白ユリの花束が届けたモノ

よし ひろし

白ユリの花束が届けたモノ

 七月中旬の暑い朝、通勤の為に玄関から外に出ると、すぐ前の廊下の上に花束が置かれていた。白いの花束だった。


「なんだ…?」

 腰をかがめ花束を拾い上げて、左右に伸びる廊下を見る。人影はない。


 同じ階の他の部屋と間違って配達されたものか?

 そう思ってメッセージカードでもないかと探したが、見つからない。


 花束を貰うような人物は――このマンションに知り合いと呼べる人間は皆無だし、誰が住んでいるのかそもそもよく知らないので、誰宛であるかなど考えるだけ無駄だとすぐに気づく。


 バスの時間も迫っていたので廊下に置き直し、そのまま会社へと向かった。



 誤配に気づいて昼の内に正しい持ち主に渡されるだろう――そう思っていたが、夜、帰宅してみると花束はまだそこにあった。それも、俺宛であるかのように部屋の扉の真ん前に置かれていた。


「どういうことだ……」


 三十過ぎの独身男性である俺に、ユリの花束を送ってくるような相手に思い当たる節はない。付き合っている女性は――今はいない。誰かに、どこかで一目惚れでもされたか? などとうぬぼれるほどの容姿でもない。背も低く、顔も人並み、金もないし、才能もない。社会の歯車となって生活の為に日々くだらないデータ処理をしているだけのサラリーマン。白ユリの花束を贈ってくる相手など――


「ユリ……」


 嫌なことを思い出した。

 花は元々好きではない。そのうえ、ユリとなると見るのもイヤなほど嫌いだ、三年ほど前から……


「……ちっ」


 俺は花束を拾い、玄関を開け中に入ると、キッチンに置いてあるゴミ袋に乱暴に花束を投げ入れた。ゴミ袋もタダではない。こんなかさ張るもの本当なら外に投げ捨てたいが、そういうわけにはいかないだろう。他のゴミと一緒に押しつぶして、明日捨てよう。


「くそ、気分悪い」


 冷蔵庫から缶ビールを取り出して、一気に飲む。

 ユリのせいで思い出した嫌な出来事が頭をかすめる。それを振り払うように、その日はいつもより多めのアルコールを摂取し、帰りに買ってきたスーパーの弁当を食べ、風呂にも入らず早めに眠りについた。



 翌朝、アルコールの残る頭をすっきりさせようとシャワーを浴び、いつものようにトーストとミルクで朝食を済ませてから手早く身支度を終え、昨日の花束の入ったゴミ袋を手にして玄関を出る。


「な――」

 瞬時息が止まった。


 また花束が置かれていたのだ。昨日と同じ白いユリの花束が……


 何故? どういうことだ?


 疑問が頭の中を駆け巡る。

 廊下に出て左右を見る。やはり人影はない。


「……悪戯か? でも、誰が?」


 心当たりは――ない。恨まれるほど深い付き合いをしている人物はいない、今は。


「くそっ!」


 花束を蹴り上げる。そのせいか、ユリの香りが辺りに広がり、鼻腔をくすぐる。


 甘く優雅な香り――


百合香ゆりか――」


 ユリの香り――まさにそのものの名前を持つ女性の姿が脳裏に浮かぶ。その名前のごとく、白百合の様に白く透き通るような肌で、優雅な物腰の女性。栗色の長い髪を腰まで伸ばし、切れ長の目をした美しい人だった。

 三年前まで付き合っていた元カノだ。


「くそ、くそ、くそっ!」


 俺はユリの花束を滅茶苦茶に踏みつける。思い出した百合香の姿を消し去るように……


 ガチャ。


 どこかの部屋の鍵が開く音に、ハッと我に返る。

 ぐちゃぐちゃになった花束が目に入ってくる。


「……」


 俺は慌ててそのゴミとなった花束を、手にしていたゴミ袋に押し込み、何気ない様子でエレベーターへと歩んでいった。背後でどこかの部屋のドアが開き、こちらに向かって歩いてきたが、振り返らずにそのままエレベーターを待つ。足音は途中の階段で階下へと消えていった。どうやら運動の為階段を使うタイプの住人だったようだ。

 ほどなくエレベーターが到着。幸い先客がいなかったので中に乗り込むと、大きく息を吐き、悪態をついた。


「くそ、誰だ、誰なんだ…。まさか、百合香が――いや、それはない。あるはずがない。そうだ、彼女はもう――」


 すぐに一階に付き、外に出る。エントランスを出て右に曲がった所にあるゴミ置き場にゴミ袋を捨てながら、考える。


 一体誰が花束を置いているのか?


