狂乱した女

増田朋美

狂乱した女

暑い日であった。それしか言いようがない暑い日であった。静岡で、39度を記録して、観測史上一位になるなんて誰が考えていたことだろうか?それくらい暑い日であった。そんな日は、どこにもいかないのが一番安全だと、いろんな偉い人がそう言っているが、でも、そうはいかないというのが現状でもある。人間の欲というのは、気候で止められるものでは無いらしい。じゃあ何が止めるんだというが、どうもそれは、できないものであるらしいのである。

その日も、杉ちゃんたちは、いつもと変わらず製鉄所へ行って、水穂さんの世話をするという行為を繰り返していた。相変わらず、水穂さんは杉ちゃんの作ったご飯をなかなか食べようとしてくれないので、もういい加減にしろとか、食べないと力が出ないですよとか、一生懸命言い聞かせていたのであるけれど。

「それにしても、今日は、ほんとに暑いねえ。」

と、思わず杉ちゃんが口にしてしまうほど暑い日であった。

「もう暑いのはどこの地方でも同じなんですから、とにかくですね、ご飯を食べてください。」

と、一緒に居たブッチャーこと須藤聰が、そう言って、水穂さんに、ご飯の入ったお匙を無理やり突っ込んだのであるが、水穂さんはそれを食べてくれることはなく、咳き込んで吐き出してしまうのであった。吐き出したのは、食べられなかったご飯ばかりではなく、赤い朱肉のような液体が流れてくるのである。ああまたやったと、杉ちゃんが言うと、ブッチャーは用意していた雑巾で水穂さんの口元を、拭き取ってあげた。

「ああ全く、暑いですねえ、ホント、ちょっと動いただけでも汗が出ますよ。着物は、汗を出さないようにさせるといいますが、それも、難しいのですかねえ。水穂さん、暑さで食欲でないのはわかりますよ。だけど、体力をつけるために、ご飯を食べないと。もう一回、頑張って食べてくださいね。」

ブッチャーが、もう一度、ご飯を食べさせようと、お匙をご飯の器に突っ込むと、不意に、ブッチャーのスマートフォンが鳴った。

「あら、どうしたのかな?」

と、杉ちゃんがいうと、ブッチャーはスマートフォンを取って、

「はあ、あれれ、東海道線で停電が発生ですか。運転見合わせかあ。暑いから、こういうこともあるんですね。まあ、よくあるということなのかなあ。」

と、入ってきたニュースを読んだ。

「そうなんだ。どっかで大雨が降ったわけでも無いし、暑いと、本当にいろんなことが起こるねえ。今年はというか、夏は何がなんだかわからない、変な季節だよ。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、また水穂さんが、咳き込み始めてしまったので、ブッチャーは、もう寝たほうが良いですかねえといった。杉ちゃんは、せめてご飯を食べさせてからのほうが良いんじゃないかと言ったが、水穂さんはもう座っていられないような状態であったので、ブッチャーは仕方ないと思い、布団に寝かせてやるのだった。

その頃、ブッチャーの実姉の須藤有希は、函南駅近くにある、カウンセリング事務所に行くために、東海道線に乗っていた。ちょうど、帰りの電車に乗って、家に帰る途中であった。有希が函南駅から乗車して、三島駅に向かっていたが、数分走ったかと思ったら、電車が急ブレーキで止まった。

「ただいま前方の電車が停電した影響で、運転を一時見合わせております。」

と、間延びした声で車掌が言っているのが聞こえてきた。それがなんだか、すごい間延びした声で、あまり危機感は少ないように見えたのであるが、有希が、窓から外を眺めてみると、そこは山の中で、鉄橋の上だった。周りの乗客もどうしたんだろうねといい始めてきたのであるが、有希は、ものすごく恐怖を感じてしまった。有希は、ものすごい感情を頭の中で湧き上がってきてしまい、思わず座席の上に座ったまま、ギャーッと叫んでしまった。

