指を走らせた。

〈私も賛成〉

 画面に表示された琴子のメッセージを見ながら、私も入力していく。

〈愛美、ありがとう。ぜひ早紀を招待して〉

 今度こそ逃げずに、ちゃんと早紀にも、自分にも向き合いたい。

 それが長かった初恋の終わりになるのか、新しい関係の始まりになるのかはわからないけれど。


「あ、さっそく早紀が入ってきたよ! すごく嬉しいって」

 はしゃぐ琴子の声を聞きながら、夜空を見上げた。

霞がかった空に月の光が柔らかく反射している。

 早紀に伝えたい。

 私たちの後の月を一緒に見よう――と。

      〈終わり〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

後の月 おおきたつぐみ @okitatsugumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