 わからない。なら、突き止めるしかない――



 その日一日、仕事に身が入らなかった。いや、いつものことか。今の会社の来てから、真剣に仕事をしたことなどない。生活に必要な金さえもらえればいいだけの仕事だ。

 そうしていつも通り適当に仕事をこなしながら、頭の中ではユリの花束のことを考え続けて、終業の時間となる。一秒たりとも残業をすることなく会社を後にして、家へと急いだ。


 どこに寄ることもなく真っ直ぐマンションへと帰る。自室のある五階のフロアでエレベーターを降りると、廊下の先、自分の部屋の前に置かれる花束が見えた。


「くそ、またか――」


 早足で廊下を進む。近づく白ユリの花束は、まるで事故現場などに置かれた死者を弔う花束の様に見えてきた。学校のいじめで机の上に花の刺した花瓶を置くかのように、たちの悪い悪戯なのか?


 花束を拾い上げ、手早く鍵を開けると室内に飛び込む。


「くそくそくそ!」

 玄関わきのシューズボックスに花束を叩きつける。


「誰だ、誰だ、誰だ――」


 はぁはぁはぁ……


 半分散った花束を手にキッチンに。シンクに花束を投げ入れると、引き出しからキッチンバサミを取り出した。


「こんなもの、いらない…。邪魔だ、くそ、消えろ……」

 悪態をつきながら、ハサミでユリを刻んでいく。


 ザク、ザクザクっ、ザク、ザクザクっ……


 白く長い花びらを細かく切っていく。

 その様子に、ふとある記憶が蘇る。


 白いもの、白い布、白い――服、そうだ、白い服を切り裂く光景。あれは、何だっけ? 白い服、ワンピースをハサミで切り裂く――その俺の耳に届く誰かの叫び…


『やめて、お願い、許して――』


「百合香……」


 あれ、俺は何を――


 ふと気づくとシンクの中に無残なほど細かく切り刻まれたユリの花の残骸が広がっていた。

 ハッとなって、ハサミをその場に落とす。


「俺は…、何か……、そうだ、百合香の声が――」

 ゆっくりと左右を見る。

 当然誰もいない。ここに住んでいるのは俺一人だ。二年ほど前に越してきて以来、他人が入ったこともない。それに、百合香がいるはずもない……


「……くそ、片さないと」

 散らかったゴミを片付けながら気持ちを落ち着ける。だが、湧き上がる怒りを抑えられない。

「誰だ、くそ、絶対に捕まえてやる…」

 きっと明日の朝も花束を置きにくるに違いない。そこを取り押さえてやる――

 俺はそう決意し、簡単に晩飯を済ませると、午前五時に目覚ましを合わせ、早々と床に就いた。



 そして、翌朝――

 目覚ましの音にしっかりと反応して目覚め、冷水で顔だけ洗って玄関のドアを開けた。


「くそ――!」


 すでに花束が置かれていた。

 花束を踏みつけ、廊下を見渡すが、人の気配はない。


 一体いつ――?


 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……


 血が頭に昇ってくる。

 許せない、こうなったら、徹底的にやってやる――


「ふ、ふふふ、見てろよ、必ず捕まえてやるぞ!」



 その日、俺は会社を休んだ。

 奴はきっと昼間にも花束を届けに来るに違いない。そう思い、俺は玄関の扉の前に座り込み、そいつが来るのを待ち構えた。

 食事もそこで取り、スマホを片手に暇をつぶしながら、正体不明の花束届け人が来るのを待ち続ける。


 だが――いつもの帰宅時間になってもそれらしき人物はやってこなかった。


「くそ、どういうことだ――」


 何度か廊下を進む足音はした。だが皆立ち止らず行き過ぎた。一度近くで足音が止まったので、来た! と思って勢いよく扉を開けると、隣の部屋の住人が帰ってきたところだった。まだ若い大学生ほどの女性で、黒縁の少し大きめなメガネの向こうから、何事かとこちらを見つめてきたので、慌てて誤魔化すように、

「あれ、宅配かと思ったが違ったか」

 と聞こえるように言い、そっとドアを閉じた。隣にあんな若い女性が住んでいるのを初めて知ったが、うまく誤魔化せただろうか? 