周りには、五人ほどの乗客が乗っていて、どの人も、みんな平気な顔で座っていたのであるが、有希が叫ぶと、みんな彼女を怖がって、隣の車両へ逃げてしまった。どうせ、函南駅なんて、乗車する客も少ないものなのだ。近くの三島駅や、熱海駅であれば多くの客が乗ってくるのであるが、有希が乗っているのは、先頭車両である。有希はなぜか、電車とホームの隙間が開いているのを怖がる癖があり、先頭車両にある、車椅子用の入口から電車に乗るようにしていたのであった。だから結局、先頭車両に乗っていたのは、有希一人になってしまった。そうなると、彼女は余計に怖い気持ちが増大してしまったのだろう。また電車の中で、ギャーッと金切り声をあげて、自分の顔を痣ができるまで殴った。不思議なもので、人間は、恐怖を感じると、人を何とかするということではなく、自分を叩いたり殴ったりしてしまうものらしい。よく自閉症などの人を扱ったドラマで、そういう暴力的なシーンがあるが、有希もそうなってしまうものだと思う。近くの車両から、その有り様を見た車掌が出てきて、どうされましたかと質問するが、有希には通じなかった。

「すみません!聞こえますか!」

と車掌は、有希に言うのであるが、有希には聞こえないようで、彼女は叫び続けるだけであった。隣の車両の人達も、何事だと言う顔でそれを眺めている。有希は、車掌の前に両手を差し出して、

「ご迷惑かけてすみません!殺してください、殺して殺して!」

と、言うのであったが、車掌もどうしたら良いのかわからないと言う顔をしていた。車掌はとりあえず、有希が持っていたカバンを取って、彼女の持ち物を確認した。そして、彼女の名前が、須藤有希であって、住所は、静岡県富士市であることを確認する。そして、家族の中に須藤聰という弟がいることを確認した。車掌はとりあえず、持っていたスマートフォンで、電話をかけ始めた。

ブッチャーが、水穂さんを布団に寝かしつけたのと同時に、電話がなった。ブッチャーは急いで電話を取って、

「はいはい須藤ですが?」

と、電話に出てみると、

「こちら、JR東海ですが、須藤有希さんという女性は、あなたのお姉さんで間違いありませんか?」

という声が聞こえてきた。

「はい。有希は俺の姉でございますが、姉がなにかしたんでしょうか?」

ブッチャーがそう言うと、

「はい。お姉さんが電車内で狂乱状態になったため、ただいまドクターヘリで、搬送させていただきました。搬送先は、伊豆函南病院です。お手数ですが、身元を引き取りに来ていただけないでしょうか?」

と、声が聞こえてきた。

「それでは、俺の姉ちゃんがそういうことをしたんですか?」

ブッチャーが思わずいうと、

「はい。お姉さんは、いまごろ函南病院についていると思いますよ。」

と言われたので、ブッチャーはわかりました、すぐ行きますと言って、急いで出かける支度を始めた。杉ちゃんがどうしたんだと聞くと、

「いや、姉ちゃんが、電車の中でまた狂乱状態になったようなので、身元を引き取りに来いと電話があったので。」

とブッチャーはわかりきった様に言った。

「そうか。それは大変だな。それでは一人だけでは心細いだろ、僕も一緒に行くよ。」

そういう杉ちゃんに、ブッチャーは本当は杉ちゃんが居てくれたら、非常にありがたいと思うのだが、杉ちゃんは歩けないので無理だと言った。でも、杉ちゃんは、こういうときは一人より二人のほうが良いという。ブッチャーがどうしようか迷っていると、

「僕のことは、他の人になんとかしてもらうように頼みますから、杉ちゃんと須藤さんは、お姉さんのところに行ってあげてください。」

と細い声でそういう声がした。誰の発言かと思ったら、水穂さんだった。

「でも、水穂さんのご飯を食べてもらうこともしてもらわないと困るんですよ。」

と、ブッチャーがいうと、

「それなら、もうすぐ利用者さんたちも帰ってくるはずです。こういうときは、非常時ですから、二人で行ったほうが良いと思います。」

と、水穂さんはきっぱりと細い声で言った。こういうときは、水穂さん、なかなか雄弁だ。その顔を見たブッチャーは、行くことを決断して、杉ちゃんを車椅子ごと自分の車に運び、後部座席に座ってもらって、自分は運転席に座って運転を開始した。とりあえず、今の車にはカーナビというものがあるので、二人を道を間違えることはなく、函南病院に連れて行ってくれる。ブッチャーも杉ちゃんも、緊張した感じの顔つきで、なにも言わないで、車に乗っていた。

ブッチャーたちが、伊豆函南病院に到着すると、函南病院は、精神病院というところだったが、なんだか病院というより、強制収容所という感じがする建物であった。ブッチャーは、杉ちゃんの車椅子を押して、伊豆函南病院の受付へ飛び込んだ。

