歪(ゆが)んだ窓

執行 太樹

 




 もうすぐ定時になる。壁にかけられた時計を見て、私はそう思った。周りは忙しく、パソコンとにらめっこをしている。みんな、ただただ目の前のキーパッドを黙々と叩いている。そんな同僚を尻目に、私は荷物をまとめ始めた。

 残業するなんて、馬鹿馬鹿しい。私は、自分の時間を大事にしたい。会社のために働くなんて、まったくもって御免だ。今日は、急に休んだ後輩の業務を肩代わりした。その業務がまだ残っていたが、定時で帰ることにした。残業する者は、自分の業務を上手くこなせない、馬鹿者だ。

 時計が17時を指した。私は、お疲れ様ですと誰かに向かって伝えるわけでもなく、一声言って、部屋を出た。返ってくる言葉は無かった。私は気にしなかった。

 この会社に入社して、5年目になる。仕事にも慣れてきて、部下も増えた。パソコンの知識に詳しいという理由で、今はデータ管理という業務の、小さいチームのリーダーを任されている。

 私は、無駄なことはしたくない性格だった。このデータ管理のリーダーという役割も、不服だった。パソコンの知識など、自分で調べれば、いくらでも身に付けられる。自分で扱ったものは自分で管理するのが常識であり、そもそも人に頼るようなものでは無い。データ管理チームなど、必要の無い組織だ。馬鹿馬鹿しい。


 帰りの電車の中で、車窓から見える夕日を眺めていた。私は、ふと幼い頃に母に言われた言葉を思い出した。

 自分のことを大切にしなさい。

 それは、ある日の夕方、母と2人で手を繋いで家に帰っていたときだった。下を向いていた私に、母はそう言った。

 私は、1人っ子だった。物心がつく前に、両親は離婚した。理由は分からない。私は、母に女手ひとつで育てられた。小学校のころ、友だちがいなかった私を、母はいつも学校まで迎えに来ていた。先ほどの言葉も、母と共に家路についていた、ある日に言われたものだ。

 私は、母に大切に思われていた。日に日に成長していくあなたを見て、嬉しく思う。小学校の卒業式が楽しみだ。母は私に色々話しかけていた。

 しかし母は、私が小学校を卒業する1ヶ月前に亡くなった。祖父母は不慮の事故だったと言っていた。本当の理由は、未だに分からない。

 私はその後、祖父母に育てられた。祖父母は、私を大切にした。しかし、どこか気を遣っているように、私は感じていた。

 ある日の夜、私が居間の前を通りかかったとき、祖父母が私のことを話していた。幼くして両親を失くした私のことを、可哀想だと話していた。そうか、私は可哀想だったのか。

 高校を卒業して、私は祖父母から離れ、独り暮らしをした。そしてこの会社に就職し、今に至る。


 翌朝、急に上司に呼ばれた。私は、前日に仕事を無断欠勤した後輩の業務の肩代わりがまだ終わっていなかった。こんな忙しい時に呼ばないでほしいと、私は嫌な顔をした。上司に、2人きりで会議室に案内された。上司の話だと、なにやら、先日に無断欠勤した後輩のことであった。その後輩は精神的に参ってしまっていたそうだ。上司から最近何があったのかを尋ねられた。

 はい、私はこう言いました。お前は仕事が遅い、お前のせいで私を含め、周りが迷惑している。みんなの邪魔をするな、と。

 私は、正直に答えた。当たり前なことを言ったに過ぎなかった。むしろ、こっちに謝ってもらいたいぐらいだ。人の迷惑を考えず、急に休むなんて。

 上司は、この事は上の者に伝えておく、と言った。何をどう上に伝えるのか分からないが、私は早く自分の業務に取りかかりたかったため、わかりました、とだけ言って、会議室を出た。会議室を出るとき、後ろから上司のため息のようなものを聞いたが、私は構わなかった。

 私は、言いたいことは相手に伝えなければならないと思っている。自分のことを大切にするためには、自分の思いを皆にわかってもらう必要がある。自分のことを、わかってほしい。ただそれだけなのだ。それがどうしてか、周りの人には理解してもらえないことが多い。実に生きづらい世の中だ。

 1年前にも、こんなことがあった。私の隣のデスクに、新入社員が来た。その新入社員は、真面目な性格だった。毎日分からないことを私や周りの先輩に教えてもらっていた。いつもバタバタと働いているため、私は、もう少し静かに働けないのか、目障りだと伝えた。

そう伝えたら、次の日から新入社員の席は違う所に移されていた。


 上司の話が終わったあと、私は会議室を出て、廊下を早歩きで歩いた。

 どうして皆、私の気持ちが分からないのか。私は、自分の思ったことを正直に言っているまでだ。それだけなのに、周りの者が勝手に私から離れていく。そして、その者の勝手のせいで、私が負担を背負わされる。こんな不公平なことがあるか。私は、ただ自分を大切にしているだけだ。周りの者は、結局のところ自分のことしか考えていないのだ。

 私は間違っていない。私は、間違っていない・・・・・・。気がつけば、廊下を歩きながら、私は自分にそう言い聞かせていた。

 ふと立ち止まり、廊下の窓から外を見下ろすと、見える街の景色が、なぜか少し歪んで見えた。


 くそ、実に馬鹿馬鹿しい。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

歪(ゆが)んだ窓 執行 太樹 @shigyo-taiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る