 とにかく、その一度以外怪しい物音はせず、結局無駄骨に終わった――かと、思えたが、


「な、なんで……」


 念のためにと外を覗いた視線の先に、いつもの白ユリの花束がしっかりと置いてあった。


「いつ、いつだ――」


 頭をフル回転させる。隣の住人が帰ってきた時は、当然花束はなかった。夕方、四時頃だったはず。

 じゃあ、その後だ。でも、俺はずうっと玄関前にいた。人の気配に気づかないはずはない――


「幽霊――、いや、そんなはず…、だが、まさか、百合香の――、いや、バカな、ありえない……」


 喉が渇く。悪夢を見ているようだ。


「いや、きっと何かがあるはずだ。トリックだ。何かが……。夕方過ぎ、あの後――」

 そこではたと気づく。

 隣の住人と出会った後、緊張で喉が妙に渇き、キッチンに飲み物を飲みに行った。用意していたペットボトルがちょうど空になっていたからだ。更についでとばかりにトイレに入って小便をした。


 数分の空白――


「あの時か……」

 それ以外に考えられない。幽霊が置いたという妄想より、現実味はある。

 だが、そんなわずかな隙に、偶然、花束を置けるのか――

 新たな疑問も浮かぶ。しかし、考えても仕方がない。実際、花束はそこにあるのだ。


「くそ…、よし、今晩だ。徹夜で見張ってやる……」

 俺はそう強く決意した。



 冷蔵庫にあった栄養ドリンクを飲み、更には眠気覚ましのカフェインタブレットを用意して、玄関前に陣取る。いつも通りの時間に室内の電気を消し、真っ暗な中、玄関の扉を見つめて外の気配に集中する。

 必ず捕まえてやる――その強い思いでその場を一秒たりとも離れずに、座り続けた。

 暗闇の中一点を見続けていると、果たして今自分が目を開けているのか、閉じているのか、わからなくなってくる。いや、目を開いているのはわかる。だが、視界が闇に覆われ、更に思考までが暗闇に染まってくるような感覚に落ちる。


 暗い、暗い闇、真っ暗な世界、何もない……


 意識が闇に引き込まれる。そんな感覚を覚えた時――


『暗い、暗いわ…。ここは、凄く暗いの……』


 声が聞こえた。地から響くような女の声。


『それに冷たいの……』


 ピチャ、ピチャ……


 水音が響く。


(なんだ、これは?)

 声が出ない。意識だけが闇に浮かぶ。


 ピチャ、ピチャ、ピチャ……


(足音? 濡れた、足音が近づいてくる?)

 背後から来る音に、振り返ろうとするが、ダメだ、体の感覚がない。


 ピチャ、ピチャ、ピチャ!


 すぐ後ろで濡れた足音らしきものが止まる。


『ねえ、暗くて冷たいの……。温めてぇ――』


 ピトッ――


 背中に何かが覆いかぶさる。冷たい――びっしょりと濡れている何かが……


「――――!?」


 息を呑む。そこで、意識がはっきりと戻った。


 闇に慣れた視界に、見慣れた自室の玄関周りの風景がしっかりと映る。


「夢……?」


 いつの間にか眠ってしまったのか。左腕のスマートウォッチを見ると午前三時三十三分。見事な三並びだな、などと思っていると、背中に触れるシャツが冷たいのに気づく。


「えっ?」

 手をまわし触れると、シャツがぐっしょりと濡れていた。まるで水でもかけられたようだ。


「な――」

 汗、ではない。前の方はまるで濡れてない。


 何だ、これは、一体、何が――


「夢、じゃない、のか……」


 先程の、あれは――


「百合香…、あの声は、百合香か……」


 はぁ、はぁ、はぁ……


 動悸が激しくなり、呼気が荒くなる。


 ありえない、ありえない、ありえない――

 何故、今更……


 はぁはぁはぁ……


 と、その時――


 カサリッ……


 玄関の外でかすかな物音がした。


「!?」

 来た! 奴だ。花束の送り主だ!