「あの!姉が、こちらに運び込まれたと聞いたものですから!」

とブッチャーがいうと、

「須藤有希という女性がここへドクターヘリで運び込まれたと聞いたんだがね。」

杉ちゃんは冷静に言った。すると受付係は、すぐ電話を取って、どこかへ電話をかけ始めた。どうやら電話の相手は、医師とか看護師とか、そういう人たちだろう。電話かかりは電話を切って、

「いま、A3病棟にいるそうですから、そちらへ行ってもらえますか?」

と杉ちゃんに言った。

「そうか。じゃあ、悪いけど、案内してもらえんだろうか?僕らは歩けないから。よろしく頼むぜ。」

と、杉ちゃんがでかい声でそう言うと、受付係は流石に自分では行けないと思ったのだろうか。こちらですと言って、杉ちゃんたちを、エレベーターのところに連れて行った。そして、エレベーターのボタンを押して、杉ちゃんたちをエレベーターの中に入れた。杉ちゃんたちがその通りにすると、三階のボタンを押して、エレベーターを出ていってしまった。

「おい!冷たいぞ。そんなことで、有希さんが、喜ぶと思う?」

杉ちゃんはそういうけれど、ブッチャーは理由が何となく分かると言った。誰でも狂乱状態になった女とは顔をあわせたくないというのが、理由の一つとしてあげられるだろう。だけど、それだけで、こういう冷たい態度を取られるというのは、ちょっと困ると言う杉ちゃんの主張も理解できないわけではない。

杉ちゃんたちは、三階でエレベーターを降りると、眼の前に厳重に鍵がついているドアが飛び込んできた。御用のある方はこちらのボタンを押すようにと言う張り紙がしてあったので、杉ちゃんは何も抵抗なくボタンを押した。すると、乾いた声で、

「はい、どんな御用でしょうか?」

と聞こえてきたので、

「あの、須藤有希さんという女性がこちらに保護されていると聞いたもんだから!」

と杉ちゃんがいうと、

「少しお待ち下さい。」

という声がして、ギイっと音を立てて、杉ちゃんたちの眼の前のドアが開いた。杉ちゃんとブッチャーは、それを利用して中に入らせてもらった。中に入ると、聞こえてきたのは、ギャーという声であった。中には男性なのか女性なのかわからない、短い髪をしている、青いジャージ上下を着た人たちが、病棟の中をウロウロしているのが見えた。その中から、一人の若い男性と、一人の若い女性が、ブッチャーたちの方へ近づいてきた。多分医師と看護師と思われるが、こんな若い医者が何になるんだというくらい頼りなさそうな人たちだった。でも、病棟の医者なんてそんなものだ。ましてや、そういう人たちがいる病院なのだからなんだか若い医師の島流しのような場所と言われても仕方ない。

「あのね、僕は影山杉三で、こっちは、須藤有希さんの弟さんの、須藤聰さんだ。有希さんのことでJRから連絡があったので、こさせてもらった。」

と杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「はい、須藤有希さんなら、眠っていらっしゃいます。保護室におりますよ。目を覚ましたら、状態が安定するまで、お預かりする形でよろしいですか?」

と看護師が言った。精神というものは、そういうふうになってしまうものらしい。割と、入退院手続きは、簡単なのである。それはどういうことなのかというと、狂乱した女性を家においておくことはできないからである。

「いや、僕らが連れて帰ります。」

と、杉ちゃんは言った。

「有希さんは大事な僕の友だちだから、病院に閉じ込めておくことはしません。それは、逆に有希さんを悲しい気持ちにさせてしまうことになると思うので、僕らは連れて帰ります。」

「でも、車椅子の方ですし、彼女がまた暴れても、押さえられないんじゃないですか。彼女が、電車の中でどれだけ多くの人に迷惑をかけたと思っているんですか。それに謝罪さえできない人間は、実社会に出しても意味がないと思うんですが?」

と医師らしい人が言った。

「まあ、そうかも知れないけどさ。でも、有希さんは大事な僕らの友だちだ。目が覚めたら、一緒に帰ってもらう。それまで僕らは有希さんのそばにいる。もし、ここで、だめだったら、他のところで待たせてもらう。それで良いだろ。よろしく頼むぜ。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、医師らしい男性は、ブッチャーの方を見て、

「弟さんはどう思われますか?健常者としていくらでも意見を仰っていただければ。」

というのであった。なんだかそういうときに健常者と言う言葉を持ち出してしまうのがなんだか都合主義の病院という感じな気がするんだけど、ブッチャーはこういうときには仕方ないと思った。