 俺は立ち上がり、素早く玄関のドアを開けた。


「――!」

 足元に白ユリの花束。そして、廊下を見ると、ひとりの女性が驚いたようにこちらを見ていた。見覚えのある顔。昨日の夕方見た、隣の住人だ。


「おまえかぁぁぁっーーー!」


 湧き上がる怒気を吐き出すように叫び、女へと跳びかかっていく。


「きゃっ!」

 短い悲鳴を上げて、自分の部屋に飛び込む女。

 ドアが閉じられる寸前に足をねじ込み、力づくで扉を開く。


「お前だったのか、花束を置いていたのは!」


「来るな、この変態!」

 女が叫びながら奥へと逃げる。


「まて、この野郎!」

 後を追う俺。


「来ないで、刺すわよ!」

 女を追ってキッチンに入った俺に向かって、包丁の切っ先が向けられる。


「う、な、なんだ、お前は――」


三輪隼人みわ はやと、お姉ちゃんを、秋元百合香あきもと ゆりかをどうした!」

 女が叫ぶ。

 その言葉に俺は驚き、目を見開いて女の顔をしげしげと見た。


「百合香の妹……?」

 メガネのせいで印象はかなり違うが、よく見れば顔立ちは似ている。

 だが、百合香に妹など――

「そうか、小さいころ離婚した母親が妹を連れて――確か北海道の方だったか?」

 記憶を手繰る。


「ふん、よく調べたわね、そんなことまで、このストーカーが!」


 ストーカー?

 何を言ってるんだこの妹は。俺と百合香は――


「恋人の家族のことだ、知っていて当然じゃないか」

 そう、百合香のことなら何でも知っているのさ。


「恋人? ふざけないで! 誰があなたみたいなチビで根暗な男と、可憐で美しいお姉ちゃんが付き合ったりするというの。不釣り合いな!」

「な――」

 あまりにもの言い様に言葉を失う。


「調べたのよ、あたし。姉ちゃんが失踪してからこの三年、暇があればお姉ちゃんの暮らしていた場所に通い、色々見て聞いて回ったわ」


「なら知っているだろう、俺と百合香が付き合っていたことを」

 そうだ、俺たちは周囲も羨むカップルだったんだ。


「確かにあなたはいつもお姉ちゃんの傍にいたようね、影の様に、ひっそりと。でも、恋人なんかじゃない。誰に聞いても、あなたはお姉ちゃんに付きまとう害虫。払っても払っても近づくハエよ。このストーカー蠅!」


「ハエ、だと――」

 甲高い声でまくし立てる女の姿を愕然と眺める。その姿に、百合香の姿が重なってくる。

 あれは、いつのことだったか――


『もう付きまとわないで! 言ったわよねこの間。私はあなたのことなどなんとも思っていないって。迷惑なの。近寄らないで!』

 美しい顔に怒気を浮かべて、いつになく声高に言う百合香の姿……


 あれ、違う、違うよ。だって、俺と百合香は付き合っていたんだから。そんなこと言われるはずはない……


「だ、黙れ…、はぁはぁ、その顔で、その声で、また――」


 また?

 違う、そんなこと言われたことない。


「うるさい、黙れ、俺の百合香は、そんなこと言わない!」


「俺の――はぁ? 何言ってるの、このストーカーが。お姉ちゃんをどうしたの! あなたしかいないのよ、怪しい奴は。お姉ちゃんがいなくなった後、すぐに会社を辞めて、しばらくしたら引っ越しもして――。やっと見つけたんだ。お姉ちゃんが好きだった白ユリの花束にあれほど動揺して――、お前だ、お前しかいない。お姉ちゃんを、どうした!」

 百合香に似た顔で、似た声で、怒鳴る女。

 彼女と同じ様に背も高く、俺を見下ろすようにして責めてくる。


 くそ、くそ、くそ、あの時も百合香はそうして俺を見下して――


「うるさい! 黙れ、消えろ!!」

 俺は目の前の女に跳びかかった。


「来ないで!」

 女が包丁を突き出すが、腰が引けたそんな攻撃など軽くかわせる。手首をつかみ、捻り上げて包丁を取り上げる。


「ふふ、舐めるなよ、男の力を。いくら俺より背が高くたって、所詮は女。男の俺にはかなわないんだ。見せてやる、俺の力を――百合香ぁ!」

 俺は女を、百合香を力づくで押し倒す。あの時と同じ様に……


「やめて、やめてよ。この、変態、バカ!」

『やめて、お願い、許して――』

 声が二つ重なる。

 映像も二つが合わさり、視界がブレて見える


「――ハハッ、そうだ、百合香、着ている服を切り裂いてあげるよ。邪魔だろ、そんなもの。二人、裸で抱き合うのに」

 手にしたハサミで白いワンピースを――おや、手には包丁、服はTシャツ?