「姉は確かに、障害者ですし、いろんな人間に迷惑をかけることもありますが、姉は、俺達の大事な家族ですし、俺は、そんな姉を保護室に閉じ込めてしまうことは、それはしたくありません。きっと、麻酔を打ち込んで眠らせたんだと思いますが、それだっていつかは切れるということですしね。まあある意味、動物みたいなところもあるかもしれないけど、俺は、そうは思いません。俺の大事な姉だと今でも思っています。」

「そうですか。あれだけ、電車の中で大声を出して騒ぐということは、精神錯乱状態でもありますし、外へ出させるのはちょっと危険ということもあります。そういうことならしばらく、保護をしなければならないということでもあると思うんですがね。お姉さんは、しばらくこちらで預かったほうが良いと思うのですけどね。」

医師がそう言うと、

「いやあ、そういうことでもあるけどさ。それなら僕らが別の病院につれていく。幸いなことに、影浦先生もいるし、ちゃんと、彼女は医療を受けられるようになっている。それは、ブッチャー、つまりここにいる須藤聰さんが、ちゃんとやってくれる。だから、今日、彼女が目が覚めたら、彼女を連れて帰るよ。」

と、杉ちゃんは言った。

「でもね。」

と看護師が、杉ちゃんに言う。

「ご家族は、いつかは、永遠に分かれるということになるんです。だから、彼女だって、他の医療機関に引き渡したほうが良いと思うんです。そうすれば、彼女の自立にだって役に立つと思うんです。」

「僕は、有希さんの友達だよ。」

杉ちゃんはきっぱりと言った。

「ブッチャーは家族かもしれないけど、僕は有希さんとは血縁関係も何も無い。それでも、有希さんは大事な友だちだし、彼女を預かる医療機関だって、ちゃんと、確保してある。それに、有希さんを支援している、医療関係者は影浦先生もいるし、介護人として、素雄さんもいる。そういう福祉サービスに引き渡してくれる人もちゃんといる。だから、彼女を何とかする方法はいくらでもある。だからちゃんと考えているんだよ。決して、有希さんは、一人ぼっちで、何の頼るところもない孤独な精神障害者にはさせないよ。だから、こっちで生活させてやってくれ。そのほうが絶対、彼女はうまくいくと思うんだ。僕も、そうだからさ。きっと、どっかの施設に閉じこもってるよりも、ここでみんなと一緒に暮らしていける方が、良いと思うんだ。違うかい?」

医師も看護師も、変な顔をした。こんなことをいう患者さんの周りの人間はそうはいないと言いたいのだろう。みんなこれ以上暴力的なことをしないために、施設へというのが当たり前のような回答なのに、彼女を実社会へ連れて帰るというのだから。

「でも、彼女を外で生活させるのは、またつらい目に会うのではないかと思いますが?」

医師がそう言うと、ブッチャーは急いで、

「いえ、俺も彼の言うとおりだと思います。姉は、普通の人とは違うところもあるけれど、完全にそこから外れたわけではありません。きっと俺達以上に大事なこと忘れてないと思います。だから、俺は連れて帰ります。」

と、言ったのだった。

別の看護師が、ブッチャーたちの前へ来た。有希が、目が覚めたというのだ。黙ったまま何も言わないと看護師は報告した。杉ちゃんがすぐに、

「じゃあ、そういうことなら、僕らは彼女を連れて帰ります。きっと、こんなところに閉じ込めておくよりも、彼女は実社会で暮らすべきだと思います。そういうわけだから、一緒に帰ろ。」

とブッチャーに言い、ブッチャーも、

「俺の経験から言いますと、姉が脱走したことはほとんどありません。それに姉は病識もあり、薬だってちゃんと飲んでいます。ただ、どうしようもない恐怖に襲われてパニックになっただけです。俺達、連れて帰ります。」

と言った。医師も看護師もここまで意思の強い介護者は初めて見たようで、

「まあ、好きにしてくれ。」

と言っただけであった。もしかしたら、二人のことをおかしなやつだと見たのかもしれない。だけど、杉ちゃんもブッチャーもそれは平気だった。二人は、姉がいるところへ案内してくれと言って、その方へ向かって歩き始めた。もう夕暮れで、あの地獄のような暑さはとりあえず終わっていた。いくら暑い日であっても、一日は必ず終わりというものが来る。それは、誰にも変えられないだろう。気候が変動しても、何があっても一日は必ず終わり、一日がまたやってくるのだ。それが辛いのかそれとも楽しいのかは、誰が決めるのだろうか。もしかしたら誰にも決められないのかもしれない。

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