 あれ、おかしいな……

 まあいいさ、これでまずは服をはぎ取ろうか。


 服の襟を引っ張り、包丁で裂く。


「やめろ、このくそ野郎!」

 女が激しく抵抗する。

 その目の前に包丁の切っ先を向ける。


「騒ぐな! おとなしくしてろ!」

 だが、女はなおも暴れ――


 つぅ……


 包丁の切っ先が触れ、頬に鮮血が流れる――


 血、紅い血……


 頭の中の記憶が呼び覚まされる。


 白い服を切り裂くハサミ。不意に暴れる女。

 その手が顔にあたり、カッとなる俺――

 そして、手にしたハサミでつい女の、百合香の胸を――


 白い服に広がる紅にシミ……


 ヴィジョンが次々と頭によぎる。


「あれ? お、俺は、百合香を殺した。いや――」


 では、目前の女は誰だ?

 必死で暴れる、この女は――ああ、百合香だ。


 なら、もう一度、殺さないと――


 俺は包丁を持つ手を振り上げた。


「いあやぁ、助けて、お姉ちゃん!」

 百合香が叫ぶ。


「ふふっ、助けなど来ないよ。だって、ここには二人しかいないんだから、百合香ぁ」


 百合香の胸目掛けて、包丁を振り下ろす。と、その手に何かが触れた。


 冷たい――


 一瞬で体が凍る。振り下ろしていた腕も、空中で止まった。


「へっ?」

 俺の腕をつかむ白い手が見えた。

 その持ち主を目で追う――


「百合香?」


 あれ? だって百合香は、俺の下に……


 でも、横で怖い顔をして睨みつけているのも、百合香……?


菜乃香なのかに、私の妹に手を出すな!』

 冷たく熱い怒りの声が脳髄に響く。


「あっ、ああぁぁ……」


 冷たい、凍える、水、水の中――


 光が消える。闇だ。世界が闇に包まれる。


 どこだ、ここは? 冷たく暗い世界――


「ああ、そうか、の底か――」


 百合香の死体を沈めた湖。俺の故郷にあり、小さいが、湖底がすり鉢状になっており、その中心はかなりの深さになっている。そこに沈んだモノは、二度と浮かび上がることはないと言われていた。


「はは、そうか、迎えに来てくれたんだね、百合香」


 暗い、冷たい、湖の底――


 息が、できない? 苦しい、あ、ああぁ……


 百合香、どこだ?


 ダメだ、何も見えない。何も感じない。


 百合香、百合香ぁ!


 応えはない。


 ああ、苦しい。どうしてだ、どうして応えてくれないんだ。


 こんなに愛しているのに、なぜわかってくれない。


 百合香ぁっーーーー


 ああ、暗い、寒い、ダメだ、もう……


 そして、何もかも、わからなくなった――




「だから、刑事さん、俺は百合香を殺してなんかいませんよ。愛しているんだ、殺すわけない」

 警察の取調室。そこで、何度同じことを言っただろうか。


「ストーカー? 知りませんよ。だって付き合ってたんですよ、俺たち」

 全くしつこい。俺が百合香を殺すはずがない。


「え、妹? ああ、あの女ね。あいつ頭が少しおかしいんじゃないですか? わざわざ俺の部屋の隣を借りて、俺の素行を調査してたんでしょ。ああ、そうだ、あの女こそストーカーですよ。そうに違いない。挙句には朝晩と謎の花束を玄関前に置きやがって。――そうか、あれは、愛情表現だったんですね?」

 百合香に妹などいない。そう、いないんだ。


「その女を襲った? 俺が? 違いますよ。正当防衛ですよ。あいつが包丁を向けて脅すから、つい。もう付きまとうのをやめろと言いに部屋に行っただけなんですよ。嫌だな、刑事さん、あんな女の言葉をうのみにして」

 本当に困る。しっかりと調べてもらわないと。


「湖? 死体? 百合香の――」

 何を言ってるんだ、このおっさんは?


「はは、冗談はやめてくださいよ。だって、百合香はここにいるじゃないですか。ずうっと、俺の横に立っているでしょ。いつも、どこでも、どんな時でも。ほら、今だって――」

 横に首を向ける。


 ほら、そこに立っている。白いワンピースを着た、可憐な姿の百合香が。美しい顔をこちらに向けて微笑んでいる。


 ああ、愛しているよ、百合香。そうさ、俺たちはいつも一緒さ、永遠に――……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白ユリの花束が届けたモノ よし ひろし @dai_dai_kichi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